あまりに波小舟

 デートの帰り道、適当な公園をぶらつきながら帰路をたどっていると、小さめの湖(といっても、向こう岸に泳いで辿り着くにはなかなか骨が折れそうな程度には大きい)にぼろっちい木造のボートが停泊されているのを見つけた。そばにはこれまた崩れそうな、ほとんど外壁の剥げた掘っ立て小屋があって、一応心許ない室内灯の光が漏れているので、レンタルの類が行われているのだとわかる。だけど周囲におしゃれなカフェやら休憩スペースがあるでもなし、ちょっとした林の間をくりぬいただけのような見栄えしない湖はそれほど賑わっておらず、まさに寂れているといったありさまだ。
 七原が何気なくといったようすで「乗ってみる?」と問うてきた。俺は一度腕時計に目を落とす。午後五時四十九分。もう十月だから、日も落ちてすっかり暗くなっている。このテのレンタルボートの営業時間としてはだいぶギリギリだが、せっかく寄ったのだし、足休めがてら乗るのもありかもしれない。頷くと七原は小走りで小屋に駆け寄っていき、開いた小窓から中に向かって話しかけた。俺も緩慢についていくと、キャップを被ったおっさんが気だるそうに奥からごそごそやってきて、ラミネートされた料金表を差し出すのが見えた。
 安い料金を支払って、簡単な注意事項を説明される。これも面倒くさそうで愛想が悪かった。七原は気にした様子もなく「荷物預けてもいいですか?」と訊いた。おっさんが頷いたので、そのぼろい掘っ立て小屋の中に、今日買ったものやらリュックやらを預けた。
 のそりと腰を上げたおっさんとともに小屋から出る。おっさんは古びた鍵でボートが繋がれている錆びたチェーンを解放した。「あんまり遠くに行くなよ」と抑揚のない声で言われた。「営業時間は六時までだが、まあ、いい。戻ったらまた俺に一声かけろ、そしたら帰っていいから」
 七原は「ありがとうございます」とはっきり礼を言って、俺もちらっと会釈した。七原が先にその木造ボートに足をかけると、不安定な波にボートごと体が揺られる。体を無事に乗せ切ると、振り返り、俺に右手を差し出した。「三村」
 その手を取って、バランスを取りながら慎重に乗り込んだ。七原はオールのある方に、俺はその対面に座った。
「いいのか?」
 漕ぐ係をさせてしまうことについて念のため訊ねると、七原はいいよと答えた。
「昼飯は三村が奢ってくれたから」
 そういえばそうだった。
 七原が慣れない様子でオールを漕ぎ出すと、ボートはそろそろと後進をはじめた。桟橋に立っていたおっさんは一度空を、おそらく日の暮れ具合を確認すると、のったりと引きずるような独特の歩き方で小屋の中に戻っていった。
 すぐに沈黙がやってきた。一日の終わりにさしかかり、お互いちょっと疲れていた。けれど言うまでもなく心地よい疲れだった。午前は映画、俺が観たかった話題作。評判なだけあってなかなかのできだった。昼飯を食ったあと、そのまま近場のボウリング場に行った。これは七原が勝った、やはりバスケ以外のスポーツでは少々分が悪い。そのあと買い物をして、服やらなにやらを購入して店を出た。最後にぶらついてから帰ろうと思っていたらここを見つけた。この町での、高校生どうしのデートなんて、大体こんなもんだ。
 ボートの動きはあのおっさんみたいにのろくさい。それでも七原が漕いでいると、ゆっくりと湖の中腹に差し掛かった。一旦七原は休憩のためにオールを漕ぐ手を止めた。「ああ、でも」と言ってふいに空を見上げたので、俺もそれに従う。
「建物がないから、星がきれいに見えるな」
 七原がいうとおり、見ごたえのある星空だった。
 この町はそれほど都会じゃない。高松市の中心に行けばここなんかよりももっと栄えているけれど、まあ、婉曲に良い表現をするのであれば、星がきれいに見える町、ではあった。
