ちょっと前の有元&一ノ瀬さんと、KPレス経て2021/2/14時点最新の有元&教授の話
その日の体調は最悪だった。あの忘れがたい事件から丸10年間、有元のコンディションが最高だったことなど一度たりともなかったが、それを差し引いてもとりわけその日は最悪と言ってよかった。
一ノ瀬零門教授――これはひとりではなく、彼の脳に宿るふたりぶんを指す――とのかかわりあいの中で、有元の、ただでさえ快調でなかった心身の健康は日に日に損なわれていっていた。
メンタルの不調は肉体にも作用する。
その前の晩、有元の胃はなにかを思い出したかのようにすべてを吐き戻した。とりあえずと詰め込んだインスタント食品が存外重かったのか、あるいはすでに最低限のサプリ程度しか受け付けないほどに弱ってしまっていたのか。嘔吐はめずらしくもなかったが、昨晩の豪勢とも呼べる嘔気の原因には心当たりがありすぎてよくわからなかった。
おまけに一睡もしていない。体はずんと冷たく、引きずるほどに重いのに、まるで体が睡眠という機構を忘れたかのように、一向に睡魔は訪れなかった。懸命に天井のシミを数えてみても、嫌な思い出ばかりがよぎるのみ。朝になって、ようやく布団から這い出てみたものの、当然疲労はその体に染み込んだままで、朝日が目に焼き付いてきつかった。
けれど有元はいつもどおり出勤した。そして当然のようにぶっ倒れた。
「どうして出勤してきたの…」
いつもの困り顔にわずかな怒気を浮かべて一ノ瀬教授が言った。いつもの困り顔ということは、一ノ瀬教授とは、最悪ではない方の人格の、ということだ。
有元はまた天井のシミを数えている。自分が住んでいるボロアパートのそれに比べて、研究室のものは当然に綺麗だったから、すぐに数え終わってしまって手持ち無沙汰だった。
「……だって、家にいるよりはマシですから」
仕事をしていると幾分か気がまぎれた。少なくともなにかをしている間は、シミを数えているときよりもずっと有意義で、なにより楽だった。
目を閉じると、いつか見た赤黒い内臓や血、クローシュの中に行儀よくおさめられた一見美しいなにかの肉料理、魚のうろこ、男女さまざまな死体に、ぐちゃぐちゃに折れていく自分の四肢、快楽ににじむ汗……そういった悪夢のような思い出ばかりが蘇っては消えていくものだから、一ノ瀬に「休め」と言いつけられてさえいなければ、今すぐにでもこの小さな来客用ソファから起き上がって、なにかしていたいのが本音だった。
けれど彼の言うとおり肉体は重みを増しているから、休息が今もっとも己に必要なものであることは明白だ。
「…気持ちはわかるけど、今は休まなきゃだめだよ…」
そう言って肩をすくめる一ノ瀬の顔だって、自分よりはましといえども白いことには違いなかったのに。その気遣いが嬉しいというより理不尽に感じられて、有元はあまりおもしろくなかった。もちろん、頭では自分の不摂生が原因なのはわかっているのだが……
「………もうずっと眠れないんです」
言外にわかるでしょう?と含めて一ノ瀬を見上げる。同じような経験ばかりしている一ノ瀬の心労だって計り知れないはずで、彼だって自分ほどではなくともやつれていることにきちんと有元は気づいていた。
案の定、目の下に隈を拵えた一ノ瀬は、一瞬びくりと肩を上げ、そしてまた困ったように笑った。そのあいまいでごまかすような笑みが、少し前までは心底嫌いだったが、今はそうでもなかった。
「そうだね」
お互い、心療内科にはかかっていないのだろうなと思った。
有元はもちろん病院にはかかっていない。そんなふうに自分の体をいたわる行為はまったくの不要であると有元は判断していた。それが自分の歪みの一端であることもわかっていたが、それでも、そうする気にはなかなかなれなかった。
きっと一ノ瀬もそうだ。どうせ、「有元くんが苦しんでいるのに、自分ばかり病院にかかってちゃんとした睡眠を取るわけにはいかない」とか、そんなことを考えているのだろうと思う。
そうでなかったとしても。なんだか病院にかかるという行為は、自ら望んで外した人生のレールをわざわざ丁寧に戻すように感じられて癪だった。もうめちゃめちゃなのに、今更どうして普通の人間に戻る理由があろうか。
「…俺は、別にいいんです。眠れなくても、食べられなくても」
有元は続ける。
「なんていうか、もう何もおいしくないし。眠ったらどうせ嫌な夢を見るし。やっと眠れてもすぐ目覚めちゃうし」
