沸かされる

「お前って、烏の行水ぎみだよなあ」
 濡れた髪をタオルでがしがし拭いていると、そんなことをぼやかれた。ソファに身を沈めた三村が俺を見ている。腹に開かれたまま置かれた文庫本は、もう飽きてしまったのか、読み進められる気配がない。
「そう?」
 施設の人にそう揶揄されたことはなかった気がする。いやあったかもしれない、意識したのははじめてだ。けど言われてみれば、三村の入浴時間は俺と比較するともっと長いように思う。
「ちゃんと洗ってんの?」
「失礼だな」
 洗ってるっつうの。それは三村が一番よく知ってるはずだ。
「いや、どうだかな」
 三村は腹筋で起き上がると、本をローテーブルに放り、右足、左足の順でソファの外に投げ出した。
 そして素っ頓狂なことを言う。
「俺が洗ってやるよ」
 今?
 聞くと三村は笑みを浮かべて肯定した。さっき上がったばかりなのに。面倒臭さを理由に拒否の意思を見せるが、なぜか彼は譲らなかった。
「俺が洗ってやるって言ってるんだぜ?」
「ええ…」
「とりあえず、起こして」
 自分で立ち上がればいいのに、三村は両手を広げて俺に差し出してみせた。その手を引っ張って立たせてやりながら俺は気づく、ああ、なるほどいちゃつきたいのね。
 ワンルームのアパートに備え付けられた浴槽はお世辞にも広いとは言えない代物だ。よっぽど小柄じゃないかぎり、足を伸ばして座れない。タイルは少し黄ばんでいて、長年の使用を物語る。開けるとむわりとした暖かい湿気が身体を包み込む、これはついさっきまで俺が使っていたからだが、そうでなくても換気扇が古くて湿気が篭りやすい浴室ではあった。
 三村は先に服を脱ぐと裸になり、さっとシャワーを浴びた。俺も追って服を脱ぎ入る。小さな浴槽の隅で膝を畳んだ三村は、ちょいちょいと手招きし、対面を指してにんまりした。
 張られた湯は俺がさっき入れた入浴剤で靄がかった白になっている。足を差し入れ、三村の向かいに浸かると、かさの増えた湯が浴槽の縁から溢れた。
 わかりきっていたことだが、狭い。ふたりが膝を折ってもなお互いの足が触れる。俺が両足を少し開くと三村がその間に折り畳んだ膝を入れた。
「やっぱり無理があるって」
「そうだな」
 三村と一緒に風呂に入る頻度はそう高くない。恋人と入浴という響きは好ましいものだが、どうせなら広々とした湯に並んで漬かりたい気持ちの方が強かった。いつかの三村も「あまり一緒に入りすぎると裸に見慣れてしまって良くない」と言っていた。俺に関しては心配の必要はないと胸を張って主張したいところだったが、入浴の時間をそれほど重要視しているわけでもなかったので特に反論はしなかった。
「珍しいな」
「一緒に入ると光熱費の節約になるって気づいたんだ」
 ああ、と納得しかけて否定する。俺がニ回も風呂に入っている時点で差し引きゼロだし、なんの意味もない。
「七原にしては気づくのが早かったな」
 三村は肩で笑った。笑い声がふわふわと反響する。
「たまには素直にイチャイチャしたかったんだって言えよ」
「イチャイチャしたかったんです」
「なんだかなあ」
 言わせるのと言ってもらうのとじゃ違うんだよなあ。俺が考えていると、ふいに股間の急所にぐにぐにとした感覚を覚えた。柔らかい皮膚の感触とぱらぱら動く足指。ガキみたいな一物への攻撃。
「三村…」
「あはは」
 己の脚を動かしてガードを試みるが、それは蛇のようについてくる。続けられていると妙な心持になって、不覚にもそこに血がざわざわと集まり始めるのがわかった。
「あ、ちょっと硬くなった」
「おい!」
 やられたままなのが癪に触って、俺は三村の足首があるであろう場所に手を差し入れた。細いくるぶしを捕らえる。こちらに手繰ると急に体勢を崩された三村は少し焦って浴槽のへりを掴んだ。湯が跳ねる。