 だけどそれよりもっときれいに見えた。天気のよさも手伝って、細々した星の輝きの違いもはっきり見える。やはりこんな自然のど真ん中で空気が澄んでいるからなのだろうか、俺は自然学にはてんで詳しくないのだけれど。
 東京の空は、どうなんだろう。
「やっぱり、そっちも受験でぴりぴりしてんの?」
 なんとなく聞いた。七原と俺は違う高校に通っている。俺の通っているところのほうが、ちょっと偏差値が上だ。俺も七原も、関東の大学に進学するつもりでいる。別に示し合わせたわけじゃなかったし、進学を機に縁が切れるなんてこともあるかなと考えていたのだが、七原が俺が狙っているところに近い、東京近郊にある大学のパンフレットを見せてきたことで、あ、なんかまだ腐れ縁的に続くのかもしれないな、と思った。
「そうだなあ」七原は顎を上げて考えるしぐさをした。「そっちほどじゃないかもしれないけど、まあな。推薦入試のやつなんかはもうそろそろ受験のはずだし」
 いいよなあと七原はぼやいた。「さっさと受験から離脱できるの、羨ましいよ。俺らは絶対推薦なんか取れるはずないんだけど」
 俺も七原も一般入試枠だった。当然だ、俺は自校の教師の一部からちょっと目をつけられていたし、七原はあいかわらずロック好きだ。中三の受験の時もこんな話をした気がする。デジャヴをちりっと感じた。
 七原は背が伸びた。今は俺とくらべてどっちが高いだろう。中学の頃は俺の方がちょっとだけ大きかった。もしかしたら抜かされているかもしれない、俺は今でもバスケをやっているっていうのに。
 少し前のめりで、考えずに言葉を落とすところがあったが、それも徐々になくなりつつあった。それで、だからなのか、昔以上にもてている、らしい。実際どんどんハンサムになっている。ちょっと短くなった髪も決まっていた。だけど女性経験は変わらずゼロのままだった、俺と付き合っているから。もったいない。いつだったか話してた、新谷?さん?ってオンナ以外に、いいひと、いねえのかな。
 俺はぶっちゃけ、今でもたまに女の子を泣かせている。うまくやっているから七原は知らない、はずだ。我ながら、不誠実の極み。なんというか、保険がないとどうしても落ち着かなかったのだ。散らして隠しておくことでようやく安心できた。自分でも笑える、リスかなにかかよと。
 だから心底もったいない、損している、と思う。七原を見る。またオールを手に持って、もてあましたように漕ぎ出す姿。
 なにかのきっかけでふっと途切れるのがベストだった。それが大学受験だった。てっきり俺は七原がこの町に残るか、近辺の県の大学に留まるものだと思っていたから、あのパンフレットを見せられた時、誤算だったなと舌を打った。だからちょっと上のランクの大学を狙ったのに——それだけじゃなく、行けるところをきちんと出ておいたほうが、なにかとつぶしがきくだろうと思ったのもあったのだけど。
「東京はさ」漕ぎながら七原が顔をほころばせた。「きっと音楽のレベルも高いだろうなって思うんだよ」
「さあ、どうだか」俺は両肩を軽く上げて応じた。「確かにレベルは高いだろうけど、検閲はもっと厳しいぜ、きっと。ロックスターのCDも、手に入りづらくなるかも」
 それは困るな、と七原が難しい顔をした。けどさして深刻そうな様子でもなかった。この町でも仲間を伝って手に入れる方法はいくらでもあった、その経験が楽観をもたらしているのだろう。こいつが考えている通り、実際その程度、たぶんなんとでもなる。
「国信はここに残るらしいんだ」
 七原が言った。俺は国信とごく近しい関係だったわけじゃないけど、あのフレンドリーな雰囲気の目つきは今でも印象に残っている。
「じゃあ、ついにそいつとは別々の道を行くってわけなんだな」
「ああ、あいつと離れるのははじめてだから、なんだか妙な気分だよ」
