理想郷

 数字はいい。人間と違って絶対に嘘をつかない。答えがひとつしかないのも好きだ。どんな解き方をしてもみんなが同じ正解に辿り着く、そこもいいところ。数字の世界以外じゃそうはいかない。理想郷みたいなもんだ。
 俺は理数とコンピューター好きが高じてそのままプログラマーになった。数学の公式がそのまま駆使できるわけじゃないけど、アルゴリズムの構築には役立った。ちょっとした統計処理、確率分布で応用できたりもした。はっきり言って天職だ。バスケの道には進まなかったけど、パソコン弄りの合間にちょっと趣味で体を動かす、そういう毎日はなかなか悪くなかった。ついでに言えばバスケだって、テクニカルファウルを除けば、ゴールにボールをシュートすることでのみ得点が入るゲームだ。単純明快、ひとつの解。
 対して杉村は文系だ。俺が「数字はいい」という話をすると決まって嫌そうな顔をする。なるべく目にしたくないようだ。解がひとつしかないというのがむしろお気に召さないみたいで、やつから言わせれば「解がたくさんあるからこそいいのに」ということらしかった。杉村らしい意見だが、俺には正直まったく理解できなかった。できな、かった。
 杉村はそのまま拳法の道を究めていって、今は指導員をやっている。仕事帰りにちょっと顔を出した道場で、がきんちょに先生と慕われているのを何度も目にしたことがある。もっとおどついているのを想像していたのだが、泰然とした感じで、けっこうさまになっていた。意外と教え上手らしい。それも文系なのと関係があるんだろうかと言ったら、なんだその理屈と笑っていた。
 帰り道を俺と杉村は一緒に歩いていた。今日はどちらも早く上がることができた。俺の職場は杉村の職場よりも家から遠いので、上がりが重なりそうな時はこうやってよく道場に寄って帰る。おかげで俺もがきんちょに顔を覚えられた。じゃあねと無邪気に手を振るがきんちょたちに手を振り返して帰路についていると、たまに、夢でも見ているような心地になる。
 戦闘実験第六十八番プログラムがじきに廃止される、そういううわさがいよいよ真実味を帯びて現実のものとなりはじめていた。近年中に廃止されるかは疑わしいところだが、道場に通うあのがきんちょたちが中学三年になる頃には、本当になくなっているかもしれない。そうだとよい、杉村は頻繁に口にするようになった。俺もそれは強く願っている。
 俺たちがまだ社会人になる前のこと、大東亜共和国の人権弾圧が国際問題に発展した。諸外国から経済制裁を受けたことで国民の反発が高まり、政策転換の動きが生まれ始めた、驚くべきことに。検閲や情報統制も緩和され、俺たちがプログラムに怯えていた頃からは想像もできないくらい、この国は変わりつつあった。なにかの間違いなんじゃないかとも思うほどだが、きっと、礎が身を結んだんだと、そう思っている。たとえば叔父さんのように、抗い戦い続けた者たちの。
 舗装された道の、ガードレール側を杉村が歩いてくれている。俺は右隣に立ち並ぶ店々のショーウインドウに映る自分たちをぼんやり眺めながら歩いた。
 杉村は中学生の頃の体格をそのまま拡大したみたいにでかくたくましくなった。俺も当時より身長は伸びたけど、杉村とは比較にならない。バスケも齧る程度に落ち着いて、筋肉量も少し落ちた。
「どこか寄って帰るか?」
 ショーウィンドウに目を向け続ける俺を見て杉村が言った。買い物したがっていると思ったようだ。俺は首を振る。「いや、さっさと帰ってメシにしようぜ。ほら、こないだの和牛、まだ余ってるじゃん」——自分の口から出たとは思えないほど平和ボケしたセリフ。
「それもそうだな」杉村は黒目を上に彷徨わせながら言った。「あれももう残りわずかか。また当ててくれよ」
「無茶言うなよ」冗談めかして言う彼に、俺は小さく笑った。以前買い出しに出かけた時に福引きで当てたのだった。福引き!
 足元に目線を落とすと、長い影法師がふたつ、並んで一寸先まで伸びている。どこかの店から有線の音楽がこぼれていて、そのはざまを帰路を急ぐ人の足音が抜けていく。ローファー。スニーカー。ハイヒール。コンクリートで固められた礎の上を軽快に。
 俺の革靴から伸びる影法師だけ、所なげに見えた。
 毎日がわりと充実している。そのことがずっと俺をふわふわさせていた。仕事は楽しい。人間関係も悪くない。女の子にかまけなくなって久しい。和牛が当たった。家にある家具は杉村と相談して選んだ。黒い革張りの二人掛けのソファ、キングサイズの安物のベッド。グレーのカーテン、縦型の洗濯機。冷蔵庫に入ったままのはずの日本酒もたぶん今日で空になる。何度も寄って名前と顔が一致し始めたがきんちょ。杉村と暮らし始めて、数年も、経った。
 杉村がそろっと周囲を見渡した。いつのまにか横断歩道を渡って、人気の減った川の近くを歩いていた。もうすぐ家路だ。
 河川敷にはぽつぽつ人間が座っている。仕事鞄を投げ出したサラリーマンに、帰り支度を始めているランドセルの小学生。放課後デートらしき学生服の男女、あれは——中学生——だろうか。
 ふいに、左手に指が絡められた。見上げると、こちらに視線をよこさないまま、杉村が俺の手を握っている。うんと昔の杉村はこういうとき、ちょっと照れて視線を逸らしていたものだけど、今はもうなんの顔もしなくなった。だけどこうやって手を繋がれると、普段は意識もしていない左の薬指のぬるい温度に、ふと、気がつく。
 俺は、俺も視線を外して前に据え、なんでもない顔をしたまま、その手を握り返した。すると杉村は俺の手ごと自分の右手をコートのポケットに突っ込んで、目立たないようにした。浮遊感が少し、収まった。
「やっぱり、ちょっとコンビニに寄らないか?」
 日本酒、あれで最後だから、チューハイでも買っていこうぜ。俺は言った。
 杉村は目線をよこさないまま、抑揚のない感じでそうだなと言った。だけどほんのわずかだけ、ポケットの中で繋がれた手の力が、本当にちょっぴり、強まった。
「今日金曜日だろ、」
「うん」
「明日の朝、早いか?」
 俺はちょっと考えてから、左右に首を振った。ならよかったと杉村が横顔で軽く笑った。
「ゴムあったっけ」
「切らしてたかも」
「じゃあそれもだな」
 俺は同じくらいの強さでそれを握り返した。こういう時、もし杉村だったら、なんて返したんだろう。解法も解の数ももう無限だった。急いてひとつに固執する必要もない今なら、国語もそんなに嫌いじゃない。
 杉村はこんなふうに、解答を探していたんだろう。ずっとそう、これくらいの速度で。