<1>
ーー実に凄惨な事件だった。
マーサ・エヴァンスは多少顔と名の売れた有名人で、それなりの誹謗中傷も、世には危険な立入禁止区域があるということも、あくせく働いている警察内部の事情も多少なり知っているが、流石に目の前で人の死体を見るのは初めてだった。
死体。
彼はそれら”作品”のことを芸術と呼んでいたが、一般倫理の観点からすればそれはまさしく死体でしかなかった。
どれほど精巧で、生きているかのように形づくられたとしても、所詮は温度と魂のない肉塊でしかない。それがどんなに美しく、受け継がれてきた尊い歴史の賜の上に成り立つものであれ、見方を変えればただの残虐行為にしかなり得ない。
だとしても。それを理解していてもなお、彼ーーヨアン警部補が心血を注いで制作活動を行なっていたことを、マーサはあの瞬間肌で、目で、耳で感じ取った。
「皆さんの倫理観からすれば俺は悪なのかもしれませんが」
そうして小さく笑った彼を忘れることはできない。
作りたいものを、人類が取り決めた尺度のために制限される悲哀。もともと地球そのものには存在しないはずの法と倫理によって世界から爪弾かれた者。異常者…ヨアン警部補。
マーサはあの瞬間、せめてクリエイターの領域に足を突っ込んでいる身として思わず発した――「あたしは綺麗だと思うよ。あんたの作品。許すことはできないけど、素晴らしい技術だと思う」――
ヨアンはどのように笑ったのだろうか。あの時の光景も、闇の中に差し込む光を受けて煌めく精巧な家具たちの姿も、抱き合って喜ぶマリアとアリスの姿も鮮明に思い出すことができるのに、ヨアンの返答と曖昧な微笑みの内訳だけが、どうしても思い出せない。
「…じゃ、今日の配信はここまで〜。またとんでもねえ事が起きたらBAN覚悟で配信するよ、チャオ」
軽口を叩いて停止ボタンをクリックする。今しがた己の顔が映し出されていた放送画面はふつりと途絶え、コメント欄に労いや心配、投げ銭にちょっとした罵倒、様々な人間の感情が絶え間なく流れていた。
つい先日まで、マーサの世界はその濁流で満たされていた。こんなに手軽に世界中の人間と接することができる手段は他になかったし、承認欲求も簡単に満たされた。面白いと思った事をやって、奇妙な人間との交流を持って、マーサ・エヴァンスの名前もとうとう著名になり始め、ついでに金まで稼げた。こんな素晴らしい商売は他にない。楽しかったし、このままタレントなんかに移行して生きていくのだろうか、クリエイトも続けたいな、などと夢想しながら生きてきた。
しかし今、マーサの目に、濁流はあまりにも無感情に映って見えた。 才能――ユーモアや構成力、トーク力、企画力。プロデュース力。いくつも挙げることはできようそれを、今はいくら褒められても認められても、胸に巣食う孤独が邪魔をしたのだ。
「……つまんねーな」
あの人もきっと、ずっとこうだったのだろう。マーサはぼんやりとだが、確かにそう思った。
<2>
ヨアンはまだ生きている。あの時、罪の追求を日和った自分たちのせいで、ヨアンの凶行は今もなお続いている。
運命に翻弄されたセシル・スペードは何者かによって殺害され――おそらくスコットランドヤードから失踪したというアルマン刑事の仕業だろうとマーサは推測している――、無論、ともに戦った仲間である彼の葬列に、ヨアンの姿はなかった。
ヘンリー・ロストマンにそれを尋ねたところで芳しい返事はなく、彼も己の選択を悔いている様子でしかなかった。彼はヨアンを追うのかもしれないし、あるいはもっと大きな――人身売買組織、果ては人間師という大いなる流れの企みを阻止するその日まで、ヘンリーの戦いは続くのかもしれない。
ついでにマーサの兄であるニック・エヴァンスとてヨアンの居場所など知るはずもなく、どころか彼は人間師を追うなどという発想さえない様子だった。曰く、一般人である自分たちに人間師という巨悪はあまりに重すぎるし、妹である自分さえ生きていればそれでいいと。実に臆病な回答だが、ニックらしい堅実で優しい答えだとも言えた。
そして、マーサはというと。
「ここね…」
