三村の薄い唇が好きだ。啄むと、あっさりとこちらの望む形に歪むのが好きだ。柔らかい皮膚の下に感じるささやかな肉の感触が好きで、これほど繊細なつくりの唇から勝気な言葉が連発されていると思うと少し心配になってくる。そんなことに想いを馳せるたび、背中に背徳感がよじのぼってくることもある。
「お前って、性欲全然ないよなあ」
まったくもってそんなことはない。言っていないだけだ。
こいつは俺を煽るくせに、俗な色欲を見ると一歩退く悪癖がある。俺が他とは一味違うことを実感したいだけなのだ。だから言わない。表に出す気もない。
それに、恥ずかしいったらない。恋人の身体の部位のひとつに執着しているなど、まるで変態だ。むろん努力の甲斐あって、三村はつゆほども知らないわけだが。
「なあ、杉村」
小さな唇が何度も頬や口の端に押し付けられる。冷たくてかさついたその触感を拾う毎、俺は顔の筋肉に懸命に神経を集める。
「えっちしよ」
「帰り遅くなるだろ……」
「いいじゃん、すぐ終わらせるから」
そんなはずないだろ。出かかったツッコミは丁重に喉の奥に仕舞い込む。
欲望の足音はすぐそこまで来ていた。
俺は時々泣きたくなることがある。三村、お前はしばしば俺を草しか食べない男だと考えているようだが、その認識は可及的速やかに改めた方がいい、と。
「杉村」
三村の唇から漏れる呼気で、冷たい唇は温かに湿りつつあった。困る徴候だった。
俺は優しくありたい。優しくて真面目な男でありたい。優しくて誠実で、いつだって相手を慮れる、泰然とした男でいたい。
「杉村ってば…」
こういう時はとにかくスルーが肝要だ。三村を、というより、己から湧き出でる様々な衝動について。
無理に我慢するのではない。共生を許すことによって案外落ち着いてくるものだと俺は学んでいる。
そんな感じだ。かなり悪くない。かなり悪くない感じだ。
「すぎむら」
三村の冷たく細い指が両頬に絡んだかと思うと、無遠慮に挟まれて唇が重ねられた。俺のよりもずっと薄くて柔らかい上唇と下唇の間から、これまた薄い舌が伸びて、器用に割り入ってくる。
俺は三村の肩を押して抵抗の意志を示した。弱々しい意志はいとも簡単に押し切られ、三村は上体に体重をかけてくる。俺は三村を投げ飛ばすイメージトレーニングを行って、そのまま脳内で普通に抱きしめた。
「なあ、なんでそんなに頑ななんだよ」
「……今日は、我慢できそうにねえから」
白状した。悲しいかな。
計算外だったのは、欲は溜まるということだ。
そして俺は臆病な性格だ。己を解放するのがとかく恐ろしいのだ。注意を取り除いたとたん、際限なくこいつを求めてしまうのではないかという疑念がずっと拭えなかった。今もだ。もしかして、取れるまで貪ってしまうかもしれない。俺は薄づいた三村の唇にちらっと視線をやって、すぐに戻した。
でも、それでいい。怖がらせるくらいなら、俺が苦しむ方がずっといい。
「我慢すんなよ」
三村は浮ついた顔面ににんまりと笑みを描いた。
——お前は簡単に言ってのけるけどな。俺が文句を口にしかけると、三村は開きかけた唇に人差し指を置いて囁いた。
「お前、大好きだもんな。俺とのキス」
「…………」俺はたっぷり五秒、沈黙してから答えた。「…気づいてたのか」
「杉村のくせに隠し事なんて生意気!」三村は心底楽しそうにからからと嗤った。「まさか俺が何も気づいてないとでも思ったのか?」
もっともではある。三村ほどの洞察力を持つやつが、俺とこれだけ一緒にいて、何も察しないわけはなかった。だけどじゃあ日頃「言葉にしてくれないとわかんねえよ」と駄々をこねるのは一体なんなんだ。あれはただの甘えか?
