世界をまるごと書き換えたことにより、マーサの生活は激変した。
まず、一人暮らしを強制されることとなった。マーサはまだ17歳で、あの砂城が見つかることさえなければ、未だ親の庇護下でぬくぬくと温かく慎ましい暮らしを謳歌しているはずだったが、それらはネフレン=カの遺言とともに晦冥に消え失せた。生活はすでに失われた望郷と化し、マーサは肉体を維持するための炊事洗濯すべてを自らで行なわなければならなくなった。
それによってマーサの家事スキルは考えられない程に向上した。今まで、親が不在の際は外食ですべてを賄っていた彼女が、ある程度自炊するという選択を獲得したことは、副産物的な僥倖だったと言えよう。
同時に視力が下がった。マーサは隠れながら生活しなければならなかった。金には困らなかったし、上手いやりようを身につけることができれば郊外に適当な家でも借りて自由に過ごすことも出来たろうに、それまで一般家庭で生きてきた彼女はそのあたりに関してはとんと不器用だった。人目につかぬようにと、ボロ屋で小さな明かりだけをつけて生活していたら、どれほどパソコンと向き合っていても変化のなかった視界が、ついに霞んでぼやけるという難事に見舞われた。そのため、マーサはコンタクトを着用するようになった。もう少し器用に生きる場を確保する必要があるとマーサは思った。配信者としての経験で培った企画力やプロデュース力、ユーモアはこの世界では役に立たない。まったく新しい世界であることをマーサは痛感した。
何より様変わりしたのは、家にあるモノの有り様だ。
棚にはナイフや様々な形の鋸、防腐剤などがひしめくように並び、血なまぐさい部屋と、そうでない部屋とがあった。臭いのない部屋にはクローゼットに乱雑に放り込まれた洋服や小さなパソコン、食器などがあったが、強烈な鉄の臭いを発する部屋にはたいてい人間だったものが転がっていた。これは以前のマーサの世界にはなかったものだった。
マーサははじめ、このアンバランスで目眩のする光景におぞましさを感じ、自分の行いを僅かながら後悔した。しかし同時に彼女の頭の中に確かに「これは慣れ親しんだ風景だ」とする所感があって、ここでもマーサの肺腑にはやはり、世界を書き換えるということの意味が染み入った。
あたしは人殺しなんてしたことがないのに、人殺しに慣れている。
それは実に不思議な感覚だった。人の命を屠り、その肉を綺麗に削いで材料にする時、はじめてのことに戸惑い叫び出したくなる自分と、ただ今は技術を磨かなければ…と極めて平静に手を動かす自分とがおり、まるで心の中にある自我が分裂してふたつになったようだった。
「それ」は、マーサ・エヴァンスというただの少女にとって、あまりに至大な出来事だった。抱え切れない程大きな体験であった「それ」を、せめて自分の抱えられる範疇のサイズに落とし込むために、おおよそを恋に定義したのかもしれない。彼女自身、そう思わないでもなかった。
マーサの生活は変わった。彼女はおしゃべりな気質であったから、一人でいることは大変に孤独で、耐え難く寂しかった。
けれど最高に自由でもあった。金を好きに使えた。どんな暮らしをしても良かったし、配信活動で満たされていた承認欲求が作品作りに変わっただけでもあった。捕まるリスクを考慮しなければ、自分に向いている生活だとさえ思えた。
だけど、抗い難く彼女は人殺しだった。作品の数だけ、いや、それ以上に命を奪っている。存在しないはずの記憶の中に、練習台になった人たちの姿があった。マーサはそれを――なぜか、あるいは必然として――事実だと知っている。
マーサの心はそれまで潔白であったのに、生きていることを許されない人間になってしまった。とんでもないことを言ってしまったなという思いがあった。兄のことを思い、この先の長く続く人生のことを思い、不道徳を呪った。しかしながらすべては自身で願ったことだったし、同時にある考えがマーサの心を癒やしていた。
(あいつもあたしと一緒。絶対に許されない)
ともに許されずにいることで、否定されていることで、”彼”…ヨアンに寄り添えているような気持ちに、勝手になっていた。ヨアンからしたらいい迷惑かもしれない。マーサがそんなことを考えていることも、それ以前にこんな状態になってしまっていることさえ、ヨアンは何一つ知らない。だから全部マーサのエゴイズムだ。
だのに、届けばいいなと思っている。