 上体を近づけて、ぐらついた三村の肩を右手で引き寄せ、空いた左手で胸元を触ってやる。尖ったところを探り当てて親指と人差し指でつねってやると、びくりと背を反らせた三村が半分笑いをにじませながら声を張った。
「痛っ!痛ぇ、七原、」
「お前が仕掛けたんだからな!」
 軽く爪を立てて、それからいたわるように指の腹で優しくなぞったり回したりをしてやると、上気した頬の色がほのかに濃くなった。
 そのまま対面のへりまで体を追い詰め、一度胸を解放してやってから、両耳のあたりを両手で支えて深いキスをする。ピアスの嵌っていない耳たぶの穴を軽くひっかく。歯列を舌先で割って、奥に絡めながら再び片手を首、鎖骨、胸へと沿わせていく。太ももの付け根まで辿り着いて、そこにある性器の状態を確かめてから、俺は唇を解放した。
「お前も硬くなってんじゃん」
 にやにやする俺に、三村は眉根を寄せた。湿気で柔らかくなった髪が額や首筋に張り付いていて色っぽい。薄い唇はへの字に曲げられていて、やや悔しそうだ。
 得意げにしていると、今度は三村の方から噛みつくようなキス。すぐに差し込まれた舌の動きはまるで生き物みたいだ。けど激しいだけじゃない。上顎をなぞられる感触、漏れるリップ音。あっという間に全部の神経がそこに向いた。舌を吸われたと思ったらざらざらと合わされる。時々吐息が漏れて、緩急のついたそれに夢中になった。
 どれほどそうしていたか、どちらのものともとれない唾液の糸を引きながら三村の唇は離れていって、そうして濡れて色づいたそれが美しい弓形を描いた。
「へたくそ」
 躍起になった三村のキスは上手かった。勝ち誇ったような笑み。息の上がった姿、舌でぺろりと唇を舐める様子にも目が奪われる。
 技術の一点で言うならそりゃ三村の方が上手いに決まっている。ずるい。俺は歯噛みしつつ負け惜しみを放った。
「そのへたくそなキスが好きなのはどこの誰だよ」
「すっ…」
「エッチだって、へたくそっていつもなじるわりに、すげえ興奮するじゃん、三村」
「それは」
「なあ!?」
 三村の膝裏をぐいと押してやるとすっかりほぐれた体が柔らかく畳まれる。自重を失いかけて溺れそうになった三村が咄嗟に俺の首に腕を回し、身体を支える。ここでしてしまうなら、潤滑油とかもうなんかいらないんじゃないか。今すぐ乱暴にぶちこむという、普段ならすることもない狼藉が湯だった頭によぎる。既に血がのぼり切った陰茎を窄まった場所にあてがったところで、俺はちょっと我に返った。
 眼前、真正面にある三村の顔は真っ赤に染まっていて、とろけきった目が俺をぼんやり見据えている。唇は今にもよだれがこぼれそうなくらいたゆんで力をなくしていた。常ならすっと上がった知性を感じさせる眉も、すっかりほどけてしまっている。
「…大丈夫?」のぼせてるんじゃないだろうか、これは。俺は勢いまかせでここまで来てしまったことを若干後悔した。「あ——上がろうぜ、一旦」
 しかし、三村の回された腕は離れることはなく、どころかより強く抱き着いた。
 慌てる俺をよそに、耳のそばで三村は囁いた。
「いい、ここで」
「いいって…」
「洗ってやるって言ったじゃん」
 視界にかかった俺の癖毛を、三村は指先でとってかきあげた。やっとといった具合でせいいっぱい浮かべられた、シニカルな微笑。
 そこまで言われたらもうだめだった。
「知らないからな、ほんとに」
「あとで介抱してくれるだろ」
「また汚れちまう」
「そしたらもっかい風呂入ろうぜ。そんで次もエッチしよ」
 なんでこいつはこうのぼせるようなことばかり言うんだろうか。