顔は知っていた。年の離れた腹違いの兄が仕えていたという男。苗字ばかりは人一倍有名だ。大抵の人間は株式新聞でその社名を見たことがあろうし、少し興味を持って調べれば簡単にその名と人相に辿り着くことはできた。――銅座孝史郎。暫定、次期社長。
いつだったか、まだ俺が高校に上がる前、あの兄と会ったことがある。隣にはその男が立っていて、人の良さそうな笑顔を浮かべて俺に和かに挨拶をした。兄は彼こそが今仕えている雇用主であり、仕事のない自分を拾ってくれた幼馴染だと言って笑い、事実二人の仲は初めて邂逅する俺から見ても良好のように思えた。きっと、ヤツは悪人ではないのだろうなとも。
だからこそ忌ま忌ましく感じられた。俺の兄は、金城陽一は特段劣った人間ではない――あれで頭の回転は速い方であったし、腕っ節だって人一倍だった。器用で取り入るのも上手く、いつも人に囲まれていた。己の境遇を悲劇的に虚飾せずとも、たいていの場合手を差し伸べてくれる人間に恵まれていたから、仕事が見つからないはずなどなかったのだ。きっと、友情の延長上に持ち上がった話でしかなかったのだろう。誰にもへらへらと諂って憚らないあの男が、馴れ合いの果てに己のレールに兄を引き込みさえしなければ。兄は誰かに従うような人生を送らずとも良かったし、今はこんなふうにさえ思う――どうせ、お前に関わったから兄は行方不明になったのだ!
そういう事情があったものだから、とんとその男に良い印象は無かった。少なく見積もっても三年以上は前の話だ。
その日はひどい大雨で、俺は傘を差して街中を歩いていた。この大雨ではどう動こうが否応無しに濡れてしまうし、知り合いに会おうものならどう嘲られるかも分からない。本当なら外になど出たくも無かったが、家にいればそれはそれで父に殴られるのだから仕方がない。聖陵学園への転入手続きが済むまでそうしてだましだまし時間を潰しているしかなかった俺の顔が水溜りに映っては歪んで消える、そんな曇天の下だった。
あの男がショーウィンドウの前に立っていた。 味気ないビニール傘を差してぼうっと窓の中を見つめている。そいつはうんと背が高いから、一層その立ち姿が幽鬼のように鬱蒼としていて、思わず俺は幽霊にでも出会ったのかと思った。無視すべきか逡巡していると、そいつはふと俺に気が付いて振り向く。ぼうとしていたまなこが焦点を結び、あっ、という声を上げて視線がかち合う。
「陽一の弟さんじゃないか」
「…っす」
適当に頭を下げれば、もう先程の雰囲気はなく、目の前にいたのは明かしたくなる鼻のいけすかない青年だった。覚えてるかな、俺のこと。そう曖昧に笑う姿は、俺の記憶の中にあるやつと何も変わっちゃいなかった。ただ、俺の知っている銅座孝史郎は、もう少し笑顔が上手かったような気もした。
「覚えてますよ」俺は言った。「相変わらず、お元気そうで」
俺の皮肉に目敏く気づいたか、銅座孝史郎は目をわずかに丸くすると、誤魔化すようにまた笑う。それだ。その欺瞞めいた表情は、もっと狡猾だったはずだった。
「君も元気そうで何よりだ」
俺はてっきり、ヤツのことだから、立ち話もなんだしせっかくだから茶でも飲まないかと声をかけられるものだと身構えていた。しかしそうして二言三言言葉を交わすと、そいつは傘を持ち直してこう続けた。
「それじゃ、俺はこれで」
「え?」
「すまない、急いでてな。また機会があったら一緒にお茶でも飲もう」
嘘だと思った。急いでいる人間があのようにぼうっと道端に立ち尽くすわけがないし、何よりあの泥色にくすんだ瞳はしっかりと俺を映していたーー怯えた色を湛えて。
足早に雨煙の中に消えていくその背は頼りなげで、逃げるように揺らいでいた。行き場を失った俺の顔がショーウィンドウに映っている。新たな玩具を見つけたという、悪辣な。父から継いだおどろおどろしい青目が鬱屈に彩られてひずんでいた。
「…ふうん」
初めて、また会いたいと思った。足場が崩れて、どこにも立っていられなくなってしまった俺が、唯一相好を崩さずいられる相手が、この町にまだいたのだから。
