永長さつきは体が弱かった。生まれついて病原に弱い彼女は様々な病と合併症を患った。あまりに抵抗力に浅いため、長く生きられないとか何年後はもっと悪いだろうとか、そのように未来について同情されることが常であり、永長自身、それを疑ったことは一度も無かった。名だたる名医たちは、口を揃えて彼女の夭折を確信したのだ。
薄幸な彼女には夢があった。健康になったらやりたいことが、数え切れないほどあった。滅菌された書籍を白子のような指でなぞっては、極彩色の夢を夢想した。 花を育てることは、その中の一つだった。
永長が人生の多くを過ごしてきた病室に、生花を持ち込むことは禁止されていた。花粉が悪さをするからだ。おかげで永長は、病室の窓からあるいはまれに帰宅や外出を許された時にしか、生花が萌える光景を目の当たりにしたことがなかった。彼女の知っている「花」からは、常にポリエステルの手触りがした。
本物の花はどんな香りや、柔らかさ、色を持っているのだろう。永長はそう思っていた。
小学生の頃の話だ。
天築学園の裏には山があり、けもの道を分け入って山頂に向かうとたいていの場合誰かが屯している。現在でこそ其処は不良集団の牙城だが、永長が学園に入学し、はじめて足を踏み入れた時分は無人だった。入学式の真っ最中だったのだ。
「わあ…」
その山頂からは天築市の街並みが一望できた。特別に綺麗な景色というわけではなかった。高層ビルが巨軍のごとく地平線の向こうまで続いていて、空はスモークで濁っている。その網目を縫うようにして、排気ガスを噴きながら薄汚れた車体がコンクリートの塊の上を走っていた。
それでさえ永長には新鮮で美しい光景に映った。青々として抜ける空も彼女にとっては夢想の対象だったが、一酸化炭素で汚れた灰色の空も、それはそれで絵画的で素晴らしいものなのだろうと思っていたのだ。シミ一つない、真っ白な病室よりはよっぽど。
ふいに、背後から叢を踏みしめる音がして永長は振り向く。そこには自分よりよほど体躯のいい、学生服の少年が立っていた。永長を見て唖然と呟く。
「人がいたのかよ」
威圧的な少年の容貌に、気圧されながら永長はもつれるように頭を下げた。
「す、すみません。あなたの場所でしたか」
「別に……。山に俺の場所も何もあるかよ」
剣呑な目つきの少年はそう吐き捨てるように言って視線を逸らした。
「第一、今日入学したのによ」
当然、永長は驚いて少年を今一度見た。体躯の大きなその少年は、どう見ても高等部の学生にしか見えなかったのだ。
「あなたも中等部の一年なんですか?」
まじまじと見れば、なるほど確かに、背丈こそ高いもののその鼻筋はあどけない。学生服も、おろしたてのように真新しかった。
「悪いかよ」
少年は永長をねめつけ、その広い背を向けて踵を返す。
「人がいるならいい。じゃあな」
「ま、待ってください」
永長は声をあげて一歩踏み出した。
「私、道に迷ってしまって。集合場所がどこかわからなくって、さまよっていたら、ここに差し掛かる山道に迷い込んじゃったみたいで。…た、楽しくなって、夢中で歩いていたら、学校への帰り道がわからなくなってしまって」
すべて事実だった。永長にとってこの入学式は、己が生まれ変わるための儀式だった。虐めから身を守るために、必死で勉強して受験し、今日この日のためにコンディションを最高潮に整えてきたのだ。無理をするなと担当医からきつく釘を刺されてはいたものの、これほどのことはないと言っても過言ではない程、はしゃいでいたのは間違いない。
頬を紅潮させて懸命に説明する彼女を、少年は胡乱げに一瞥した。
「バカじゃねえの」
「す、すみません……」
「言っとくが、道は教えねえからな。俺だってここにサボりに来たんだ」
少年は永長の横をすり抜けると、どっかりとその場に腰を落ち着ける。永長はてっきり、かつて小説か漫画で読んだように不良然とした彼が煙草でも吸い出すのではないかと一歩後ずさったが、彼が懐からライターを取り出すことは終ぞ無かった。
「…あの」
恐る恐る永長は少年に近づいた。
「どうしてサボるんですか?せっかくの入学式なのに」
「オメーには関係ねえよ」
鋭く睨まれて思わず足が竦み、肩が震えた。しかし、永長は目の前の少年のことがどうしても気になった。自分の短い人生には影も無い型の人間だったからだ。
