はっ、と目を覚ました時、心臓が早鐘を打っていた。背には冷たい汗が伝っていて、布団の中に仕舞われていたはずの手は小さく震えて冷えていた。吐く息は不思議と荒く、己の脳裏に巡るのは地獄としか形容しようのない、血と亡骸の海洋。機械の残滓。そして耳元で囁く男の声。お前はどうしようもない嘘つきで、悪魔だと――嘯く声。すべてがただの夢だと気づくまでに、長針がひとつ傾くほどの時間を要した。

「…はぁ、はぁ、………はあっ……」

 カチ、カチ、針が5回音を刻んだ。呼吸がようやく平静を取り戻す頃。気もそぞろに視界を泳がせていると、カーテンから薄明かりが透けていていることに気がついた。今が彼は誰時なのだろう。じきに太陽が昇るはずだ。のろのろとスマートフォンの画面を起動すれば、時刻はちょうど五時頃を指し示していて、小さく小さく息をつく。

「…ひさびさに見たな…」

 まだ手はわずかに震えていた。耳元でとくりとくりと心臓の音がして、もう二度寝は不可能だと悟る。そのまま足を滑らせ、布団から這い出ようとした、その時――ゆっくりと温まった手がシーツの中から出てきて、俺の腕を掴んだ。

「ひっ…!?」

 いまだ悪夢から覚めやらぬ、寝ぼけた喉が引きつり声を上げる。慌てて視線を落とすと、そこには見知った小さな頭が布団の中に収まっていて、漸く現実感が俺の心の中に去来した――そうだ、今日も韋田を泊めていた…すっかり寝ぼけて忘れていた。

 韋田は重そうな瞼をぼんやりと開けて、それでもしっかりと俺を視た。暗やみの中に浮かぶ金の目に、カーテン越しに降り注ぐごくわずかな薄赤い朝日が吸い込まれて、きらりと光った。

「旦那…どこ行くんです」
「ええと」

布団をめくったから冷気が入って寒いのだと納得して、俺は――我ながらあいまいな――愛想笑いを浮かべた。

「ごめん。起こしちゃったかな。すぐに出るよ」

 すると、中から伸びていた手がひとつ増え、俺の腕をとらえる。驚く間もなく、強く引きずり込まれた。
 瞬きをしていると、「そうじゃなくて…」と少し呆れたような声が振ってきた。

「…また嫌な夢を見たのでしょう?」

 そんなことはないよ。
 そうした二の句さえ告げず、つい押し黙ってしまう。どうせなにもかもお見通しなのだと思った。余計な心配などかけたくないというのが本心なのだが、聡い韋田には不要な気遣いらしい。

「まったく」

沈黙を肯定と捉えた韋田が、珍しく不機嫌そうに――眠いのだろう――唇を尖らせた。

「すぐそうやって隠そうとする…」

 思わず俺は声を上げた。

「あの、韋田…? 離してくれないか」
「いやです」

 俺の腕を捉えたままぴしゃりと韋田は言った。

「寝直しましょ」
「でも」
「いいから」

 そう言って、布団の中へ引き込んだ俺の耳元に手を伸ばすと、優しく温かい手つきで胸元に抱き込む。気恥ずかしさに負けて抵抗しようとする俺の動きを遮るように、だけどすべてを守るような声で。

「怖いことなんて、何もないんですから」

 その言葉に――何も。何も出来なくなって、離れる気さえとうに失せてしまって、そろそろと韋田の顔を見上げると、俺の髪をいたずらに小さく弄りながら、世界一愛しいものだとでも言うように笑んでいた。
 頬に熱がこもる感覚があって、俺は視線をそらす。目の前の、韋田の服の裾を小さく掴む。

「……うん」

 あの絶望の端から溶けて消えていくようだった。ここは暖かくて、世界で一番安心できるような気がした。韋田の腕はそれほど大きくないことを、俺はちゃんと知っているはずのに。彼がこんなふうにしてくれるだけで、俺を取り囲んでいた恐怖のむしろが取り払われて、優しく包まれるようだった。
 髪を撫でる所作が心地よくて、忘れかけていた微睡みが再びやってくる。追いかけてくる闇はずっと恐ろしかったのに、今は落ちてくる赤く暗い朝日が、かえって煩わしく思えた。

「……朝、来なきゃいいのにな」

 ぼそりと小さく呟くと、韋田はくすくすと笑った。

「朝が来たら、二人で朝食が食べられますよ。炊きたてのご飯をよそいましょう。温かいお味噌汁に豆腐と長ねぎとわかめを入れて、焼き鮭でもおかずにして頂きましょう」
「…お腹空いてくるなぁ…」
「でしょう?‎ ですから」

 耳元で響く声は、あの夢の中で聞いた声のように低くかすれて、けれど泣きたくなるほど優しかった。これからいずれ、いつか、失われゆくものであることなどを、考えたくもないくらい。しかしそれを払拭する、強くそこに在る声だった。

「今は――悪夢や過去など、どうか忘れて」

 絹と綿とをありたけ集めたような、柔らかい泥濘の中に落ちていく感触の中で、そんな声だけが聞こえた。
 もう、何年も――。何年も味わっていなかった、すべてをゆだねられる眠りに吸い込まれていくその最中。おやすみなさいと、そう低く笑う彼だけが、いつまでも俺の手を捕まえていた。