異邦のサイレン

 愛用のギブソンを担いで部屋までの古びた階段を上る時は、誰もいないのを見計らって、ひそかに階下から鳴るジャズの音楽に合わせ、拍を打つように歩みを乗せる。そうすると、自分の肉体ごと音楽になったような気がした。憧れのロックスターには程遠いけど、ジャズバーの二階で暮らし、夜になれば演奏に加わって日銭を稼ぐ生活そのものは、けっこう気に入っていた。
 けど、日々へのそんな充足感を口にするたび、小さな同居人は俺の焦燥をあおった。——そんな調子じゃあジャズプレイヤー一直線なんじゃないか、と。
 アパートの玄関を開けて中に入る。リュックを下ろし、近所のスーパーで買った生肉を分けると、彼の待つバスルームに向かった。
「おかえり」
 バスタブのへりに上体を預けてにやつくのは、ここに居ついて一、二ヶ月ほど経つ俺の同居人、信史だ。薄い色をした短い髪は湿気に下りていて、白い肌の一部がほんのり赤づいている。およそ美しいと形容して差し支えない容姿。だけどその見目が外部にふりまかれることは今はなく、このこぢんまりとした浴槽にずっとおさまっている。
「腹減った」
 信史がせがむので俺は袋から生肉を取り出した。火も通さず差し出すと、彼はそのままがっつきはじめる。
 骨や血まで構わず食いつくす姿にはじめは驚いた。唇の端に豚や牛の血がついても厭わないさまも、一ヶ月前なら少し恐ろしく思ったかもしれないけれど、今では人には到達できない美の領域の一なんじゃないかとさえ感じるほどに、慣れてしまっていた。
 人間であれば足があるはずの箇所にはそれはなく、代わりに魚と寸分変わらない尾鰭のようなものがあって、その上をびっしりと鱗が覆っていた。青くも、光の具合によっては銀やピンクにも見える。それこそが、信史が持つ変種の美の、なによりの証明だった。

 この自由の国アメリカの、貧困層が集まる地域で俺は暮らしていた。ちょっとギターが弾ける以外たいしたとりえもなかったので、いくつものバイトを掛け持ちしてやっと生活を営んでいた。
 その“いくつものバイト”のうちのひとつにあったのが、水族館スタッフだった。主に飼育補助とバックヤード業務。餌の計量や仕分け、清掃、記録の整理、誰でもできるようなものだ。
 ある日そこに運ばれてきた、大きな水槽の中に彼はいた。どこかの海で偶然研究者が見つけて、あまりに珍しかったので捕まえて連れてきたようなのだが、ただのバイトに過ぎない俺に説明がなされたわけでもなかったので、詳しくは知らない。生態研究の一環と称して、しばらく人魚はその大きな水槽にとどまっていたと思う。
 その姿はとても不憫に感じられた。水槽は窮屈そうだったし、孤独で、つまらなそうだった。ふつうにしていればきっと多くが見惚れるであろう整った顔面も、ずっと不満そうにしかめられていた。
 そんな俺の心情を知ってか知らずか、人魚はある夜、施錠のためにひとり館内に残った俺に脱出の手引きを頼んだ。もちろん最初は断ったが、彼は驚くほど利口で、バレずに自身を連れ出すためのプランをアドリブで組み立てた。
 その即興劇に穴がまったくないわけもなかったと気づいたのは、連れ出した後のことだった。きっと今頃、俺は貴重な研究対象を持ち出したバックレ野郎としてあちこち探されているはずだ。住居を探されると困るからといって、引っ越すはめにもなった。
 だけど俺はあれよあれよとその人魚——信史に言いくるめられた。抱いていた同情もすっかり手伝って、水槽から彼を引き上げて、夜闇にまぎれる黒布でくるんで、家に連れて帰った。
 水のない場所にそう長くはいられないというから、とりあえずバスタブにぶちこんだ。それから数日も経たないうちに、もっとも長く続けていたバイトの一つだったジャズバーのマスターの紹介で住居を移して、またそこのバスタブにぶちこんだ。それからはずっとこうやって、彼におかえりと言われる奇妙な生活を送っている。

