キャットカラー

「やるよ」
 突き出されたのは青いベルベットで覆われた小さな箱だった。一辺が蝶番で止められているから、蓋が丸ごと取り外せるのではなく、口を開けるように開く構造のものだとわかる。手のひらに収まるほどのサイズ感は、ドラマなどで見た覚えが、あった。
 俺は一種の確信と、杉村へのわずかな疑念を感じながら、箱を開いた。予想通り、そこにあったのは、指輪だった。シルバーの、極力装飾を削ぎ落としたシンプルなデザインは、俺と杉村、どちらが嵌めても違和感なく指に収まることだろう。まさかなと思いながら杉村の手に目をやったのだが、愚かなことにそこではじめて俺は、杉村が左手の薬指に同じような指輪をしていることに気がついたのだった。今朝はしていなかったと記憶しているから、このサプライズのためにどこかのタイミングで嵌めたのか。
 俺が事態を飲み込んでいる間にも、杉村は平時の顔でコーヒーを注いでいた。しかし口の端はわずかに吊り上がり、どこかいたずらが成功したガキのようにも見える。
 ロードを終えた俺は問うた。
「これ何?」
「見ればわかるだろ」
「じゃなくて、なんで?」
 端的にも程がある俺の言葉を飄々と受け止めながら、杉村はローテーブルにマグを二つ置いた。真っ黒なコーヒーと、ミルクが入ったもの。俺はブラックを好むが、杉村はいつもミルクを少々と砂糖を一杯入れた。
 隣に掛けながら杉村は話しだす。二人分の体重を受けたソファのスプリングがおなじみの軋みを放った。
「ずっと悩んでいたんだよ。お前の遊び癖を矯正するにはどうすべきなのかと」
 呆れ半分な眼差しが俺をとらえた。だけど顔の下半分は変わらず小さな笑みを保っている。
 俺はすぐに合点がいった。女ものの香水の匂いをさせながら帰宅して叱責されたことは一度や二度のことではなかったからだ。杉村はそのたび俺たちの関係を持ち出して叱り、俺は言い訳を並べ立てた。俺もちょっとは申し訳ないと思っているのだけど、治る気配は一向にない。自分が思うよりずっとろくでなしなのかもしれない。
「俺が自分でこの指輪を外したらどうするんだ?」
「外すのか?」
 手元の箱に目を落とす俺を、杉村はじっとねめすえた。そこは俺の良心だよりらしい。俺は唇を引き結んだ、確かにこんな代物をいちいち外してまで遊びほうけるのはさすがにどうかと思う、その程度の線引きはあった。弱気にも「結構した?」と値段を問えば「結構した」と真面目な顔つきで返され、俺はさらに追加で乾いた唇を舐める羽目になった。
 こんなの、まるで首輪じゃねえか。
 黙りこくっていると、杉村が優しい口調で囁いた。「手、出せよ」
 俺はしぶしぶ左手を差し出した。杉村は俺の膝上にあったリングケースからくだんの指輪を取り出すと、いたわるようにそっと手に触れ、ゆっくりと薬指に指輪を通していった。
 所在の確認作業に過ぎない行為でしかない。そう己に言い聞かせるも、光景からは目が離せなかった。人生設計上、訪れるはずのなかった事象が今、俺の手の甲の上で行われている。
 指輪は、魔法のように俺の指に吸い付いた。ぴったりだ。
「いつサイズ測ったんだよ」
「お前が寝てる間にちょっとな」杉村は微笑み答えた。
 俺は新たに迎え入れた住人を、いろいろな角度から眺めた。
 監視官にしては割合穏やかな反射を放っているそれ。表面はつるりとしているのではなく、槌目の模様が細やかに入っているマットな質感で、手が込んでいることは明白だ。
 杉村に目を移す。まだ俺をまっすぐ見つめていたが、呆れはすっかり消え失せて、なんだかとてつもなく優しげな眼をしている。俺は日々の中で時々訪れる、こういう時間があんまり得意じゃない。つい茶化したくなる。
 座り直しながら、そんな感じで、訊いた。「いつの間に用意してたんだよ、愛想の言葉も知らねえお前がさ」サプライズなんて杉村らしくない。
「こっそり準備してたんだ」
 目元に皺を寄せて答える杉村の表情には、監視以外の意図も十二分に込められているように感じた。それからおずおずと、「嫌じゃなかったか?」と問われる。そのわりには覆うべくもないと判断しているような声色だった。
 俺は返した。
「べつに、嫌ではないけど」
「何か言いたげだな」
「いや、その、ただ、驚いてるよ」
「俺がこんな用意してきたことに?」
 頷いた。杉村は自ら場を動かすやつじゃないと思っていた。それはいつも俺の役目であって、彼は俺が散らかした荷物を持って無言でついてくる男だ。そのことに感謝も、やきもきしたことも、数え切れないほどあったというのに。
 俺の首肯を目にして杉村はふっと面白げな吐息を漏らした。
「いいかげん我慢ができなくなってな」
「本当にそれだけ?」
 俺の疑惑だらけの眼差しを受けた杉村は、耐えられなくなったようにその吐息をはっきりと笑いの形に落とし始めた。
「俺の勘違いでなければだが、」
 三村はちょっと、こういうのに憧れてるんじゃないかって、前々から思ってたんだ。
 くつくつ笑いながら、確かにはっきりとそう言った。
 俺は虚をつかれた。
 憧れ? この俺が、こんな? 形だけにすぎないシンボルなんかに?
 認識するより先に、大きな虚勢を示していた。
「誰が!」
 杉村はよけい笑い続けた。喜んでくれてよかったよと言った。どのへんが喜んでいるように見えるんだよ、どのへんが。珍しく大笑する彼の横で、銀に刻まれた木目風のざらつきを睨みながら、とても居た堪れなくなった。首輪の方がよっぽどましだ、これでは。