独自の情報網で得た地図を手に、マーサは今、一人でとある寂れた郊外のホールの前に立っていた。時刻は20時頃。善良な市民ならとっくに帰宅路に着いているか、こんな人気のない街中ではなくネオン街に足を早めている頃合いだろう。
そんな死んだホールにも人は訪れる。高級車を乗り回しては、次々に人が入れ替わり立ち替わり、ガードマンにトランプを見せて入場していく。その様子を物陰から伺いながら、何もかもあの時と同じだとマーサは思った。 ドレスコードなど身にまとってはいないが、マーサはそれでも深くフードを被り、小さく息を吸い込むと足早にガードマンに駆け寄って、一枚のカードを提示した。あの時”這い寄る混沌”から受け取ったトランプカードはどうやら謹製のようで、マスターキーの如くガードマンの強固な城壁を搔い潜った。無論今宵もそれは変わらず、ガードマンは一つ頷くと、手慣れた様子でマーサをホール会場へと招いた。
・・・
今日のライブは特別らしかった。
なぜならかつてスコットランドヤードのワトソン署長が諦めた、大規模人身売買オークションの再来だからだ。マーサは独自にこれを突き止め、独断で潜入を行なったが、ヘンリーたちヤードや、兄・ニックには一言とてこれを伝聞していない。おそらく止められるだろうと思ったし、自分の伝聞のせいでヤードの連中が一斉検挙を行おうものなら、マーサの目的はきっと達成できなくなってしまうからだ。
――ヨアン警部補に再会したい。
マーサの目的はただそれだけだった。彼を捕まえるだとか、罪を衆目に曝け出すことになどなんの興味もなかった。それこそ彼の言葉を借りるなら、正常という物差しによって彼を罰することは人間のエゴイズムでしかなく、それではヨアンも、――恐らくはこの自分も、何も変わらない。そう思った。
ただ、彼に再び会って、あの日の曖昧な笑顔の裏面に描かれた図柄を知りたい。それだけだった。
あの時マーサに配られたのはスペードのキングだった。ならばヨアンに配られたトランプ・カードの役職は、一体何だったのか。
<3>
掛け声は熱狂していて、流石のマーサも薄気味悪く感じるほどだった。 ヨアン警部補の作品にこそ敬意を表したマーサではあったが、同じ人間を奴隷として扱い、競り落とし、価値を測り合うその価値観は理解こそできても納得はしがたいものだったし、単に勿体無くも感じた。
マーサは元々人好きな方である。だからこそ動画配信などというプライバシーもへったくれもない行為で顔を広めている。ただ漠然と生きるより、目を見張る速度で名の知れ、怒涛のようにメールがボックスを覆い尽くす方がよっぽどエキサイティングだった。
きっとあの”商品”たちも、境遇さえ違えば、愉快な価値観でもって他人の人生を豊かにしたかもしれないのに。
そう思いながらマーサは最後方でオークションの様子を眺めていた。
今まさに、自分と同じ年代と思しき痩せた全裸の少女が数万ドルで落札され、鎖を引かれて連れられていった。その顔に色はない。絶望か、それとももはや痛みを覚えすぎて何も感じなくなったのか。
幸いなのは――いや、不幸だったのは、マーサが、人好きではありながら、それほど情愛に満ちた人間ではなかったことだった。
(かわいそうに)
マーサはただそれしか思うことなく、自分と同じ数だけの歳を重ねた少女が、人間に踏み荒らされて終わっていく様子を見守っていた。
次はマーサより年若い少年が壇上に上がった。腹に赤いペンキで数字が描かれ、未熟な肢体や性器を隠すことさえ許されず色を失くして佇んでいる。 何人もの好事家が声を荒げた。「一万!」「二万!」「三万五千!」…
マーサはというと、その少年の表情の淵に失意が宿り始めるのより、場内の人間の様子ばかり皿を見るように観察していた。ここに、あの男がいれば――。
「五万でいかがでしょう」
白日の下に立ったギロチンの如く、整然とした右手が上がった。マーサは目を見張り、思わず前に乗り出す。すぐそばにいたでっぷりと太った男が不満そうにマーサを咎める。
「誰も出ませんね? では、俺が落札って事で」
その軽薄で明るい場違いな声を聞きまごうことなどありえない。ライトに照らされ、太陽に似て輝く金髪や、しっかりとした背中も間違いようがない。後ろから見ていてもわかる。
