「年末ですね」
ぼんやり窓を見ているかと思えばそんなことを言うものだから、一ノ瀬は面食らった。有元に時間の流れの感覚がまだ備わっていたとは意外だった。それさえ奪ったのは自分自身なのだが。
一ノ瀬は失礼にも不穏に思った。有元は紙きれのような男だ。あまりに薄いメンタリティは、ちょっとの刺激でそのまま死んでしまいそうだし、生存戦略の一環なのか平面のように凪いでいる。限界の人間のそれだ。とてつもなく奇妙で不可解なできごとによって、一ノ瀬は有元に奪った家族の命を返すことが出来、有元には久方ぶりに生の喜色がもどったけれど、だからといって数日数ヶ月ごときで長年の傷がやすやすと癒えるわけはなかった。それを重々承知しているからこそ一ノ瀬は思った。年末だからなんだ?来年こそ死にたいと?——この長きにわたる憎しみ合いのなかで、一ノ瀬の思考にはすでにやっかいなくせが備わってしまっていた。有元の一八〇度ぴったりの感情にわずかな角度の変化を認めると、もう不穏を感じずにはいられない。
有元の視線の先では雪がちらついていた。つい数夜前まではクリスマス一色だったキャンパスの中も、すっかり新年を待ちわびて様変わりしている。そういう日本人の現金さを疎うところも一ノ瀬のやっかいのひとつだった。もうひとりの一ノ瀬零門は柔軟に新春のそなえを喜んでみせるのに、零次という瀟洒な響きの戸籍を獲得したこの一ノ瀬、元・零門は、だいたいすべてばかばかしいと切り捨ててやまなかった。研究棟の扉のいくつかには門松のリースなんてものまで飾ってある。くだらないことこのうえない。それでも、別人格ではない自分自身を指して”一ノ瀬教授”と呼ばれることにようやく慣れ始めた彼の、キャンパスの変貌を見つめるまなざしは、以前より幾分か柔らかくなりつつあった。
ひっそりと心配を寄せる一ノ瀬の視線に気が付いた有元は緩慢に振り向いた。あいかわらず無表情だが、落ち着いているようだ。彼の正面にある曇った窓ガラスに、なにか手持ち無沙汰になぞったような落書きのあとがちらっと見えて、少なくとも際どい思想に陥っているわけではないことがうかがえた。ようやく一ノ瀬は安心した。
「きみが時世の話を振ってくるとは驚いたよ」
「おれが年末の話をしちゃ悪いんですか」
有元の一八〇度の眉がわずかにむっと皺を寄せて傾いた。これは大丈夫な角度のものだった。
「家族が」有元が呟いた単語に、一ノ瀬は悟られないように肩を尖らせた。そのまま慎重に続きを待った。「年末年始は帰ってくるでしょうって、連絡をよこしてきたんです。おせちを作るから手伝って欲しいって」想像の何割よりもおだやかな情景の話だった。
一ノ瀬はそうっと有元の顔を伺った。そのくちもとが小さく笑っていた。
「だから、すみません、俺、年末年始はいっしょにいられないんですけど」
「——なにを言うかと思えば。そんなあたりまえのことを私に訊くな」
許可なぞ取らずとも帰ればいい。そう返すと有元は、いささか照れたかのように首をすぼめて頷いた。
一ノ瀬は、見た目以上にほっとしていた。クリスマスも家族と過ごすのだろうから帰れと促したのだが、そのときの有元は頷かなかった。自分には家族が生きているという事実さえあればいいとか、自分に家族と一緒に過ごす価値なんてものはないとかごにょごにょ言って、結局実家に帰ったようすはなかった。一ノ瀬が新たにつむいだこの世界には彼らが言い知れぬ罪を犯した事実などどこにもないのだから、念願を享受すればよいのにと、だいぶやきもきしていた——とはいえもちろん、有元の言いたいことや気持ちだって、わからないでもなかった。一ノ瀬自身も身の置き所にまだ、惑っていた。
「やっときみにも心境の変化があったようだな」
一ノ瀬は嘲笑を含んで言い置いたつもりだったが、己の唇から落ちた声色が存外優しく、にわかに恥ずかしくなった。それをごまかすように、大きな咳ばらいをひとつする。有元はなにも気がついていないようだった。
「いや、おれは仕事があるって言ったんですけど、家族が…」
「つまらない言い訳をするな。なんならいつでも休暇をとればいい。年の瀬にしか実家に帰ってはいけないという法律はない」
有元はやっと気づいたように一ノ瀬を見た。一ノ瀬の固い回答は、それでも柔らかさを隠せずにいた。実際、一ノ瀬は、極力有元に家族と過ごしてほしいと思っていた。せっかく私が返してやったのだから、そういった傲慢と高飛車の奥に、消しようのない罪悪感があった。この、あやうく虚無の人形になる直前だった助手にさいわいを取り戻してやるのがこの先の自分の勤めだという義務めいた決意は、どれほど斜に構えようとも、太い幹のようにあった。
有元の視線は、いまいちなにを考えているかわからない虚ろにも似たものだった。ふたたび一ノ瀬が不安になりかけた時、有元は首を傾げながら微笑んだ。
「じゃあ、帰ってきたら、初詣、いっしょに行きましょうね」
一ノ瀬はちょっと小難しい顔をした。「…私とも過ごすつもりか。いつも言っているだろう、私のことは考えなくともよいと…」鼻の付け根あたりをしかめながらも、胸には喜びがかすめるのをしっかりと感じ取っていた。なんだかんだ有元はこうして自分と一緒にいてくれようとしている。それが永劫回復することのない、ストックホルム・シンドロームだったとしたって、あさましくも率直に。
その喜びを顔面に見せようとした一ノ瀬の前を無常に通り過ぎるように、有元がまた言った。
「あなたが大凶を引くところ、見たいんで」
「……ふざけるなよ、私が下手に出ているからって……」