金城陽一は驚いていた。
自分は死んだのではなかったか。少なくとも、これから自分は死ぬのだという、あの瞬間に感じた、存在そのものが無に帰し自我が宇宙に消失する恐怖と絶望、焦燥だけはいまだ心に燻っていた。無我夢中で、誰の声もせず視界すら閉じられて、何を口走ったのかさえもはや覚えていない。
その己れが、今、板張りの上に立っている。
あちこちを機械にとって代わられていたはずの肉体は、その惨劇が起きる以前の姿に戻っており、無論背中から金属片が突き破っていたりなどということもなかった。
見上げれば梁が闇の中を茫洋として駆け巡っており、節を丁寧に削り取られた柱が、土壁を縦断するようにして点々と並立している。柱には小さな灯りがともされ、そしてその間には、繊細な図画の描かれた襖が行儀よく収まっていた。日本家屋、それも、大きな邸宅のようだーーと金城は思った。
何故、死んだはずの自分が確かな意識を持ってここに存在しているのか。そもそもここは一体何処なのか。己れのルーツ上にこの屋敷は存在していたかと思考を巡らせども、やはりこのような屋敷に暮らしていたという記憶はおろか、訪れた、見学した、などという思い出さえ金城には無かった。もしや自分は何らかの奇跡によって生きながらえ、その後、ここに連れて来られたのではないか、という推論さえ浮かぶ始末だ。今はどういうわけか人間の肉体に戻っているようだが、一度こそ己れの身体は機械に支配され、およそ元とはかけ離れていたのだから、そんな事があったとして不思議ではない。
それに、ここには余りにも陰惨な闇が満ち満ちていた。まさに、「敵」とでも呼ぶべき人間が今に曲がり角から飛び出してきたって何らおかしくはないーーそう考えた金城は、自慢の拳を固く握り締め、廊下を歩き始めた。
屋敷はひっそりと静まり返っていた。誰もいないようだ。人間の気配が無いというより、全てが死んでいるかのように金城には感じられた。埃は無く、あちらこちらについた細かい傷がここに多くの人間が最近まで住んでいたことを物語っているのに、奇妙にも何もーー鼠や小虫さえいないのだ。極めつけに、景色が映るかと思われた廊下の窓の外にあったのはただ光のない闇ばかりで、この屋敷と金城という二つの存在が地球から切り離されたようだった。
曲がり角があった。金城はわずかに身を屈め、拳を構えーー慣れた格闘術の要領で、素早く角に躍り出た。
無論、そこには誰もおらず、やはり似た廊下が闇を渡して続いているばかりだった。金城は静かに息をつく。自然、首筋を冷たい汗が伝ったーーその時、突き当たりに人間の影があることに金城は気が付いた。
それは和服を着ているのか、シルエットは判然としないが、頭身の高さから見るに男性のようだった。わずかな明かりの中でなお濃い闇を纏ったその影は、顔がまったく見えないが、幽鬼のようにうっそりとこちらを見つめているように思える。金城の心臓が耳元でやかましく叫び始めた。
「誰だ」声を震わせないよう、己を宥めながら金城は言った。「オレをここに連れてきた犯人か? わざわざ待ち伏せなんて、いい趣味してんじゃねえか」
影はそれには答えず、静かにこちらへ近づいてくる。上品なすり足で、足音と表現するには足りない、きしりという古木の悲鳴だけが耳に這い寄っていた。明かりに近づくたび、その正体がゆっくりと暴かれていく。
それはやはり男だった。黒い髪を短く刈りそろえていて、目尻の垂れた形の瞳はすべてを諦めたように澱んで色のない灰色をしている。影のある精悍な顔立ちーーというよりは、おそらく雰囲気がそう見せているのだろう。肌は少し浅黒く、背丈は金城が良く見知った”彼”よりは、少し低いようだった。
「…コウ?」呆然と金城は呟く。男は首を縦にも横にも振らず、ただ無表情に答えた。
「孝史郎はここにはいない。俺は神宮寺宗一。アレの夢のあるじだ」
物心つく前から見ている悪夢がある。幼馴染の銅座孝史郎にそんな話をされたのは、一体いつ頃のことだっただろうか。
ーー夢の中で、自分は何かから逃げ惑っている。板張りの屋敷の中で、雨が、雷が、血が、痛みが、すべてのものが怖くて苦しいと叫びながら。屋敷の屋根を常に暴雨が打ち付けていて、叩きつけるような雨音がどこに逃げても追いかけてくる。そうして、いつしか目の前が真っ赤に彩られた時、漸く目を覚ますのだーーと。
決まってその夢を見るのは雨の夜だったらしいので、銅座は雨が降ると憂鬱そうだった。尤も、彼に夢の話を打ち明けられ、心情を慮ることが出来た人間がこの世にいかほどいたのかは知れない。何でもかんでも銅座は隠してしまうからだ。
かといって、自分が正しく慮っていたとは断言できない。いつしか己は彼に、こう言ったことがあるーー「前世ねえ… …そんなことより、どこに遊びに行くよ?」ーー確か、機械が嫌いになる前の、あの日の朝旦の事だった。
「…まさか」
乾いてかさかさの声だった。夢の話を疑っていたわけじゃない。ただ前世なんて、いくら奴の話だとしても信じ難いに決まっていた。銅座がそんなことを理由なしに言い出す男ではないこと位は知っていたが、それでも何かの勘違いや、激しい思い込みだとしていたのだ。しかし、であれば、今目の前に立っている男は、この現世から隔離された屋敷は、人間の姿を取り戻した自分は何なのだ。
神宮寺、と名乗ったその男は、まるでオートマトンのように生気が無く、よほどこいつの方が機械じかけなのではないかと金城に思わせた。発する声もやはり抑揚がなく、嘘を人に擬えたようだった。
「事実だ。もうお前には、それを確かめるすべはないが」
「ーーやっぱりオレは、死んだのか」
神宮寺は螺子巻き人形のからくりじみた、およそ人情の機微のない様子で頷く。厚い右手に汗が伝うのを金城は感じた。
「オレは、幽霊なのか?」
似たようなものかもしれない、と神宮寺は答えた。
「お前は、前世のコウなのか?」
再び神宮寺は頷いた。
「…お前、いったい何をしたんだ?」
銅座が見ていたという、あの夢の正体はなんだったのか。何故ここに己れは呼ばれたのか。終わって尚、知る機会を与えられたのは、神の気まぐれか、あるいは寵愛なのか。金城が問うと、神宮寺はまた一つ頷き、右手を差し出した。
「教えてやる。金城、手を握ってくれ」
金城は狼狽した。目の前にいるのは銅座と同じ相貌でこそあるが、別人だ。触れることさえ憚られるそれを、だが触れなければ恐らく前には進めない。一つ息を大きく吸い込み、汗ばむ右手でしっかりと握り込んだーーその瞬間。
屋敷全体を薄い膜のように覆い隠す闇が突然晴れたかと思うと、脈動する肉の塊の幻覚を金城は見た。赤黒く、それでいて粘膜の張りてらてらと光るそれが奥へ奥へとトンネルを形作っている光景に足がふらついて喉元がひきつる。幻だと思われたそれには血肉と腐敗の臭いが立ち込めては金城の嘔気を誘う。やがてその映像が明けると、広がっていたのは今しがた惨劇が起きたばかりのように鮮血をぶちまけられて染み込んだ、廊下だったのだ。
驚き、口元を抑えて胃液を押し込める金城を一瞥すると、神宮寺は事も無げに金城の右手を解放して歩き出した。静かに彼が呟く。
ここで切れてる(もっと頑張れ)