あの時。トートの夢が見せた、宝石とガラスで出来た無機質な、この宇宙で一番優しい言葉のように。ナイアーラトテップが導いた、たったひとりの物侘しい玉座。それに跪く短剣が、自分をここに連れてきたように。
なぜか今マーサは、いつかヨアンに届くと根拠も意味もなく確信していた。すでに王ではなく、なんの権威も力もないというのに、想いは確信めいていた――もしかすると確信ではなくて、単なる願望かもしれないけれど。
フードを目深に被り、町に出る。
マーサの姿は家族や友人によって手厚く捜されていて、捜索願があちこちに貼ってあったが、それでもロンドンの人々は彼女に見向きもしなかった。もう主役ではないのだとでも言うかように。
今のマーサには行きつけの新聞配達店があって、そこで情報を得た。インターネットに明るいマーサにとっては情報を得る手段などニュースサイトでよかったのだが(そちらのほうがよっぽど手っ取り早いし、安全だ)、毎日新聞を買いに行くというルーチンを定めることが、唯一、世界との細いつながりを得る手段になっていた。小娘の客ひとりになどまるで興味を示さない怠惰な店主が、金さえ払えば新聞を渡してくれる。この店主は絶対に見つかるわけにはいかないマーサにとってとても都合がよかった。
その辺の噴水に座って、ショートのコーヒーを啜りながら新聞を開いた。最近また人間師らしき人物の犯行があったとかで、紙面はお祭り騒ぎだ。もちろんその記事にヨアンの写真などあるわけもないが、マーサはそっと一文をなぞる。――人間師。
ロンドンの空は今日も変わらず淀んでいて、それだけが以前とまったく変わらなかった。マーサはロンドンの霧はあまり好きではなかったのに、今はそれごと愛せる気がした。霧は自分の形を曖昧にしてくれるから。
ヨアンもそうなのだろうか? あの男も、そんなセンチメンタルなことを思う日があるのだろうか? 霧は好きか? 太陽の方が好きだろうか。新聞派だろうか、ネット派だろうか。コーヒーの苦味は……
曇天を見上げながら思う。マーサはまったくヨアンのことを知らなかった。もっと知りたいと思っている。だけどいつか、彼のことをたくさん知ることができる日が――彼に気軽に彼自身のことを聞けるようになる日が来た時。自分はどうするのだろうか? コンタクトをかけなければならなくなったことを、彼に八つ当たりしたりするのだろうか。それとも――絶望するのだろうか。
だけど今はやっぱり、そんなふうになる自分の姿を考えることなんてできなかった。ヨアンに会えると夢想するだけで、こんなに苦しく、楽しく、切なくなり、胸がいっぱいになった。ロンドンの肌寒さも意に返さなくなるように。孤独のさまを、忘れるように……
「……苦いなぁ」
コーヒーをひとくち含み直して呟いた。砂糖が足りなかったのかもしれない。
もう、誰も王と呼んでくれない。きっとこれから先もずっとないだろう。
家族の元に帰ることもできない。友人とカフェでおしゃべりすることだって。兄の部屋で漫画を読むことも、くだらない配信で呵々大笑とすることも。
思い通りに願いが叶うことも。許されることも。存在を願われることだって、もしかしたらきっと。
でも、あれほど愛しかったそれらすべては、どんなになっても自分の心を満たすことはないと、マーサはわかっていた。
たくさんのものを失って悲しいのに、一人の夜は寂しく孤独なのに、心臓を奪う時の血の鮮烈な赤色のことは好きになれないのに、それでも奇妙にマーサは満たされていたのだ。
ヨアンはここにはいない。会えるかもわからない。なのに、今はずっと彼がいてくれるような気がした。支えてくれているような、支えてあげられているような、そんな愚かな錯覚を。
「…………ヨアン」
木枯の中で、やっと彼の名を呼んだ。あの時――ピラミッドの中で、彼との再会ただそれだけを願った時。一言だって呼ぶことはできなかった。呼んだらもう、止められなくなる気がして。
もう警部補じゃない。名字さえも知らない。だけど呼ぶだけでマーサの力になった。そして思うほど膨らんだ。
会いたい。
一緒にいたい。
だけど、こんな小さなこともかなわない。ネフレン=カの遺言はすでになく、マーサの手に残ったのは、ただの一枚のトランプカードだけだった。
スペードのキング。もうそれさえ、ただの図柄でしかないけれど。
それでも。王という鎖がすでになくとも。この恋があれば、きっと。
(本題:瓦解した砂城の王の、宏闊な砂漠での旅路の話)