合計二百点

 これは、本当に、俺の常識からすると驚きの話なのだが、杉村はどうやらまめに日記をつけているのだという。なにかの世間話のおりにそう言っていた。
 なんでも、いじめられがちだった弱い自分を克服するために拳法をはじめた時からの習慣になっているんだとか。日々、どれくらい成長したか、その強さを記録するための。昔にくらべればだいぶ簡素になったけれど、それでも毎日の修行の成果を残すことは怠っていないのだという。ついでに読んだ本のことも。
 杉村の美しい筆跡がきっちりと手帳の中に納まっている様子を想像して、俺は、げえ、と言った。よくもそんなに律儀に日頃の習慣というやつを実行できるものだと思う。少なくとも自分には絶対にむりだ。
 第一、ご丁寧に日々の記録を残すという行為自体にむずむずする。そんなふうにいちいち過去の道程を振り返りたくない。大体進歩の過程だなんて、わざわざまめにまとめなくたって分かりきっていることだと思うのだが、杉村はそうではないらしい。普段からアウトプットを継続しつづけているわりに言葉がうまくないというのにも、日記をつけることへのさしたる意味を感じられなかったのだが、そこまで言うと単なる悪口なので、さすがに口にはしなかった。
「やっぱり、好きなやつのこととか書いてるの?」と聞いたが、それはNOらしい。話を聞くだに、杉村の日記というのはあくまでデータの記録のようなものにすぎず、ごくごく私的な思いについては書き留めることを避けているのだそうだ。なんだ、じゃあそれって見せてもらったとしてもたいして面白くないし、弱味にもならないだろうな。

 そう思っていたのだが、ある日の放課後、杉村が机の上に黒い手帳を忘れていることに、偶然気が付いた。部活の終わり、忘れ物を教室に取りに行くと、それがぽつんと寂しく放置されていた。意地悪い発想が湧き上がった。抜けてるなあ杉村は、こんな大事なもの忘れちゃったりなんかして。自分こそ、忘れ物をして教室にやってきたのだということも棚に上げて。
 ぱらぱらとめくるとそれは案の定簡潔な日記だった。システム手帳と大差ない外観で、少し厚めで、前の方にカレンダー、その後ろはずっと真っ白なページが続いている。ページの真ん中に区切り線を入れて、その上下に一日ずつ、一頁に二日分。罫線もないのにきちんと揃えられた行。知っていたけれど整った筆跡。読書家な分、俺より漢字に強いらしく、難しい単語もすべて漢字で書かれていた。
 一日分のスペースの、前半にはやつが言っていた通り練習内容について書かれていた。無味簡素な、「あったこと」をただ記しているだけのものだ。読んだ本のタイトルと内容が書かれていることもあった。
 ただ、後半は杉村の話と違い、その日あったことへの感想のようなものが綴られていた。せいぜい一言か二言くらいのものだったが。自分の発言へのちょっとした反省とか、言えなかったこととか、大体は内省的な内容だ。私情の記述を避けているという杉村の話はうそだったということになる。
 その中には時折、杉村の友人、たとえば七原や千草やよそのクラスのやつの名前が混じったけれども、まるで意固地になるかのように恋愛沙汰の話はなくて——あのようすを見ていたら杉村に意中の相手がいるのは明らかだったのに——俺は笑いそうになるのを、喉の中ほどで懸命にこらえた。
 そこにいくつか、俺は、俺について書かれている記述を認めた。
 どんなふうに評されているのか気になって、ざっと斜め読みしながら三村の単語を探し、見つけたらそこを読み込んでみた。
 おおよそ文句だった。こういうところがどうかと思う、こうされて不快だった、もっとこうしてくれればいいのに…等々。俺はついにこらえきれなくなってくつくつ笑った。だって殆ど反省会みたいな内容なのに、俺についてはお小言ばかりなのだ。
 さらにぺらぺらめくるが、ほぼそんな調子だった。まあ想像通りだ。
 満足した俺は手帳を閉じようとした。見なかったことにして机の中にでも閉まっておいてやろう。そう思いながら最後の記述、つまり昨日書かれた文面を確かめた時、その内容に、手が止まった。
 そこに書かれていたのも、修行と、あとは俺の話だった。
 授業中のことだ。現代社会の授業だった。この担当教師はなかなかこの国の思想に染まっているやつで、ちょっと、だいぶ、過激で偏っている。うちのクラスからの人気も芳しくなかったが、当然みな、黙って授業を受けている。だけど俺は少し嫌われていた。それはそのはずだった、出る杭は打たれる。
 昨日の授業でも俺は当てられて、およそ授業の範疇を超えた意見を問われて——ちょっぴり頭にきて、言い返してやったのだ。具体的になんと返したのかも覚えていないくらいささいなことだったけど、それで空気が悪くなったことを杉村は回想しているらしかった(その時の空気は、すぐに豊がおちゃらけて、もとに戻った)。
 そういうフォントで打ったみたいな乱れのない筆致の中、唯一走り書きされた右上がりの文字で、
「三村はもっと省みるべきだ、ひやひやする」。そう書いてあった。
 どっちに?俺が心配だって言ってくれてるわけ?それとも全体に調和しろっていうつまらないお説教?俺は片眉を上げた。
 どちらにしても反抗心が芽生えた。昨日現社の教師にした時よりはいくぶんか悪戯心を交えた可愛らしいものだったが、それにしてはむきだったかもしれない。
 それで、俺はそのまま杉村の席に腰かけてスポーツバッグからペンケースを引き抜くと、使い慣れたペン(それも油性の、裏移りするやつ)を手に取って、そこに矢印を引いて書き加えてやった。
“ちゃんと自分の言葉でまとめて俺に言いに来てください。これ宿題”
 書き終わると手帳を閉じ、机の中に乱雑にしまって、そのまま帰った。

