千盤鍵音は、いつものように授業を終え、生徒たちから集めたレポート用紙をまとめていた。今日のテーマはショパンの歴史と生涯に関する授業感想だった。中学生の書くレポートの内容といったら稚拙なもので、千盤は音楽大学に通っていた頃に言葉を数言交わしたことのある、数少ない友人未満たちの丁寧な筆致のレポートを朧げに思い出しながらくすりと笑った。あの頃といえば、毎日が苛烈だった中学時代がまるで悪夢だったのではと錯覚するほどに平滑な日々であった。千盤は思春期の経験が災して、人間関係の構築能力に難があるからして、彼女らとの縁は大学卒業と同時にぱったりと途絶えた。もう行方も顔すらも知れないが、元気だろうか。
 レポートをまとめて、次の授業の準備をするために音楽室の壁に並置された楽譜棚を開けてごそごそとやっていると、突然生ぬるい空気には似つかわしくない、低くハスキーな女の声が割って飛び込んできた。
「お前」
「ひゃあっ!?」
飛び上がって見ると、腕組みをした不機嫌そうな大村翼——今の名前は田辺歩——が立っている。彼女の仏頂面は相変わらずのことだが、その独特の威圧感と過去の拭いされぬ思い出の数々に、千盤の傷が癒えることは無い。
「ど、どうしておお…田辺さんが」
以前もこうして急に田辺が来訪したことがあった。おずおずと尋ねると憮然として彼女は口を開く。
「後始末でな」
「後始末…」
おそらく、かつて自分の担当クラスにいた生徒、美影杏にまつわることであろう。彼女が飛び降り、自死を選んでしまった事件、そしてその後の全校集会で起こった失踪事件。あれから幾分かの月日が流れたが、千盤自身もまだまだ元の生活が戻ってきたとは言い難い、あくせくした毎日を送っている。あの件に根を回してくれた田辺なら尚更だろう。
「まぁ、とはいえだいぶ片付いてきた。じきにこの学校に足を運ぶ用も無くなるだろう」
「…えっ」
その言葉に露骨にホッとした顔を見せると、嬉しそうだなと冷えた視線で睨めつけられ、思わず喉の奥から蛙のような声が出る。相変わらず、いや、おそらく永遠にこの視線に慣れることはない。
「まぁいい」
「す、すみません……。でも貴女のせいって言うか…」
「フッ」
殴られるのを覚悟で言ってみたが、千盤の予想に反して田辺は口元にへたくそな笑みを小さくたたえるだけだった。あの廃墟での争い以来、彼女から千盤へと叩きつけられるように漏れ出ていた抜き身の刃のような殺意は、最初から無かったかのように消え失せてしまい、千盤は未だに困惑している。
「…前もですけど、どうしてわざわざ音楽室まで来たんですか」
「悪いか?」
「べ、別に悪くはないですけど……貴女にとっても私は、い、嫌な思い出のひとつでしょう」
わずかばかりの勇気を出してそう——建前上は綺麗な言葉だが、暗にもう来なくてもいいという希望を込めて——告げると、田辺は思案するように顎に手を当てながら少し下唇を揉んで、こう言った。
「…ふん、良い思いはないが、お前のそのそばかすだらけの顔が慌てふためくのを見ているのはそう悪い気分ではない」
………。
「…………貴女、ずっとそうですよね」
いじわるだ。それを聞くと田辺は少し楽しそうに笑った。彼女の感情はいまいちわからないが、あの一件を契機として田辺の中の何かも清算されたのかもしれないと千盤は解釈している。他ならぬ自分もおおいにそうだった。
 居心地が悪そうに肩をすくめながらも楽譜をいくつか手に取る千盤の頼りなさげな指を見て、田辺はふいにこう言った。
「お前、以前私がここに来た時もピアノを弾いていたな」
「え…?えっと、それはまぁ、音楽の先生ですから…」
「そんな答えが聞きたいんじゃない」
田辺は面倒そうに眉間に皺を寄せる——そうではなく単に癖なのかもしれないが、千盤にはそう感じられた——と、ふいにグランドピアノの鍵盤に視線を落として、こう言った。
「あの時弾いていたのはなんという曲なんだ?」
「え?」
千盤は驚いて田辺を見る。田辺は女にしてはがたいのよく、体育会系の女で、芸術に関心を寄せるような繊細な心根の持ち主ではないと思っていたのだ。事実、学生時代に千盤が大事に抱えていた楽譜類を取り上げて、ぐしゃぐしゃに破いて足で踏みつけられたことも幾度かあったものだから。
「…えっと…ショパンの『別れの曲』っていう曲です」
「ふうん」
あの状況で別れの曲か、と言って田辺はおかしそうに目を細めた。あの状況とは、加害者と被害者の立場に過ぎなかった生徒たちが美影の事件を契機として和解を試みていたあの瞬間のことだろう。ちょうど音楽の授業が終わった直後に音楽室の近くでそんな会話をしていて、うれしくなったことを覚えている。田辺も知っていたのか。