「…ヨアン…警部補!」
彼は壇上に一度近づくと、少年を繋ぐ鎖を手にとって、舞台袖へ歩き出した。マーサは駆け出してそれを追う。今日ばかりは革靴でなくスニーカーで良かったと感じた。こんなにも走りやすく、たとえ身のこなしの素早いヨアン警部補とはいえ、マーサがたどり着くのは容易だったのだから。
重い音を立てて鉄扉が開き、中へ男と少年が消えていく。マーサはさっと扉の中に滑り込むと、暗い舞台裏で鋭く叫んだ。
「ヨアン警部補!!」
その腕を掴み上げる。長く伸ばした前髪が型を失い、男と目が合った。振り返った男――ヨアンは驚いた様子でマーサを見下ろし、口を開く。
「確か…マーサ・エヴァンスちゃん…だったっけ?」
「そうだよ。ずっとあんたのこと、探していた」
肩口で息を切らしながら返答するマーサを、ヨアンはしばらく目を丸くして見つめていたが、そののちに薄く笑った。
「逮捕しに? …そうじゃないですよね」
「…」
「もしそうだとしたら、君は必ず先輩や、騎士の兄貴を連れているはずだ。違います?」
マーサは何も言わないまま、まっすぐヨアンを見つめ返した。それをどう受け取ったのか定かではないが、ヨアンはふっと周囲を見渡すと、狼狽え、騒ぎかと身構える従業員を手で制し、全裸の少年を預けるとこう言った。
「その材料、頼みます。俺は少し、この子と話があるんで」
ヨアンはマーサに向き直ると、さあ行きましょう、飲み物くらいは奢りますよ、と快活に笑った。初めて知り合った時と同じ、裏表など何一つない男なのだなと、それだけでマーサの溜飲は下りる心地だった。
<4>
投げ渡されたのは甘ったるいココアやジュースでもなく砂糖の一滴もないブラック・コーヒーだった。驚いて缶を見下ろしていると、隣に腰掛けたヨアンが言う。
「以前、一緒に捜査をした時…俺やニックさん、先輩がカフェオレを頼んでいたにも関わらず、君とセシルさんだけはコーヒーを注文したでしょう。それで君は、甘いものが苦手なのかと思っていた」
「…覚えてたんだ」
「そりゃあね。俺は先輩の、優秀な部下ですから」
ヨアンは茶目っ気たっぷりにウィンクをするが、その胸には勿論ヤードの誇りたるバッジなど無い。彼が警官生活のどこまでを口惜しく思っているのかなどマーサには知る由などなかったが、やはりヘンリーは、ヨアンにはそれなりに愛されていたのだろう、そう思った。
「それで、どうして一人で俺を?」
さすがはよく喋るスピーカーというべきか、ヨアンの問いだけが落ちていく水の音の中にあって軽やかで聞き取りやすかった。ホール前に設置された噴水は、時々思い出したようにライティングを受けて水を噴き、それだけ見れば今噴水に腰掛けている自分たちはロマンティックな男女関係に映らないこともないのかもしれない。
温かく熱を持つコーヒーの缶を握りしめてマーサは口を開いた。
「…わからない」
光沢を持った缶の表面にマーサの顔が映りこむ。たいていの場合、笑みを湛えているはずのその口元は死んだようになっていて、長く垂らした前髪の隙間から深海のごとき藍色の瞳が覗き込んでいた。血を分けたあの兄と、本当は全く同じ色をしているはずなのに、なぜ自分はあの温かく優しい正常な家庭ではなく、この冷たい寒空の下、異常な連続殺人鬼と穏やかに茶など飲み交わしているのだろう。晴天の空の下に星が静かに瞬き、ロケーションばかりが最高だ――カメラに収めれば、映えそうだ。
「あれから、あんたのことが忘れられなかった。あたしも一応世界中にファンを抱える身だけど――あの事件以来、全然活動が楽しくなくなったんだ。自分のいる場所を空虚に思ったことなんて、今まで一度もなかったはずなのに」
ヨアンは何も口出しをせず、マーサの言葉を黙って聞いていた。お喋りラジオと揶揄されるほどの男のはずなのに、こういう時ばかりは人形のように大人しくなるのだから、これを奥底に潜んだ思慮と呼ぶべきか可笑しなやつと笑えばいいのか、とんとマーサにはわからなかった。
「あんたもそうだったのかなと思ったの。…どんなに才能や努力を見初められても、一度異常と呼ばれたら死ぬまでずっとそうだ。…一度世界に否定されたら、死ぬまでずっと…。異常である自分たちの存在は、生まれた瞬間から間違っているから…」