 朝、登校してくると、席に座った杉村が縮こまりながら手帳を開き、わなわな震えていた。俺になにか浴びせようとした時ちょうどチャイムが鳴って、名簿を持った林田先生が入ってきた。俺はにやつきを杉村に見せつけてやってから、どこ吹く風を装って着席し窓の外を見た。快晴だ。
 ホームルームが終わったらすぐにクレームをつけにくるかと思ったのだが、予想外なことに杉村は昼休みまで話しかけに来なかった。
 昼休みがはじまって一番に杉村は、「顔を貸せ」と言い放った。まさしく仏頂面という言葉がふさわしい顔をして。まだ昼飯に口をつけていなかったが、俺は承知して、杉村の背を追った。
 階段の踊り場に辿り着くと、杉村は黒い合成革の手帳の表紙を、警察がするように突きつけて言った。「おい」
「こういうことがあるからさ、日記なんかやめたほうがいいぜ」
 俺は肩をすくめてみせた。そもそも心情なんて書き留めていないとうそをついた杉村が悪い。そうじゃなかったら覗かなかった、たぶん。
 杉村は何事か言おうと口を大きく開き、そして閉じ、噛み殺したように大きくため息を漏らした。ちょっとオーバーに手や唇が動いていて、海外の(古い店なんかで流通している、検閲を潜り抜けた)昔のアニメーションの動きみたいで、滑稽だった。
「お前が」うなるように言った。「宿題だって言うから、まとめてきた」
 一瞬、何を言っているかわからず、呆けた。
「え? マジで考えてきたの?」
「お前が言ったんだろ」
 俺は寸刻その意味を咀嚼し、これまた我ながら驚きなのだが、つい、内臓がおかしくなるくらいのでかい声で、爆笑した。何人か、階段を昇降する生徒が不審そうな目を向けながら通り過ぎていったが、いまや関係なかった。杉村の顔はどんどん悪人の様相になっていったが、かまわず笑い続けた。というよりそれさえも哄笑に拍車をかけた。
「マジで言ってんの? 真に受けたんだ、あれを?」
「お前が言ったんだろ」杉村が繰り返した。
「やめてくれよ、おい、お前もコメディアンを目指すつもりかよ? こりゃ豊の強力なライバル出現ってわけだ、はは、あはは」
 ひいひいと息をととのえる俺のつむじを、杉村は憮然として眺めていた。やっと呼吸を落ち着けて緩慢に顔を上げ、聞いた。「で?」
 それから俺は無事に杉村の“宿題”を受け取った。花マルをつけて返した。ついでにささやかな詫びとしてパックのカフェオレを贈呈した。杉村は悪人面のままパックを見つめていたが、奪い取るとそのまま教室に帰っていった。
 俺はその背を眺めながらパックをぶんどられた手を口元に当てると、また突き上げてくる笑いを押し殺した。考えたんだ、わざわざ。宿題。百点満点のペーパーだったとして、その事実だけで、プラス百点くらいだけど。