「悪いな、俺にも足がありゃ少しは役に立ってやれるんだが」
 信史は唇の横についた少量の血を乱雑に拭った。そうは言うものの信史は人間の暮らしぶりについて疎い。生活の役にどれほど立てるかは疑問が残るところだ。俺は、いいよ別に、と消極的な拒絶をとった。
 それよりむしろ、海の何千、何万倍も小さなこの空間の中に居続けることを強いてしまっている方が、俺にとっては問題だった。時々そのことを謝ると、信史はいつもからからと笑い、決まってこう言った。
「確かに退屈だけど、ここには音楽があるし、お前は帰ってくるたび一日の話を聴かせてくれる。水族館よりよっぽどマシだぜ」
 海には音楽はなかったのだという。ここに越してきたばかりの頃、信史は、階下から流れてくる音は一体なんなのだと多くの説明を求めた。あれは音楽といって、音を用いた芸術のひとつだ。俺はあまり言葉がうまくないから、この台詞をひねり出すことにさえ苦労した。
 あれから二ヶ月弱経って、信史にも音楽のジャンルの分別がつくようになってきた。吸収がとても早いやつだった。生来の賢さ故か、バスタブの中でただ水と戯れていることくらいしかできない退屈がすべて学習に発散されているのか——多分どちらもだろう。
 俺が頻繁に語るものだから、信史も、俺がジャズではなくロックの分野で大成したいのだということを学んだらしい。それでからかうようになった。
「海の世界の常識はどうだか知らないけど、ここじゃそんなにうまくはいかないんだよ」
 ぶすくれると、信史はふうんと首を傾けた。他人事みたいに「人間も大変なんだな」とぼやく。彼はあまり海のことを語らないけど、その様子から察するに、陸の世界よりは幾分自由なのだろう。
 俺はリュックを逆さまに振った。児童向けの本や、ミュージックプレーヤーがばさばさと落ちてくる。
「今日の差し入れ」
 そう言ってすべて渡した。信史は声を上げて喜んだ。
「少なくとも、娯楽の面じゃ圧倒的に人間の世界の方が勝ってる」
 飛びつくように手に取るその笑顔を見ていると、助けてやった甲斐を感じた。水族館にいた時はずっと不機嫌そうにしていた。ほとんど巻き込まれたようなものだし、食費も雑費もばかにならないのだけど、そんなの些細なことだと、ついそんなふうに思ってしまう。
 最初は字も読めなかった信史だが、教えてやるとその奥深さにすぐ気がついたようで、今では本の虜だった。まだ児童書が精一杯だが、こいつならきっとあっという間に、俺なんかじゃ理解の及ばない文学も読みこなせるようになるだろう。
 彼を横目に、ミュージックプレーヤーを適当にいじってランダム再生をかけた。エレガントなバイオリンとピアノの旋律、ソプラノのアリアがバスルームに流れ始める。
 本の中身を軽く捲りながら信史が言った。「これは、ええと、クラシック。オペラ?」
「正解」俺もかすかに笑った。「月に寄せる歌っていう曲なんだ」
「秋也は音楽だったらなんでも詳しいよな」と信史が褒めるので、俺は浮かべた表情を苦笑いに結び直した。
「そんなことない。クラシックは全然知らないんだ。これはたまたま、お客さんが好きな曲だって言って教えてくれた」
「俺のためにわざわざ仕入れたの?」
「まあ、そう」
 信史はまた、けらけらとした。斜め読みした本を一度閉じ、すり寄るように俺の側に来ると、魚というより猫のように笑んだ。
「なあ、聞かせろよ、今日のお前の話」

 彼をここに匿ってすぐに名前を聞いたのだが、そんなものを付ける文化は海の中には無いのだという。だから昔いた、旧い友人の名前を仮に与えた。東にある島国の言葉で、真実の歴史という意味なのだと教えると、人魚はいたく気に入ったみたいだった。だからなのか、俺に名前を呼ばれるたび、彼はくすぐったそうに笑った。そしてお返しとばかりに俺の名を呼び返した。