それでも昔――家族を失った直後の、灰色の日々――はもう少し眠れていたような気もする。
一ノ瀬教授への復讐だけを誓っていた頃だって、何度も家族の夢を見たものだというのに、あの頃はちゃんと義憤と憎しみに燃えることができていて……あのエネルギーはどこに消えてしまったのか、とんと疑問だった。
この、心優しいほうの一ノ瀬教授と関わるようになって、あんなに魂を燃やし続けていた憎しみを誰にぶつけるのが正しいかもわからなくなって、そうして右往左往しているうちに炎は燻り、いまや燃え尽きつつある。
いまはもう、さまざまな悪夢と現実に翻弄されて摩耗するだけの毎日だ。
時々火打ち石をたたくように、何らかのきっかけによって殺意を思い起こすこともあれど、もうそれだけで立ち上がれるほどの気力はなくなっていた。
一ノ瀬教授、彼のせいなのだろうか。それとも10年のうちに生きる活力を失ってしまったからなのか。”向こう”のほうの教授に奪われすぎてしまったのか。その自己判断さえもはや有元にはつかない。
疲れてしまった、のかもしれなかった。
「…だから、眠るよりは、動いているほうがいい」
そうして限界まですりつぶして、倒れるほうがずっとよかった。
呟くと、一ノ瀬が目の周りをこわばらせるのがわかった。…本当によく泣く人だ。
一ノ瀬はぐっと”それ”をこらえるように一度俯くと、それでも寝なきゃ、と一言言った。
「家より大学にいる方が安心できるなら、ここで仮眠してもいいから」
「…でも、俺…」
「だめ」
起き上がろうとする有元の肩を押して制し、一ノ瀬は有元を見た。こころなしか揺れている瞳は罪悪感からだろうか。
「目を瞑るだけで構わないから」
目を瞑ると嫌なものばかりが瞼をすぎるから嫌だと言っている。そう口答えしてもよかったのだが、心に反して体はひどい倦怠感をたたえていたから、反論しようとした唇は一度開いて、そしてまたすぐに閉じた。
すっと目を閉じる。いろいろな色が混じって目に眩しかった世界は有元の意識と遮断され、夜よりも暗い新たな世界が彼を出迎える。
不思議とその色が心地いいことに有元は驚いた。ひとりの夜はあれほど恐ろしく孤独で、絶望に満ち満ちていた暗闇が、今は寄り添うように有元の地獄を包んでいる。
昨夜と今でなにが違うのだろう、とぼんやり考えていると、
「おやすみ、有元くん」
一ノ瀬の声とともに、まず額に熱いものが降ってきた。
それが彼の手のひらだと気づくと、一瞬それはぴくりと震えて離れかけ、また戸惑うように有元の額を、頭をなぞった。
頭を撫でられているんだな、とわかった。
どういうわけか、こちらの人格の一ノ瀬教授は、有元のことを庇護対象の子供だと認識しているらしい。そのくせ恋愛感情に似たなにかまで抱いているようだから難儀だなと思う。
またそんなふうに扱われているんだというささやかな苛立ちが沸き起こる。けれどまったく嫌な感情ではなかった。
遠い遠い昔、まだ本物の子供だった頃に、こんなふうに父親に寝かしつけられていたことを、ふいに思い出した。
こいつは本当は俺の仇であるはずなのに。そんなふうに優しくするから、俺の生きる目的こそがそもそも虚像であることに気づいてしまった。あの日からずっと俺にはなにもなかったのに、復讐だけがあるんだと錯覚して歩いてくることしかできなかった馬鹿でまぬけな俺を、もう戦わなくていいだなんて言ってくれるのがよりにもよってこの人だなんて、そっちのほうがよっぽど、悪夢で、悲劇だ。どうせ何もできないくせに、弱いくせに、あなたのせいなのに、でも、――どうして”彼”を宿してしまったのが、よりにもよって、こんなに優しいあなただったんだろう。
目尻に少し涙が滲んで、そのままこめかみに落ちていくのがわかったけれど、眠気のせいにして拭わなかった。
一ノ瀬零門教授は、丸くなって淡々と寝こける有元無量を見下ろしていた。
最初はあれほど牙を剥き、抵抗して、自分が何かを奪うたび激しく怒り悲しみそして傷ついていたというのに、どこまで心境に変化がついてしまったのか、”こちらの自分”と一緒にいる時でさえ警戒心なく眠る始末だ。
今日もまた不可思議な出来事があって、それが無事に片付いたあと、朝日がのぼる前に有元を帰そうとした。そうすると彼はこんなことを言って、帰ることを渋った。
「あなたと一緒のほうが、よく眠れるんです」
――どちらの? それとも、どちらとも?