以来、俺はヤツの影を探した。落城させたかった。この街は存外狭いが、すべてを持てる者は多くない。お前は持っている。金も知恵も権力も、今はどこに行ってしまったとも知れぬ兄からの親愛も。それらすべてを、幻とぶち壊すことこそが、俺が俺でいられるただ一つの方法だった。
誰にも愛されなくなってしまった。どこにも行けなくなってしまった。すべてが憎らしかった。誰かの幸せを滅茶苦茶に破壊したかった。お前が隙を見せるなら、俺はその虚に向かってこう吠えようと思った――「金城陽一はどこへ行ったんだ?」――そう、飢えた犬のごとくあの男の影を追った俺だったが、神はやはりこのような俺にこそ薄情か、あれ以来、俺があいつに出会うことは無かった。
刻一刻と、学園への転入手続きは進んでいった。あの灰沢という教師がどのように父に根回しと説得を行ったのかは定かではなかったが、じきに俺は岡山のクソ田舎に押し込められることが決まり、滅ぼしたくて仕方がなかった数畳半の自分の部屋も、まっさらに片付いた。私物のすべてが岡山へと送られた頃合いになっても、俺はまだ諦めていなかった。
転入までにあの男を探したい。
次こそ、どっぷりと茶をしばこうと嗤って、あの諦念と萎縮に満ち満ちた瞳の色のわけを衆目に晒してやる。そうしたら俺の、この世界への溜飲もわずかに折りるのだ! 俺の幸せのために、傷ついてくれ!
そんな陥落した願いが通じたのか、あるいは罰しでもしようとしたのか。奇遇にも俺は、あの男の友人と出会うことになる。あの日と同じ大雨だった。
引っ越しが明日に近づいた前夜。あの男の背を雑踏の中に見て、自分でも顔がほころぶのがわかった。黒山の人だかりを掻き分けてヤツに濡れた手を伸ばす、その時気が付いた。誰かと話しているようだった。
その横顔は笑ったり、怒ったりと軽妙に表情を変え、そのたび弾むように大きなピアスが揺れていた。隣にいたのは赤茶けた髪の男で、俺と同じくらいか、それより背が低かった。長い前髪によって瞳は覆われていて、人相はよくわからなかったが、その口元はよく動き、時折無表情になった。
仲が良いのだということを理解するには十分すぎるほどの時間だった。 じきに彼らは別れ、後にはその男が残された。大手を振ったそれがゆっくりと降り、控えめに指が畳まれる。笑っていた口元が静かにその色を閉じ込めた。
こいつでもいいな。
俺はそいつに話しかけた。単に、外堀を埋めたかったのもあった。それから、落日のようなその色の変化が、純粋に気になった。
「あの」
振り向きざま揺れた前髪の間から、はじめて瞳が覗く。目の覚めるような金だった。俺をあの地獄から結果的にではあるが掬い上げたあの教師にも似ており、…偶然にも、俺の兄が自慢げにしていた、稲穂の髪のようでもあった。それはすぐに見えなくなるが、かわりに返事があった。
「? どちらさんで?」
「俺は……俺は葛城愛知。えーと…さっきアンタが話してた、銅座…さんの知り合いで」
ああ、と男が応じる。俺は続けた。
「ただ、兄貴が仲良くしてただけだったんで、俺はあの人と話したことはあまりなくて。んで、最近…兄貴、姿が見えねえもんだから。あの人に話を聞きたかったんですけど。なかなか捕まらなくて」
この一件については知らなかったのか、男は妙な顔をしながら俺の話に耳を傾けていた。あまり素直に俺の話を聞いていれば、すぐに取り込まれてえさにされるぞ。胸中で悪魔が小さく笑った。
「だから、今話をしていたアンタにも聞いてみたくって。ダチなんでしょ?」
すると男は顎に手を当てて考えるそぶりを見せた。なるほど、と漏らしたのちに、あっしでよければ構いませんよ、と人好きのする柔和な笑顔を見せた。しかしそれはある種機械めいて感情がなく、ああ、”同類”かーーと納得する。お前も諛う人間なら、なるほど、同種同士惹かれるものもあるのだろう。
合意した俺達は近場にあったファミリーレストランに入店する。ちょうど時刻は雀色時で、腹ごしらえにもちょうど良い。俺は適当な肉を注文し、ややあって男も似たものを頼んだ。
「自己紹介が遅れましたね。あっしは韋田天則と言います」
水を片手に男は口を開いた。
「アンタの言った通り、旦那……銅座さんとは友人です」
それで、葛城さんの兄っていうのは?