 ここに来てからの信史は、いつも機嫌が良さそうだった。バスルームからは時折、階下の音楽に乗せた歌声が聴こえてきた。セイレーンの歌よりもずっと調子外れで、お世辞にも上手くはない。けれどその歌を聴くのを俺はいつも楽しみにしていた。ともにいなくても、はしゃぐ信史の姿がありありと脳裏に浮かんだ。
 それから、思い描くだけじゃ足りなくなって、ギブソンを手に浴室に向かう。バスタブの縁に掛けてギターを鳴らすと、彼が合わせてまた歌い出す。いつまでだって聴き続けられるユニゾンを奏でる。
 俺は常々、ひっそり思っていた。やっぱりこいつはセイレーンなんじゃないだろうか。こんなに歌が不得手でも、俺はすっかりもう、彼の声に夢中だった。
 声だけじゃない。名前を呼ぶたびに見せる陽気な愛嬌に、俺の生活は彩られてしまっていた。磨耗をごまかすだけの、独り身の取るに足らない毎日には、賑々しいくらいがちょうどよかった。
 それに、彼は驚くほど旧友に似ていた。容貌だけじゃない。話し方もしぐさも、考えのくせも、なにもかもだ。海の中の話をするたびに別人だと実感させられるけれど、逆に言えば、それがなければ俺は彼を、本物の三村信史だと見紛い続けたにちがいない。

「そのシンジって、どんな人だったんだ?」
 人魚の信史が質ねた。自分の名前の元になった人間について、疑問に思うのも当然だった。むしろもっと早くに訊かれていても不思議でなかったが、生まれて初めて名前というものを授けられた衝撃や喜びの方が勝っていたのだろう。
 俺は懐かしい顔——今は何より額の前面に刻まれている、三村信史の顔——を回想した。
「昔のダチなんだ。もう十年以上前になる」
 彼とは、スクールで知り合った。孤児院育ちでなにかとレッテルの貼られがちな俺を輪に引き込んでくれた、とても気のいいやつだった。
 すごく賢くて、同年代のやつらじゃ知り得ないことを沢山識っていた。それをちょっと鼻にかけているところがあったけれど、それさえなんだかさまになる、妙な魅力も持っていた。
 俺がロックが好きなのを知ると、「いいじゃねえか、お前は音楽で、俺は別のやりかたで、一緒に海を渡ろうぜ」と誘った。
 三村は、常日頃からアメリカを狭い国だと非難していた。自由を謳うくせに、跋扈しているのは資本と格差の制約だと、口癖のように言っていた。
 じゃあ、どこに行きたいんだ? いつかそう訊いた時、彼はしばらくの煩悶ののち、こう答えた。
「強いて言えば、ジャパンかな」
 俺も三村も日系だ。彼は言った、自分が何者なのか識るためには、そこしかないだろうさ。
 それからほどなく、彼は海難事故で行方不明になってしまった。今でも見つかっていない。
 海の藻屑と化したのだろうと誰もが囁いた。俺もそう思う。
 せめて遺体さえ上がればと、優しい誰かは泣いたけど、俺はまったく違うことを願っていた。
 このまま見つからなければいい。この荒漠な国でふたたび実体を感じてしまうよりも、信史はあの島国に、あるいはどこか別の地に、うまいこと辿り着いたのだと。生きているか、死んでいるかはわからないけれど、そんな救いにもならない幻想を夢見続ける方が。
 十年以上誰にも委ねることなく編み続けた、糸みたいな願いは、予想外の出会いによって不条理にほつれかけることになった。
 俺はそれを、懸命に折りながら、へたくそに語った。
 信史は、珍しく難しい顔をしながら、真剣に聞いていた。
 その眉間に刻まれた皺に、謝った。
「悪い。暗い話だし、お前をそいつに重ねてるんじゃないかって気を悪くするかと思って、今まで言ってなかったんだ」
「そんなにそっくりなのか?」
 信史はまた問うた。
「…正直なところ、本当に似てるよ」俺は渋りつつ述べた。「腰を抜かすかと思った。それに、さっきも言ったけど、あいつは海に落ちたんだ。だからその、最初は、幽霊かなにかかと——」肩をすくめたところで慌てて呑み込んだが、心配に反して信史は「失礼だな」とくすくす笑うだけだった。
