イカロス

 部活が終わった後、ユニフォームを着替えて制服になり、スポーツバッグを肩にかけて体育館を出たところの廊下で、偶然七原と会った。音楽部の部室は体育館とは反対の方角にあるはずなのになぜこんなところにいるのかと聞けば、体育倉庫にある備品を練習で借りて、それを返しにきたとのことだった。
「ついでに一緒に帰ろうぜ」
 七原は人懐こく表情をほころばせた。
 承諾した俺は彼と並んで歩き出す。途中、あ、と七原が足を止め、「悪い、ちょっと忘れ物したから、先に行っててくれ」と、手のひらを顔の前に掲げて謝罪のジェスチャーをした。
「なら、校門で待ってる」
 おう。七原は頷くと、自慢の駆け足であっという間に去っていった。気長に休んでいるからあれほど急がなくてもいいのに。帰り支度である程度冷めたとはいえ、バスケで熱くなった体にはまだ火照りが残っている気がした。
 先に下駄箱に向かい、自分にあてがわれたロッカーの扉を開ける。薄ピンクの小さな封筒が一通入っていたので、お、と内心口笛を吹きながらも鞄の内ポケットにしまい込んだ。三村くんへ、という繊細な筆致の当て書きが裏面に綴られているのもちらりと確認した。まあよくあることだ、あとで丁重に読ませていただこう。
 内履きから外履きのスニーカーに履き替える。バッシュはすでに部室のロッカーに置いていた。履き続けて3年目になるこのスニーカーもいい感じに草臥れて、足に馴染み始めた。白くて汚れがちょっと目立つのが難点だが、定期的に洗ってやればなんの問題もない。そろそろまた洗ってやるべき頃合いだろう。俺は気に入ったものの手入れを欠かさなかった。
 朝ならごったがえす大きな玄関だが、午後七時頃ともなると生徒の数はまばらだった。他校との今年度初の練習試合を控えていて、今日は特別遅くなってしまった。まだらに佇む生徒たちに混じって外に出ると、顔にぬるい風が吹きつけた。香川の春の陽気は、夜と呼べる時間になってもあいかわらずだ。門扉の格子が、ほぼ沈みかけた夕方のわずかな日差しを、いくつものブロックに区切っている。
 俺はここで七原を待つことにした。ポーチライトの下あたりの外壁に背を預け、何気なく、上を見上げた。
 七時にもなれば周囲は暗かった。その中の、唯一ぽつりとした明かりが目立つライトの周囲を、虫が何匹か飛んでいた。あれは、小さな蛾か何かだろうか。自分の表情筋が若干の不快感を示すのがわかった。
 その中の、ひときわ小さな虫が、勢いをつけてライトの周辺を飛び回った。うんと近づいたその時、ジリ、と焼きつく音がして、その虫は力を失ったように動きを止めた。風に煽られながら落下し、俺のスニーカーの少し先の、タイルの隙間に転落して、そのままもう動かなかった。
 近づきすぎて、光に焼かれたのだろう。
 無感情にそれを眺めていると、「三村!」と背後から声がした。七原が軽く息を切らしながら立っていた。
「悪い、待たせたな」
「いや、大して待ってないさ」
 七原は肩にかけたスクールバッグを一度掛け直す。帰ろうかとどちらからともなく言って、再び歩き始めた。その間際、なんとなく、焼け死んだ虫を目に止めた。すぐに離した。