そう問われて俺は素直に答える。金城陽一という腹違いの兄がいたこと。それが数ヶ月前に行方不明になったこと。先日、街中で出会った銅座孝史郎が、俺から逃げるように姿を消したこと。怯えた目。
それらを伝えれば、今まで表情を変えなかった男――韋田の口元がわずかに、さもすれば見逃しそうなほどわずかにではあったが、歪むのがわかった。俺は面白くなって続けた。
「そんな顔をしたもんだから、俺はあの人、事情を知ってるんだなと思ったんです。俺が兄貴に似てるからっていうのも一因なんでしょうけど…だとしても、そんな顔をする理由、無いじゃないですか」
お待たせしました、と不細工な女が肉を置く。湯気を放つ料理に、俺も男も手をつけない。幸福を謳歌する家族やカップルの喧騒が取り巻く中で、俺達の席だけが空間から切り離されたように空気がなかった。テーブル側の窓にお互いの横顔が反射している。横目に見ればあの雨の日と同じ、夜の闇にやはり黒ずんだ顔の俺が映っていた。
間を置いて、韋田が答えた。
「あっしはそのあたりの事情は存じません。力になれなくてすみません」
「…別にアンタが知らなくても構わねーけど。アンタから見てどうなんです? 銅座さんは。隠し事、しそうな人だとは思いませんか。俺が知ってるあの人も、いっつもへらへら笑っていて」
「旦那が」
まるで、男の対応は隙を見せまいと佇む兵士のそれにさえ感じられ、俺はつつこうと躍起になって言葉を紡いだ。気が変わり、お前でもいい、たとえば友人を罵倒されて激昂でもしてみたらどうだと思った。一緒になって悪口のひとつやふたつ言ってみせてくれても良いだろう。なんたってどうせ、腹に一物抱えていない人間などこの世に存在しないのだ。同族嫌悪という言葉も存在するほどだ。そう唆そうとした俺の言葉を、ぴしゃりと韋田は遮り、俺を確かに見た。その、闇を裂くごとき金の目で。
「本当に楽しい時は、もっと声をあげて笑います」
「は?」
「怒る時は怒りますし。わかりやすいですよ、あの人」
その瞳が燃えて俺を見る。閃光のように。言葉は芯を持って硬く、もはや他の音など聞こえない。存外それが低いことに気づいたのは、新たな発見というべきか。
「あっしは何も知りません。力にもなれません。アンタのお兄さんのことも知りません。金城さんという方の写真は旦那の部屋に飾ってありました。アンタはそれによく似ている。だから、アンタが彼の弟さんだというのも、事実なんでしょう。旦那がまだあっしに話していないことがあるのも、きっとそのとおりです。もしかすれば何かしてしまっているのかも。それに気づいたアンタは聡い。ですが、お兄さんのことを心配に思う以上に、アンタ、別のことを考えているでしょう」
一方で、狭量な俺の正体を見抜かれていることに気づくのは遅すぎた。どうしようもなく俺はただの高校生で、人を嗤うには未熟だった。いや、俺が未熟であること以上にこの男が明達だったのかもしれない。それは俺にはわからないが、ただひとつわかるのは、
「愉快がって、旦那に傷をつけるのはやめてください」
俺は毒牙にかける相手を間違えたということだった。