「俺のどこが幽霊に見えるんだよ? 透けてないし、光ったりポルターガイストを起こせたりもしないし、だいいち足だって…いや、足は、この有様か」
 おどけて尾鰭を持ち上げてみせるから、俺も小さく噴き出した。信史がふざけたことで、抱いていた煩悶が薄れかけたのを感じた。
 だけどそれが完全に消える前、信史はふと、その笑みをすっと狭めた。
「信じられないなら、触ってみれば?」
「えっ?」
 大人がひとりおさまるのがやっとなくらいのバスタブにたたえられた白い両肩が少しすぼめられ、俺の反応を待ちながら、その肩口で口端を吊り上げる姿は、心なしかあだっぽく見えた。
 俺は、なぜか寸秒尻込みして、それからどちらに手を伸ばすか逡巡して、異形の下体でなく、信史の姿をした上体を選んだ。
 ゆっくりと差し出された指が、申し訳なげにその腕に触れた。冷たかった。
「透けないだろ」
 信史は愉快そうにした。その冗談めいた空気を言い訳に指を引っ込めようとしたその時、彼は片方の手でそれを捉え、滑らかな所作で己の頬に触れさせた。
「秋也」
 頬は柔らかで、だけどやはり、冷たい。
 その温度を知覚するのと、信史が唇を重ねてきたのと、どちらが先だったのか。

 人魚の信史を、人には至難の婉麗を持つからこそ本物ではないと断じたはずなのに、十年も経って曖昧になった記憶の中の彼が果たしてどうだったのか、うまく取り出すことが出来なくなっていた。
 こんな鰭を、三村が持つはずがない。俺の知る三村は、二本の脚を器用にバスケに駆り立てていた。生肉をそのまま喰ったりなんかしないし、俺のことを秋也とは呼ばなかった。そして誰よりも人間に詳しいような顔をしていた。だけど今にして思えば、それはいち少年の視野にすぎない狭隘なプロファイルだった。何より歌は不得手だった。それに彼は、いまだに海の中から見つかっていないのだ。
 そうじゃないのか?
 ずっとこんなちっぽけなバスタブの中にいたのだとしたら。流された身体が、ようやく、悲願の地へ至ったのだとしたら。

 月夜の最中、俺はまたバスルームを訪れた。
 ライトのひとつもない狭い一室の中で、信史は歌っていた。音程のずれたアカペラの、テノールのアリア。蛇口から温水がとめどなく流れ続け、バスタブから溢れて床に滑り落ちている。
 俺に気づくと、闇の中で微笑んだ。
「この歌、水の精の物語だったんだな」
「どこで識ったんだ」
「元ネタは人魚姫?」
 俺の問いを無視し、信史はさらに蛇口をひねった。くるぶしの骨にひたりと水が触れる感触で、排水溝か何かが意図的に詰められているのだと気付いた。足元には、薄い水鏡があった。
「こんなところにまで気を回してくれてたなんてな。もてなしがきいてるぜ」
「たまたまだよ」
「ずっと俺の行方を気にしてくれてたのに、たまたま?」
 己の肩口に鼻先を寄せてシニカルに笑むしぐさは、本当に三村に似ていた。よけいによくわからなくなる。
「お前は誰なんだ?」
「俺は信史だよ。真実の歴史。お前がそう教えてくれたんじゃないか」
「違う…そんなはずはない。だって、三村はもう死んだんた」
「死体が上がってない以上、断定はできない」
 足元に広がった水は、いつしか脛まで覆い始めていた。戸惑いごと、皮膚の狭間を揺れ動いていく。
「秋也。俺は、俺が何者かなんてくだらない問答をしたいわけじゃないんだ」
 信史はそこではじめて、ぐっと腕をへりにかけて自らの体を持ち上げた。水の浮力も使って自身の大きな尾鰭をバスタブの外に押し上げると、懇々と流れ出し続けるその縁に腰をかけた。下から射抜くようなまなざしを、立ちすくむ俺に寄せてくる。
「そんなもの、とっくの昔に答えは出た。そんなことより俺は、お前を連れ出しにここに来たんだよ」
