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羽虫の戯言との約束など守ってやる義理はない、それでも、それなのに、有元はささやかに笑った。
――約束、守ってくれてるんですね。ありがとうございます。うれしい。
いつからか趣味が変わって物悲しいものばかり選ぶようになってしまったが、そんな時に選んだこの曲には、千盤のいくばくかの、人生に対する希望のようなものが込められていた。
たとえば、別れと銘打たれていて、名実はそうではないこと。たとえば、二度と見つけられない素晴らしい旋律だと、大きく背中を押されたこと…。
彼はここにはいない。会えるかもわからない。なのに、今はずっと彼がいてくれるような気がした。支えてくれているような、支えてあげられているような、そんな愚かな錯覚を。
少しだけ笑った。笑いながら、少しだけ泣いた。どうせ数階ぶんも遠くにある僕の顔なんて、祠堂くんには見えるはずがない。
そう、冷静な僕は囁いているのに、息苦しい僕はまだ大声をあげたかったのだった。
辿り着いてくれるのなら、早く、早く。どうかこの涙に気付いて、と。
あの絶望の端から溶けて消えていくようだった。ここは暖かくて、世界で一番安心できるような気がした。韋田の腕はそれほど大きくないことを、俺はちゃんと知っているはずのに。彼がこんなふうにしてくれるだけで、俺を取り囲んでいた恐怖のむしろが取り払われて、優しく包まれるようだった。
「……えっと、ぞっこんラブってことですか?」
「ちゃうわボケ」
「チェックメイト」「あら」 細道の操るキングが、芥の眼前…
アルバートはよく笑う。まるでそうすることが正解だと彼が断じているかのように、ダリアには見えていた。 笑顔の裏で怒っているのだろうと察した事は幾度かあったが、彼が泣く姿をとんと見た事がない。かといって感情を押し殺す男でもないのだ。”そうした方がよほどましだという判断なのだろう”ーーダリアはそんなふうにアルバートのことを見ていた。
図ったように鼻歌が止んで、三人はまた窓の外を見た。
冬の東京は、なおもスピードを増すように、いまだ街灯りを受けて輝いている。
オレは咄嗟にこう紡ごうとした。うん、めちゃくちゃ美味い。でも出てきたのは酒と煙草で焼けた息だけで、やっと頷くオレのことを、ただ丹内は見ていた。
微笑んでいたのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。顔を見る前に頭をぐしゃぐしゃに撫でられたから、それはもう、確かめようがなかった。
獲物だって、逃げ惑い、食らいついてくれた方がよほど狩人にとってはスリリングで都合が良く、焼き付かんばかりの思い出にさえなった。常に鳴刺はそんな獲物を欲する狩人で、怪物だった。
最期に見たのはすべてを喰らうような闇と黒炎。最期に聞いたのは何かが猛る声、引きつった女の吐息。漏れ出す僕の笑い。すぐに激烈な痛みが襲い掛かり、そのうちに僕という存在は消えて無くなったけれど、その痛みこそ僕の望んだ地獄の姿だったから、何も怖くはなかった。
ーー世界はすぐ、じきに不幸になる!
金城陽一は驚いていた。
自分は死んだのではなかったか。少なくとも、これから自分は死ぬのだという、あの瞬間に感じた、存在そのものが無に帰し自我が宇宙に消失する恐怖と絶望、焦燥だけはいまだ心に燻っていた。無我夢中で、誰の声もせず視界すら閉じられて、何を口走ったのかさえもはや覚えていない。
「――わたしは絶対幸せになるんです。わたしの愛する人が、わたしの愛した人たちが、わたしの幸せを祈ってくれたこの場所で」
小さく、小さく。祈るようにつぶやいた。誰にも聞こえずに雪の中に消えていった、その音波は、けれど確かに存在したって、今わたしが。わたしだけがそれを、証明してあげられる。
彼がそうして私から歌を奪うから――ああ、困ってしまったわ。私はもう、きっと二度と歌えない。
それほど熱を上げては、周囲にバレてしまうのではないか?――いや――むしろ、こんな夜ばかりは羽目を外したいのかもしれない。誰だって、世界に否定されている。
鉄皮がふっと和らいで少しだけ口許にしわができ、彼の教師人生を物語る。この人はそうやって、何人もを育んできたのだろうーーこの学舎から。
君のその目のとうとく若い輝きは、君にしかないものなんだよ。
ところで最近、韋田はよく泣くようになった。俺が何かを言えば絵の具を散らしたように顔の色が変わるから面白かった。そうした日々の中であいつの目が徐々に熱を持っていくのが――忌避すべきだったのに、嬉しかった。硬い氷が溶けたような気がしたのだ。
あの北極星の輝きが変わらないように、私達もきっとばかで不器用なあなたと一緒に生きていく――この終わった世界で。