「その、えっと、好きな曲なんです。ピアノの練習曲としても使われるような簡単な旋律…エチュードなんですけど、優しくて悲しい感じがして、激情も感じられて、昔からよく弾いていたのがこれだったので、つい、くせで」
言い訳がましいように矢継ぎ早に告げると、田辺はしかし何も言わなかった。それはもちろんそうで、田辺が自分の趣味や嗜好に興味があるわけはない。緊張のあまりとはいえくだらない話をしてしまったと恥ずかしくなり、一度俯くが、それでもなお田辺はまだ千盤を見ていた。まるで話の続きを促しているようだった。
「…、」
千盤は逡巡してから続ける。
「そ、それに、別れの曲っていうのはショパンがつけたんじゃないんですよ。本当はエチュード第3番ホ長調って言うんです。別れの曲っていうのは、日本人がつけた俗称で、映画から来ているんです」
「お前はそれを観たことがあるのか?」
「えっと、…はい。1回だけ。ショパンの生涯を描いた映画で、ポーランドへの愛国心なんかが描かれてて…」
田辺は、手近な教室椅子を引きずって来て逆向きに腰掛け、背もたれに腕を預けながら千盤の話を聞いていた。相槌はなく、聞いているのかいないのかわからない様子ではあったが、目だけは逸らさず千盤を見ていた。そういえば学生の頃、彼女にいじめられていた時もそうだったかもしれないと千盤は邂逅した。不思議な気分になった。
「弾けよ」
「…え?」
「その曲、聞かせろ」
田辺はピアノを指差してそう言った。毎日千盤が丁寧に拭いて手入れをし、定期的に調律を頼んでいるぴかぴかのグランドピアノだ。
「……えっ!!」
悲鳴を上げるが、田辺は頑として譲らなかった。いつも弾いているのなら簡単だろうと頬を付く田辺の少し厚めの手のひらにはやはり恐怖めいた思い出がこびりつき、半ば怯えながら千盤はピアノの前に腰掛けた。
 ちらと横目で見ると、その手の側面にいくつもの細かい傷や、あとのようなものが残っていることに千盤は気が付いた。学生の頃は気がつかなかった。そんな余裕などなかったからだ。
 ふと自分の手のひらも見る。千盤の手はきれいだった。体にはいくつもいじめの痕跡が残っているが、手だけは庇って死守したものだ。ピアニストを目指していた千盤にとって、手だけはどの部位よりも守りたい場所だった。もうピアニストとして舞台に立つことはないけれど。
 田辺のスーツの下にも、自分と同じような傷が残っているのだろうか。

 千盤が演奏を始めても、田辺の様子は変わらなかった。無駄な動きのない人間ではあるが、やはり電池の切れたロボットのようにじっと微動だにせずそれを聞いている。なんだか久しぶりに演奏を批評されているような気持ちになって、ひっそりと背中や胸に汗をかいた。
 曲が中盤に差し掛かり、それまでとは違った起伏を見せた時、千盤はそろりと田辺を見た。こうして改めて他人に演奏を贈るのは本当に久しぶりのことだったから、憎き相手と言えど評価が気になったのだ。きっと退屈そうな顔をして、5分あまりの時間を自分に捧げたことを後悔しているのだろうと思っていた。だが、田辺は硬く目を閉じていた。眠るでもなく、真剣に聞き入っている様子だった。
 こそばゆくなった。いじめをきっかけに人前でピアノが弾けなくなったから、千盤はピアニストの道を諦めたのだ。今でも大勢の人間に見られると、激しい動悸がしてすぐに吐きそうになり、立っていられなくなる。でも教師であれば、生徒なんか誰も自分の演奏を真剣に聴いちゃいないから、そんな環境でしかもう弾けないから、音楽教師になったのだ。
 だのに、田辺がピアノを聴いている。一音一音聞き漏らさまいと言うように。
 その喜びは本当に久方ぶり——10数年ぶりの感覚で、けれどその喜びを千盤から奪ったのもまた、目の前のこの女だった。だけど、きっと田辺も、しかたがなかった。
 鍵盤を叩く手が滲んだ。目に涙の膜が張っているのだとすぐに気づいたが、手を止めて拭うことだけはできなかった。

「普通だな」
 感想を聞いてみるとそのように一蹴され、万感の想いに駆られた自分が馬鹿らしくなって千盤は閉口した。やはりこの女に音楽の何たるかなどわかるはずもない。
「そ、そうですか…。じ、じゃあ、頼まなきゃよかったんじゃないですかね…」
「別に聞かなきゃよかったなどとは言っていないだろう」
 一瞬で鬱々とした感情になって卑屈を叩くと、田辺はそう言って腕を組み替えた。じゃあ褒めればいいのかとも返されて千盤は首を振る。褒められると逆に困る。
 ふいに田辺が訊ねた。
「…なぜ…。なぜその曲が好きなんだ」
「…、なぜ、って」
 好きな理由など、自分の琴線に触れることの理由などどう伝えたら良いのか。言葉に詰まるが、ふと思いついたことがあって、続ける。