「別にいいのに。いくらでもしてくれて」
「簡単に言ってのけるけどな」今度は口からついて出た。「それでお前、俺が——止まらなくなったらどうするつもりだ」
「それが見たいんだよ」
三村はにやにやと言い放った。人の気も知らないで。
しかし、予想の範疇の発言ではある。俺はもっと正直に答えることにした。
「お前を傷つけたくないんだよ」
「俺はお前に傷つけられたいよ?」
すかさず返された。俺は細い溜息を吐いて、中指で眉間を揉んだ。
わかっている。三村は激しく求められると喜ぶのだ。燃え上がるものこそが愛だと思っている。俺とは違う。俺は地道に長く、穏やかに育てたい方だ。
これについてはこれまでの付き合いの中で幾度か説得を試みてきたが、すべて空振りに終わった。価値観の相違と言われれば返す言葉もない。俺としては、身を削るような愛情だけが真理だと思い込むのは、やめたほうがいいと思うのだが。
俺は目の前の三村の顔を見つめた。いたずらっぽい表情の奥に物欲しさが滲んでいる。綺麗だなあと思った。三村はいつだって綺麗だ。ずるい。
「したいだけどうぞ」
そう言って三村は長い睫毛を伏せ、唇を差し出した。「恋人の特権くらい、遠慮なく使えよ」
俺は滑らかな頬に触れて、触れるだけのキスを一度した。間髪入れずに貪ろうとして——やっぱり躊躇してしまう。
「……俺には無理だ」途方に暮れた。「どうしても、夢中になるってことができない」
「なんで。俺って魅力ない?」
悲しそうに訊ねる三村に、俺は苦笑しながら首を振った。「魅力だらけだよ。お前には」
長年課してきた我慢はすっかり染み付いていた。
怖い。いくら三村が綺麗だろうと、本当はむしゃぶりつきたかろうと、それで我を失っちまったらどうする。誰が俺を止めるんだ。
「俺、何されようと、お前のこと嫌いになんかならねえぞ」
「わかってる。でも……」俺は三村の髪の生え際を優しくなぞりながら微笑った。「自分が自分じゃなくなるみたいだろ」
三村は少し考えてから、おずおず聞いてきた。
「俺が煽るのは迷惑か」
「いや」俺はすぐに否定した。「正直、乗っかっちまいたいことは山ほどある」
三村は視線を彷徨わせて悩むそぶりを見せた。真剣そうなその表情を垣間見て、ああ、今日はこれで終わりだろうかと内心残念がっていると、まもなくそれがにいっと歪んだ。
「なら、俺が夢中にさせたげる」
強引なキスの雨が降り始めた。
そう来たか! 慌てて押し留めるも三村は止まらない。何度も顔のあちこちに小さな唇が押し付けられて、さらに焦る。額、瞼、鼻、頬。
そしてキスは再び俺の唇に及んだ。こじ開けるような性急さで迫ったかと思えば、懇願するように啄んでくる。
は、と漏れた吐息の中に、普段の気障な装いはない。
俺は三村とするキスが好きだ。薄い唇を食むのも——捻くれ者なこいつから言葉を奪うのも。
俺は噛み付くように口付け返した。「ん」三村の喉から鼻にかかった鳴き声が溢れる。それも飲み込み、さらに深く口付ける。
いつの間にか没頭していた。びくりと震える舌に、自分の舌を絡みつけて味わった。何度も唇を押し付けて、肉の柔らかさを堪能した。苦しくなってきたので、呼吸のためにゆっくりと解放してやると、舌先の間をねばついた涎が伝った。
三村の顔は真っ赤になっていた。喘ぐような気吹を繰り返しながらも濡れた目で俺を見上げて、薄笑った。
「俺も、好きなんだ。お前とのキス」
三村の視線が、唇に注がれていることに気がついた。俺はかすかに息を呑む。そのわずかな動作さえも愛おしむように、三村は目を弓形に細めた。
……お前もか。
そう思ったらたまらなくなって、俺は再び三村の唇に吸いついた。
堅牢に立ち上げた意志がゆっくり溶けていく。溺れる芳しさに身を委ねようとした時、三村の色づいた唇がそっと開かれた。
「夢中になった?」