 帰り道、七原は今度の連休について話した。五月には修学旅行が控えているが、それが終わると徐々に高校受験のムードが高まってくる、その前に遊び倒しておきたいとの談だった。「三村も遊ぼうぜ」七原ははしゃいだように言った。
 俺は適当に返事をしながら、これからのことと、これまでのことを思った。
 修学旅行。三年生のもっぱらの話題といえば、ここ数日はずっとそうだ。授業がその準備に割かれることもたびたび増えていた。旅行中の班分けであったり、自由時間のスケジュールであったり。班における役割分担なんてものも決めた——リーダーとか、記録係とか、保健係とか、結局なあなあになりそうなやつ。しおりを作る話もあった、俺は特に関わっていないが、中川典子あたりが表紙の挿絵を描くという話になっていたはずだ。
 俺も修学旅行を楽しみにしていた。中学生においては一大イベントだ。最大の、と言ってもいい。集団生活のルールやマナー、現地の歴史を学ぶ課外活動の一環。そんなふうにうたわれているようだが、その文句を額面通りにとらえている生徒はごく少数と言っていいだろう。うちのクラスじゃきっと元渕恭一くらいだ。みんなを沸かせているのはそんなものじゃなくて、旅行先で撮る集合写真のことや、夜の雑談で誰から順に脱落するか、そんなくだらなく愉快なことばかりに決まっている。
 その光景を俺は想像し、口角を上げ——それから、ふと叔父さんのことを思い出して、浮かべた笑みを、取り消した。旅行なんて叔父さんとした時以来だな、そんな思いがふと、期待の合間を横切っていってしまったのだ。
 叔父さんは、およそ二年くらい前に亡くなった。それまではたびたび小旅行に連れて行ってくれた。日帰り、あるいは一泊二日の、ちょっとした山登り。二人か、もしくは郁美と三人だったこともあった。家族旅行と縁遠かった俺にとって、旅行という単語の持つイメージとは、おおよそそれだった。
 楽しかった。そこで叔父さんが教えてくれた、地図を読む力や天候判断についての知識も得がたい経験のひとつだったが、そんなことよりも、愚につかない世間話や、山頂からみんなで見下ろした光景の共有(といっても、叔父さんにとっちゃなんのことはない低い山だったのだろうけど)、休憩に食べたシャケのおにぎりの味や、転びかけた時に引いてくれた掌の厚さと体温、そういうものが、楽しかった思い出として、俺の中にずっと刻まれている。
 虫は嫌いだが、あの山でまとわりつかれるのは、たいして不快じゃなかった。
「それでさ、次の連休の話なんだけど」
 七原の声で、ふと意識が現実に回帰した。七原は歩道の縁石を平均台のように見立て、両腕を広げながら辿っている。その目線はどこまでも前を見ていた。
「せっかくならちょっと足を伸ばさないかって話になって。それで行き先を考えてるところなんだけど、三村って、確か叔父さんと山登りしたことが何度もあるって、前に言ってたよな」
「ああ——山」
「うん、A組の、ほら三村も仲良いだろ、松本の親父さんがついてきてくれるらしいんだけど、どうかな」
 俺は少し驚いた。頭の中を覗かれていたのかと、ちょっと思った。もちろんそんなわけはない。七原は能天気に顔を緩めている、俺が断るわけはないといった塩梅で、気楽なものだ。まあ実際、断ることはないのだけど。
 七原たちと、山登り。初心者ばかりを連れての行軍はいささか苦労しそうだけれど、それも良い思い出かも、しれない。
 俺は一度、切り替えるためにも首を縦に小さく振ると、「別にいいけど、この時期は虫がにぎやかだぜ」と肩をすくめた。
 七原は「やった」と小さくこぼすと、「いいんだそんなの。なんてことない」と笑い、その場で足踏みを繰り返してダッシュの真似のようなものをした。もしかして登山の比喩なんだろうか。俺も笑った。
「修学旅行も楽しみだなあ」
 またのんきな言葉をつぶやく七原に、そうだな、と返した。

 世界からなにもかもが奪われたような静寂の中、農協沖木島出張所の骨組みが赤々と視界いっぱいに燃え広がっていた。すべてが焼け焦げるちりちりとした音も、激しい爆音ですっかり破れてしまった鼓膜では拾えない。横転した荷台に引っかかったホイールのくるくる回る音もひきちぎられたようになくなっており、無声映画でも観ているような気分だと、場違いにもぼんやりと思った。気に入っていたスニーカーは鮮血にまみれ、右足なんて爪先ごとなくなってしまっている。もう洗ってもどうしようもないじゃねえか。クソ。
 ひっくりかえった軽トラックから、爆発をまぬがれた桐山が出てくるまでのわずかな間が、なぜか、永遠にも感じられ、その赤く広がる炎の中に、叔父さんや七原たちとの登山の記憶と、ポーチライトに焼かれて死んだ虫の映像を見た。
 蜃気楼のようにゆらめく、光景。徐々に実像を持った叔父さんの姿が、すうとどこかを指さす。そこは爽やかな山中の開けた場所で、その先、遠くにあったのは、大きな木々だった。炎のような赤や黄色が翼を広げるように林立しており、それでこれは秋の記憶なのだとわかった。
 その、景色をさす指先が若い少年のものに変わる。「すげえ、めちゃくちゃいい景色」——跳ねるような声は、これは、これは七原のものだ。木々は青かった、が、そのすきまから覗く太陽は白かった。ちょうどこの、眼前いっぱいに広がる炎の、中心のように燃えていて——
 がきんと軽トラックの扉が開いて、中からマシンガンを抱えた桐山和雄が降り立つ。その銃口が自分に向けられたとき、あの黒こげの、タイルの狭間に墜落していた、爪先ほどもない体表を思い出した。
 ああ、出なきゃよかった、この建物から。光に身を焼かれるくらいがよっぽど、死に際としては上出来だ。
 なお燃え盛る火炎は自分の体に容赦なく熱風を吹き付ける。きっと暑くてたまらないはずなのに、血を失いすぎた今ではその温度さえもうまく感じられない。
 ぬるかった、あの時の四月の、風。手を引いてくれた叔父さんの、手の、温かさ。七原が山でこけそうになった時に、かわりにつないでやった、その時の、光をまぶしたような熱も。もう。それから全部、
 それから、