食器が激しく鳴る音を皮切りに、周囲の喧騒が蘇ってくる。雰囲気の変わった相手に驚いて、カトラリーケースを取り落としてしまったらしかった。ばたばたと店員が駆けてきて、すぐ新しいものに交換しますねとか、何か言葉を投げかけてきたが、俺は目の前のチビに気圧されて目が離せなかった。
「……兄貴を失った弟に対して、ずいぶんな言い草じゃねえか」
乾いた声でそう言うのがやっとだった。韋田は覇気を引っ込めて、すみませんと頭を下げる。ここで俺が相手の無礼を逆手に怒号を浴びせるのは簡単だった。しかし、そうしたところでこの男の鉄仮面が崩れることはないのだろう。仮面が剥がれるのはーーおそらく。
「たとえば、俺の兄貴と銅座さんの話とか、聞きたくないですか?」
「いいえ。いつか旦那が自分から話してくれるのを待ちたいので」
取りつく島もないなと思った。こうなってくると俺にはもうなすすべはなかった。今更冷え切った料理に手をつける気も起きず、数口掻き込むと俺は千円札を放り投げて席を立つ。むろん呼び止められたが、俺は両手をあげるだけで、男の顔は見なかった。
「あー、あー。アンタの言うとおりだよ全部。悪かったな」
「…旦那のことが嫌いですか」
「大嫌いだよ」
これで多少なりとも傷つけばいい、そう思ったのに、振り向いた韋田の表情は特段変化がなかった。ばかりか歯牙にも掛けぬといったふうだった。きっと世間の目など関係ないのだろう。自分の心さえ揺らがなければ、あるいはアイツさえいなくならなければ、この男が足場を失うことなどないのだろう。落胆と妬みでいっぱいになりそうだった。…なぜ、これほどまっすぐいられるのか。
「俺には何も無ぇのに、金も地位もある、兄貴を失ってもまだアンタがいるアイツのことが嫌いだ」
吐き捨てれば男はただそうですかと言った。かわいそうにとさえ言わなかった。それ以上謝りもしなかった。俺は店を後にする。あまりにも不細工が多すぎる。もう来ることもないだろう。
雨は晴れて星が見えていた。ただし月は分厚い雲に隠されて見えなかった。きっとその先には正円めいた満月があって、この町を薄く照らしたのだろう。星さえも見えなければよかったのだ。こうも光が多くては、嫌いなものが増えてしまう。銅座孝史郎もいつか、何色かが苦手だと言っていたような気がする。
小さい頃、兄は指をさして星が綺麗だと言った。まだ俺たちはお互いに学生で、逃げ方も知らなかった。俺は空なんざ、天井の果てに思えて嫌いだったが、兄はそうではなかったようで、飛べでもすれば手が届くのにと夢物語を呟いて笑った。飛べるわけがない。そう言って俺も笑った。どうせ地上で死ぬのに。
照らすものがない夜の中で俺は少しだけ泣いた。お前には金がある、地位がある。何より愛があるのに、なぜあのように行き場をなくして立ち尽くすのかわからなかった。いらないなら代わってほしかった。俺はこの町が大嫌いだったが、お前は違うのだろう。俺が明日捨て行くものを、お前は後生抱えることが出来るのに、なぜ、神は持たざる人間を取り違えるのだろう。
金の光が雲間から覗き、夜の町を、美しいもののように照らしてしまう。
<了>