そんな問いも浮かんだが、それ以上の言葉を交わすことがなぜか憚られて会話を切った。空いている部屋は好きに使え。それだけ言って、その時は居間の扉を閉めた。
今週の土曜日はずいぶんと”あいつ”に歯向かわれた。どちらが上の立場か教え込むつもりが、彼を大切にしてやれだの、僕らは責任を取らなければいけないだの、くだらないことばかり喚き立てるから本当に不愉快だった。
いま、役目を終えたかのように”やつ”は沈黙している。けれどなぜかずっと声だけはリフレインしていた。
――彼のなまえは有元無量、あなたのおもちゃじゃない。彼が最後に残した、その約束を守ってあげて。
同時に、どこかで有元に言われた言葉もこだまする。
――あなたに奪われたのは家族だけじゃない。なにもかも。思い出も尊厳も、あなたには人生のすべてを奪われたんです。
煩い。
――そんな俺をそばにおく覚悟があるなら、責任を取って。
あなたにぜんぶあげるから、もう誰も殺さないで。
煩い。煩い。
こんなに煩くやかましいのに、なぜ自分はあれ以来誰も殺していないのだろう。羽虫の戯言との約束など守ってやる義理はない、それでも、それなのに、有元はささやかに笑った。
――約束、守ってくれてるんですね。ありがとうございます。うれしい。
有元はまだ眠っている。あんなに眠れないと言っていたのに、それが嘘だったかのように深い睡りに見えた。呼吸は薄く、ともすれば死んでいるようにも、――このまま一生目覚めないようにさえ思えた。
なんとはなしに、紙のように薄くなった体に手を伸ばす。いつか彼が倒れた時、”あいつ”はあんなふうに頭を撫でていた――父親のように…あるいは、恋人のように?…それとも?
その手が額に触れる前、有元の唇がささやいた。
「………とう、さん……」
目尻からこぼれた涙がこめかみを伝って、そのまま枕にしみこんだ。
一ノ瀬は伸ばしかけた手を一度強く握り込むと、そのまま引っ込めた。わけのわからない情動が彼の手の中にあった。今すぐこのまま誰かを縊り殺してやりたいような、それでいて目の前でいとけなく眠る彼をなぜか恐ろしいと思う気持ち、そして形容のしがたいなにか得も言われぬ感情。それが胸からこぶしに流れ伝わって、そしてそれを手放すように手を開き、もう一度握って、――立ち上がって部屋を出た。
扉を閉めて、そのままずるずると座り込む。こぶしを開いて手のひらを見た。得も言われぬ感情の正体を追って手のしわを見つめてみても、答えなどどこにも書いているわけもない。ただ、少し骨ばって痩せこけた己の手だけがそこにあって、”あいつ”は食事をなかなか摂らないから、かわりに自分が摂っていたのだということを、ふと思い出した。
「…なにを、馬鹿なことを。…………約束などと」
「そんなもの守らずとも、彼は―――有元くんは、」
「……私の所有物だ……」