「だって、私はすごく楽しみにしていたんです。天築に入学する日を」
長く外に、それも山の中にいるからだろうか。鼓動が早くなるのを永長は感じた。
「今度は、友達ができるかなって。勉強頑張ろうって。将来なりたいもの、決まるかなって。…私、体が弱いので。中学生になったらやりたいことを全部やろうって、ずっと思ってたんです。その夢が、叶う日だから」
木々の隙間から覗く煙たい空でさえ輝いて見えた。大気中に舞う埃が太陽に照らされて白くなるさまはさながらスターダストのようだった。頬の産毛を撫ぜていく風は、今まで体験してきたどんな悪意よりもずっと優しかったし、草の匂いは薬品に慣れた鼻をいたずらに刺激した。目の前の少年は怖かったけれど、そのおろしたばかりのぴかぴかの制服は、きっと家族と一緒に仕立てに行ったに違いない。
少年は目を丸くすると、バツが悪そうに頭を掻いた。
「そうかよ」
それきりむっつりと黙り込んでしまったので、永長は自分が何か失礼なことを言ったのではないかとにわかに不安になった。彼女にとっては永遠にも思える、重たい時間の後、少年はようやく口を開く。永長の目を見もせずに。
「どうせ、俺は怖がられるから」
「……」
「勉強なんざ、別に好きでもなんでもねえし。こうして黙っているだけで、喧嘩をふっかけられるんだ。だったら一人でいた方がずっと気楽だし、くだらねえことに巻き込まれなくていい」
永長はそこでふと、少年の左頬に傷がついていることに気がついた。それはうっすらとした治りかけの痣のようだったが、それだけで永長は少年が学園に入学する以前の想像がついた。一瞬だけ、彼の横顔が疲れているように映って、永長はこう声をかけずにはいられなかった。
「げ、げ…!」
一度だけつばを飲み込んで、息を吸い込むと、細くもよく通る声が出た。内心、自身はこんなに大きな声が出せるのかと、驚いた程だった。
「元気出してください! わ、私は…あなたのこと、怖くないです…から」
少年は永長を見上げ、しばし反芻するように彼女を見ていたが、間ののちに相好を崩し、笑った。
「凹んでねえよ。変な奴だな」
自分からこれ程大きな声が出るように、硬く表情を引き結んでいた彼もこのように糸が引き解ける瞬間があるのか。永長は不思議な気持ちになった。
元来たけもの道を辿り、学園に近づくにつれて、道脇に整備された生垣が見えてくる。濃い桃色の花をつけているそれに、少年は驚いた声を上げた。
「この時期にサツキが咲いてるなんて珍しいな」
「えっ?」
自分の名前を唐突に呼ばれて、思わず永長は少年を見上げた。少年は彼女の様子には気づかないまま花に近づくと、興味深そうに眺めている。
「いや、普通は五月に咲くもんだからよ。中には四月に咲くやつもあるけど、それでも中旬頃だし」
「……お花、お詳しいんですね?」
すると少年は慌てたように背筋を伸ばし、眉根を寄せて低く唸った。
「…悪ぃかよ」
永長は小さく笑った。この強面の少年にも花を愛でる心があるのだと思うと何だかくすぐったくておかしかった。この少年が自分の夢の一端にまつわる知識を持っていることも単純に嬉しく、また、あずかり知らずに名前を呼んでほしいような、しばらく言葉を交わしていたい奇妙な感情も手伝って、永長は続ける。
「あの、この花はどんなお花なんですか? 花言葉とか――」
そこで、言いかけた永長の言葉を遮るように、少女の声が遠くから響いて来た。見れば校舎側から、二人の黒髪の少女が小走りで駆け寄ってくる。その困惑やら心配やらが入り混じった表情が近づいてくるにつれ、永長はクラスメイトに迷惑をかけたのだということに気づき、さっと顔色を変えた。
「ああ、同じクラスの香坂さんと月代さんだ!私、心配かけてしまったのかも…」
慌てて永長は少年に深く頭を下げた。
「道案内していただいて、ありがとうございました。あの、またよかったら、さっきの続き、聞かせて下さい」
そう言って顔を再び上げると、高い位置にある少年の瞳は柔く形が崩れていた。
「…気が向いたらな」
返事をする声は永長がはじめて聞いたより優しく、その雰囲気と充足した時間にすっかり満足してしまい、少年に何度も頭を下げて教室に戻る頃にようやく永長は、少年の名前とクラスを聞きそびれたことを思い出したのだ。