ブラインドスポット

 三村の珍しい姿に、思わず驚きの声が漏れた。
 彼は眼鏡をかけていたのだ。それもシンプルな、飾り気のない黒いセルフレームのウェリントン。定番のデザインだが、三村にしては気の抜けたゆるさが漂っている。セットされていない髪と合わせて、すっかり“オフ”という雰囲気だ。
「どうしたんだよ、それ」
「買ったんだ、いちいちコンタクトを着けるのも面倒になってさ」
 言われてみれば三村はずっとコンタクトだった。出会った頃からパソコンに強く、仕事までそっちの道を選んだほどで、視力は決してよくない。いつから使い始めたのかは知らないが、高校を出る頃には手入れの話を聞いていた覚えがある。
「三村にしては可愛いチョイスじゃん」
 所感を挙げると彼はブリッジを中指で押し上げ「これは家用」と気取った様子で答えた。
「あと外出用とスポーツ用で、合計三本ある」
「そんなに?」
「眼鏡ユーザーの間じゃそんなに珍しいことじゃない」
「けどそういうのって、徐々に増えてくもんなんじゃ?」
「考えてもみろよ、七原。この三村信史が、新たな魅力を皆さんにお届けするんだぜ。そりゃあ気合い入れて揃えなきゃってもんだろ」
 やけに芝居がかった言い方をするので、少し笑ってしまった。外面を気にする三村らしい理屈だ。この調子だと、まだまだ増えていくかもしれない。
 デスクの上にはケースが三つ置かれていた。開けてみると一つは空で、もう二つには違うデザインの眼鏡がそれぞれ横たわっている。趣が異なるが洒落ている。どちらも三村にはとても映えるはずだ。彼も確信の上で選んだんだろう。
 三村はもうノートパソコンに目を落としていた。昨夜職場から持ち帰ったというデータの羅列は、覗き見てもちんぷんかんぷんだ。びっしり並んだ粒みたいなドットのコードは、紙よりずっとちかちかして見える。そりゃあ視力も下がるわけだ。三村が好きでやってるんなら構わないけど。
 俺は手持ち無沙汰のまま向かいに腰かけ、三村を眺め続けた。パタパタと規則的に動く指先は美しく、眼鏡のレンズにはモニターの光が淡く反射している。伸びた背筋と合わせて、完成されたインテリジェンスという感じがする。眼鏡のフレームが手抜きであっても、なお隙がない。三村はいつもその調子だから、――なんだか面白くなかった。
 俺は衝動的に、彼の顔から眼鏡を取り上げた。三村はすかさず文句を上げる。
「返せよ」
「恋人と一緒にいるのに仕事すんのか?」
 すると三村は罰が悪そうに唇を歪めた。俺の顔を捉えようと目が動くが、焦点がうまく定まっていない。俺はにやりと笑った。
「だから先に片付けとくって、お前が来る前に連絡したろ」
「俺はもうここにいるんだから、諦めて切り上げて、俺のために時間を取ってくれよ」
 俺は足元に放りっぱなしのリュックから紺の袋を取り出した。レンタル店のロゴマーク入りだ。わざわざ寄って、三村に頼まれたDVDを借りてきたのだ。ついでにちょっとしたスナックも。なのにお迎えもなしで挨拶もおざなり、合鍵で入ってみれば仕事に没頭している始末だ。なら次は、こっちがわがままを聞いてもらう番だ。
 三村は相変わらず不安定に視線を泳がせながら、それでも俺をねめつけた。
「俺だって、お前が来るっていうから、こうやって急いで……」
 俺は三村の言葉を遮るようにノートパソコンを閉じた。不服を連ねようとしたところに身を寄せ、やや強引に唇を奪う。すぐに数センチ離して問いかけた。
「この位置だと俺の顔、見える?」
「お前なあ」
 しかめられていた三村の顔が、観念したように緩んだ。眼鏡を取り返そうと手が伸びてきたので、俺はしたり顔のままソファに逃げた。
 三村は追って立ち上がる。デスクの眼鏡ケースの方にちらっと指を向けたが、結局ひっこめてこちらに近づいてきた。勝った。
 覚束ない足取りの三村を捕まえてソファに抱き込むと、ようやく彼は破顔した。どこかあどけない笑みと前髪の折りた額、何もひっかかっていない目交。隙だらけだ。