 慈恵館のシステムのことは知らないが、やはり高校卒業と同時に施設を出る者が多いんだろう。そういうニュアンスをも感じ取った。俺も実家を出る、戻る気はほとんどない。他の多くのやつにとってもそうであるように、俺たちにも子供時代の終わりが、刻々と近づいていた。
 七原は、またオールを止めると、朗らかな色を浮かべていた口元を少し引き締めて、すっと俺を見た。ちょっと緊張した面持ちで、「あのさ」
「何?」
「お互い無事に合格したらの話なんだけどさ。——向こうでも、付き合い続けて、くれるか?」
 やっぱり七原はそう思っていたのだろう。まさかそれも見越して大学を選んだわけではないだろうが、近い地域にともに上京するのならせめて。そういうふうには考えていたはずだ。
 俺は一旦、乾いた唇を舌で潤してから、微笑を作って、言った。
「当たり前だろ」
 七原はほっとしたように引き結んでいた唇を解いた。それがまた再びすぼまってから真一文字になって、今度はもっと声が固く、なった。
「俺、施設育ちだから、金ないんだ。バイトもしてるけどさ。それで」
 俺はその先の言葉をあまり聞きたくなくて、目をそれとなく背けた。湖の、柔らかな絹のようなさざ波が、ボートの下でそっとゆらめいている。
「ルームシェアする相手を探してるんだ」
「…まずは受験が終わったらじゃないか?」
「考えておく程度、しておいたって損はないだろ」
 視線を戻すと、七原はまっすぐ俺を見ていた。昔からずっとそうだ、こいつはどんな時も目を逸らさない。横から見ている分にはとても好きな瞳だったが、正面からこうして見据えられるのは少し苦手だった。なんだか、座りが悪くなる。
 俺が黙っていると七原は不安そうになった。「三村?」
「——同じ大学のやつらとするべきなんじゃないか。距離のこともあるし」
「大して変わらないよ」
「共同生活で見えてくる欠点もある」
「今更だろ、そんなの」
 七原は眉尻を下げて、「嫌か?」と言った。ちょっとずるいだろ、それは。
 俺は口を開いた。
「…あまり固執するなよな、昔の関係に。国信とだって別れるんだろ、」
「三村」
 七原が遮るように俺の名前を呼んだ。
「嫌だったら嫌って言ってくれていいんだぜ」
 嫌だって言ったらどうなるんだ。それっていよいよ縁の切れ目に繋がるんじゃないか?
 俺は軽く上唇を噛んだ。自覚がある、どうしても。固執しているのは、ほかならぬ、俺の方だ。
「……嫌だとは言ってないさ」
 やっと言った。七原はまだ不安げにしている。しかたなしに、続けた。
「…けど、もったいない」
「もったいない?」若干素っ頓狂な声。
 絶対口にしたくない。はたして俺は、もしか気がおかしくなって、殊勝なことを言おうとしてるんじゃないだろうな。ちっぽけなプライドやらなんやらが邪魔をして、喉がきゅっと詰まった。俺は、そう、たとえるならずっと、この不安定なボートみたいでいたいんだ。
 また沈黙が訪れた。七原はしばらく俺の次の言葉を辛抱強く待っていたけど、それが一向に出てこないことに、少し、いやかなり困ったふうになった。だがすぐ軽く首を傾げると、今度はふっと優しく表情をゆるめた。声は弱った感じを隠さないまま、でも、言った。
「こうやってまた、遊びに行こうぜ、ふたりで」
 漕ぎ続けて慣れてきたのか、七原はうまくボートを回転させると、掘っ立て小屋のある桟橋に向かって進み始めた。くるっとゆっくり回るときは少し揺れたけれど、そのあとはもうあまり、揺れなかった。
 俺は完全に弱った状態のまま、また目線を水面に落とした。なんとはなしに左手の先を、その湖につける。指の間をさらさらと水の感触が流れていった。十月の湖は香川の気温といえど相応に冷たく、熱の集まった指先を冷やしていく。
 七原がそんな俺の横顔に向けた。
「考えといてくれ」
 ああ。俺は内心天を見上げたくなった。ジーザス。中坊の頃風に言うなら、そんな感じで。