「連れ出す?」
 応えるように信史はひらりと右手を上げた。目線はそのままで、俺をまっすぐ、瞬きもせず。
「お前がまだ、ここにいるようだったから」
 床に流れ落ちるざあざあという音が、徐々に耳のそばまで近づいてくる。バスタブの縁の外に投げ出された信史の鰭が、柔らかな液体の流形に包まれていく。呼吸をはじめるように鱗の一枚一枚が輝いて、鰭はゆるい弧を描き始めた。やがて水嵩が俺の腰の上あたりまで達すると、信史は泳いで近づき、俺のシャツのボタンを、順に外していく。
「一緒に海を渡ろう」
「けど、俺は人間だ」
「なんだ、そんなこと?」
 信史は企むように笑んだ。そしてまたそっと唇を重ねた。気を取られたその時、俺の首筋の上を、尖った爪先が強く掻いていった。わずかな痛みの表面を追うように、ばくんとその傷跡が脈動する。鋭い感触。
 すぐにそこが別の生き物みたいに口を開き始めるのがわかった。信史の唇も一緒に離れていく。俺は息を呑んだが、唇から入り込む慣れ親しんだ酸素より、その新たな器官から滑り込んでくる空気の粒の形の方がよほどはっきりと感じられ、思わず喉元を抑えた。
 脱出を企てた時の即興劇のような調子で、信史がせせら笑った。
「近くの運河に入るんだ、そこから海に帰る」
「だけど……三村、いや、信史…… そこは、そんなに自由なのか?」
「ここよりはな」
 不安を口にすると、信史は断言した。資本も格差もない、あるのは輪郭のない流形だけだと。
「ああ、だけど、音楽もない。秋也にとっちゃ、残念な報せかもしれないな」
「それは困るよ」
「なら、気まぐれにまた陸に出て、歌えばいい」
 その頃にはもうバスルームごと水槽になっていた。全身が水の中に取り込まれ、ざあざあという音も聴こえない。完全な無音のはずだった。だというのに、水中でもどうしたことか声や息は途切れず続けられていて、俺はとうに心だけじゃなく肉体まで後戻りできなくなってしまったことを、半ば確信していた。
 水面が天井に触れるか触れないかのところで揺れるさまを、信史は見上げている。脱ぎ捨てたシャツも、そこで意味を失い撓んでいた。だから俺も訊いた。
「お前はいつも、そんなふうに歌って、人間を誘い込んでたのか?」
 三村は瞳を俺の方に戻し、目を細めた。「どうだと思う?」
 俺は何も言わなかった。ただもう一度、仕返しの強引なキスを返した。
 川や湖が無辺際の流れに収束していくように、出会った時からすべて決まっていたことだったのなら、受け容れようと思った。これは終着の答えだ。それに実際、袋小路の連続だった。生活に愛着だってあったけど、この営みの中じゃきっと、自分の正体に至ることは永劫にできない。
 両手首を抑えられ、ねじこむか喰らうような口吸を受けた三村は、なんだか楽しそうだった。興奮を頬の上に兆しながら、解放される際、こう放った。
「だけど、誰にだってこうして誘ってるわけじゃないぜ。七原だけだ」
「…どうだか」
 卑屈に呟くと三村はまたおかしそうにした。本当だって。軽口をたたいてから、言った。
「それじゃあ、連れてってくれる?」
 運河は家のすぐそばにあるけど、そこまで泳いでいけるわけもない。
 俺は承諾のかわりに、背後にある扉に手をかけ、開けた。完成された槽に満ち満ちた水が濁流となり、やっと揃えた安物の家具もカーペットも、激しい音を立てて全て押し流していく。
 俺は横たわる三村のそばに屈んだ。床にくずおれたままの尾鰭の下に手を差し込み、片方の手では背を支え、横向きに抱えて立ち上がった。すると彼はにんまりと目蓋を閉じ、俺の腕の中で、ふたたび上機嫌な鼻唄を紡ぎ出した。知らない曲だ。クラシックでも、ロックでもジャズでさえも、なかった。

映画「シェイプオブウォーター」よりちょっとだけインスピレーションを受けています