そこでパッと缶から顔を引き上げてヨアンを見ると、ヨアンはマーサから目を逸らさないまま、優しく微笑んでいた。それは、あの時にずっとヨアンがそうしていたような――貼り付けた仮面とは、違うもののように思えた。
「…マーサちゃんだっけ?」
ヨアンはマーサの浅葱色の頭に触れ、ごく幼い子供にそうするようにそっと手を動かして撫でる。マーサが少しギョッとして身を離そうとすれば、ヨアンは制するように続ける。
「人間師になりませんか?」
「は…? 何言ってんの、あんた?」
「君は人間師に向いていると思います。その才能がある」
彼は笑ってこそいるが、真剣な様子だ。
「そう、俺たちは確かに異常だ。そう感じたのなら君もおそらくはね。けど、人間師には矜持がある。歴史がある。何より居場所がある。庇い立て、存在を肯定し――ばかりか、価値を数字で示してくれる人間がごまんといる」
今なお、ホールの中からはくぐもった歓声のようなものが轟き、オークションの熱狂を感じさせる。水面に映った自分たちの影は、片や見立てのいいスーツに身を包んだ長身な男性でこそあるが、片やはパーカーにジーンズのギーク・ガールで実にアンバランスだ。みすぼらしくさえあった。だのに夜空は場違いなほどに美しく、ヨアンの言葉は天啓めいて、良く空気を切り裂いた。
「異常である俺たちの、穴を埋める場所でもあり――同時に夢に向かって邁進し続けられる場所でもあるんだ。こんなに良い仕事はないよ」
漠然とした未来への不安が、マーサとて無いでも無かった。面白おかしくその日暮らしをしていければそれで良く、時々笑い、好きなものやことに囲まれて生きていければ何も望まなかった。しかし、世界はそんなに単純に運ぶものなのか。数十万の人間の、感情の奔流に惑わされ、悦び、時には傷ついて、思春期を過ごしたマーサは知っている。――人間は残酷で、そう甘くはないのだと。異常呼ばわりされるなど、あまりに簡単なたった一言で、…それゆえ、あっさりと人は破滅するものなのだと。
「…俺は君の言葉を信用して、もう一度聞きます。人間師になりませんか? マーサ・エヴァンスちゃん」
マーサは何も言い返せないまま、わずかな驚愕を込めてヨアンをじっと見つめた。ヨアンも怯んで逸らすことなく、蛇のように返す。そうしてたっぷり間を置いたのち、一際大きな歓声がホールから響いた。それほど熱を上げては、周囲にバレてしまうのではないか?――いや――むしろ、こんな夜ばかりは羽目を外したいのかもしれない。誰だって、世界に否定されている。
「……」
からからに乾いた口の中で、ふとマーサは、兄の存在を思い出した。あれは善く、正しい人間で、気弱でありながらまっすぐだった。
ーーー……。
「今は…返事をできない。だから、考えさせて」
永遠にも思える時間ののち、マーサはそうこぼした。 兄・ニックが、両親たちが今まで育んできた己の清く正しい人生観と在り方が、なんとかマーサをつなぎとめていた。ここで頷いては、あの暗く青い、淀んだスペードの葬列の意味はなんとするのだ。ただそれだけが、唯一マーサの倫理の正常性を、保っていた。
ヨアンは頷く。
「ええ。そうだと思いますよ。だから俺、待ってます」
スーツの胸ポケットからメモを取り出し、さらさらと上質な万年筆で何かを書き込むと、人差し指と中指で挟んでマーサに差し出した。
「今の連絡先です。けど、またいつ変わるかはわかりませんから、その前に」
「……」
マーサが小さく頷いてそれを受け取ると、ヨアンは立ち上がってひとつ伸びをする。それから振り返って、こう言った。
「缶コーヒー代は、俺から君への未来への投資ってことで。いつか返してくださいね――然るべき形で」
ヨアンは踵を鳴らしてホールの中に消えていった。きっと、買い取ったあの少年を連れ帰ることだろう。あの少年は何に加工されるのか、純粋に――少しだけ興味が湧く、己の存在があった。
マーサはついに開けられることのなかった缶コーヒーを見下ろした。手の中で、それはいまだに熱を保っている。
<了>