「……少し物悲しげな音律が、心に響いて好きっていうのが一番の理由、です、けど。…ショパンが残した言葉に、こういうのがあって。
『私は一生のうちに、もう二度とこんな美しい旋律を見つけることはできないだろう』って。
……この曲は、見つけてもらえた曲なんだなって。それってすごいことだな、って…」
 そこまで言いかけてはっと顔を上げる。この言葉は田辺を逆上させるのではないかと思ったのだ。きっと、田辺も、…そしてここには居ない体育教師も、みんな、たぶん未だに、そしてこれからしばらくも見つけられはしない。
 だが、それを聞いた田辺は至極穏やかな様子であった。そして呟く。
「………お前がまだ、誰にも見つけられていないのだとして、それが私のせいだとして……以前も言ったように、私は謝らない。
だが……私は、…私だけはお前を忘れない。何があってもだ」
 しんとした音楽室に田辺の声が、続けて外から生徒たちの喧騒がにわかに混ざった。開け放たれた窓から入り込む風は春の様相を為して、確かに別れに近くもあったし、出会いでもあるようだった。
「……私も」ごく自然に、恐怖の象徴に対峙する時の畏れなどなく、蛇口をひねるように言葉が漏れた。「私も、忘れませんよ……。忘れるわけ、ないじゃないですか……」
それを耳にすると田辺はわずかにだがまた笑った。どこか安心したような、心からの笑顔にも似て、しかし悲しげでもありーーそんな色々を宿した笑みだった。

「……長居しすぎたな。そろそろ帰る」
 田辺は袖を少し捲って腕時計を見るとそう呟く。そのあたりに無造作に放っておかれた鞄を片手で背負い直すと、特に千盤を振り返るでもなく音楽室を出ていく。その所作は乱暴で、やっぱり千盤のよく知る粗野な大村翼その人のものであった。
 見送るか躊躇してから一歩だけ踏み出す千盤に、しかし田辺は一度振り返って、ああ、と声を上げた。
「言い忘れていたことがあった。曲の感想だが…」その視線は冷たく、鉄でできた顔のようであったが、けれど田辺は確かにこう言った。「私も明るい曲よりは、暗いものの方が好みだ」
それだけ言うと、田辺は颯爽と踵を返して廊下の向こうへと去っていった。何か返そうかと口を開く千盤のことは特に待たず、行ってしまった。いつだって勝手な女だと千盤は思った。
「………」
 音楽室まで引き返す。ピアノの譜面台には先程弾いた『別れの曲』の楽譜が開かれたまま置かれてあって、それを手に取り何気なくパラパラとめくった。
 昔。いじめられるよりずっと前は、明るい行進曲なんかが好きで、そればかり弾いては家族や友達に披露していたものだった。いつからか趣味が変わって物悲しいものばかり選ぶようになってしまったが、そんな時に選んだこの曲には、千盤のいくばくかの、人生に対する希望のようなものが込められていた。
 たとえば、別れと銘打たれていて、名実はそうではないこと。たとえば、二度と見つけられない素晴らしい旋律だと、大きく背中を押されたこと…。
 ピアノから離れて窓の外を見る。空はどこまでも澄んで青く眩しいほどで、下に視線を移すと何人かの生徒たち、そしてひとり鞄を抱えた田辺が校舎から出て歩いていくのが見えた。
 黒い学生服の子供たちだってそう変わらないのに、スーツを纏った田辺の姿は太陽の光の中でもより鬱蒼と暗く見えて不思議だった。そうして子供たちと彼女の姿とが対比され、妙にもこう思ったのだった。
 彼女の青春時代もまた、奪われ失われていたのだろう、と。
 だからとて永劫許せることはない。だけど彼女もまた、服の下に同じく無数の傷を負っていて、まだ子供で、そしてようやく時が動き出したのだ。ならば。

 田辺が校舎を出て間もなくして、頭上からピアノの音が聞こえてきた。振り向くと、ちょうど自分の出てきた学校玄関のある壁に面する位置に音楽室の窓があるようで、そこで千盤がまたピアノを弾いているのだとすぐに察することができた。
 聞こえて来る旋律は、先程の『別れの曲』とは違っていた。田辺自身も何度かテレビなどで聞いたことがある曲だったが、音楽に明るくない彼女にはその曲名がわからなかった。だけど、先程の曲よりこの季節にはずっと合っている音色のように思えた。最近千盤先生、よくピアノ弾いてるね、と子供たちが話しているのが聞こえた。
 なんの曲だろうか。きっとどうせ忘れるし、曲自体には興味もないけれど、覚えていることができたら聞いてみるのも良いのかもしれない。そう頭の片隅に留めながらも、桜の花びらが落ちる道を田辺は歩いていく。陽気は責められているようで嫌いだが、背後に小さく響くその音色は、腕前のためか聞いていられると、不遜なことを考えながら。