周波数

 三村の喘ぎ声はでかい。
 どんな体位でも優勢を取ろうとしてくるのがとにかく好きで——たとえば騎乗位を好む、正常位の時だって足を俺の腰に絡めて——決まって耳許に唇を寄せて信じられないくらい甘やかに鳴いてみせる、まるで聞かせてやってると言わんばかりに。
 時々俺は不安になる。というのもあんまりに彼が声を聞かせることに躊躇がないので、壁の薄さだったりお隣さんのことに意識が向いてしまうのだ。
 すると彼は見透かしたように「誰も聞いちゃいねえよ」と笑う。三村邸の家のつくりは、雀の涙のような援助金で細々とやっている慈恵館とは根本的に違っているし、そんな三村邸から人間の喘ぎ声が聞こえてきたって誰も気にしやしない。この言い訳も彼の得意とするものだった。
 俺はしぶしぶとその言い分を飲み込む。そうして三村のようすに目を向けると、彼はにんまりと笑ってみせた後、再び俺の控えめな律動に合わせて喘ぎだす。いや、俺が動いていなかったとしても三村は勝手に腰を動かして自分のいいトコロに当てて喘いでいた。何度見ても興奮でめまいがする。なまめかしい腰の動き。最初は小さく、徐々に大きく。耐えきれなくなったように鼻から抜け出る声。細目で形の美しい眉毛がエロく歪むさま。それが三村が言うところの「場を盛り上げるための演出」ってヤツだってことはわかってるのに、いつだってまんまと乗せられてしまう。

 けど、いつも大きな声で喘いでいるわけでもない。
 時々、本当にごくまれに、別人と錯覚するほどしおらしい瞬間が三村にはあった。
 叩く軽口はキレに欠け、なんでもない時にふっと表情が抜け落ちる。俺が心配がって、中三の終わり際に借りてからこれまで住んでいる襤褸いアパートの玄関に上げると、今にも取れそうなギシリという金属扉のきしみの音の陰に隠れるようにして俺の胸にすり寄り、性急なキスを絡めてくる。
 そうした流れではじまるセックスの時、たいてい三村は、むしろ聞かせまいとするように喘ぎ声をこらえる。
 顔を見せるのもそれとなく嫌がって、俺が後ろから突いていると、震えていることがはっきりとわかる息が彼の唇から漏れる。そのはざまに「あ」とか「ん」とか言葉にならない母音がとつとつとこぼれる。くっと声を飲み込もうとして、しきれなかった時の音が、猫みたいに喉から鳴る。体の力は弱く、俺にすべてをゆだねているような、そんな感じで。
 そんな三村の姿が、正直言うとかなり好きだった。酷な征服欲のためじゃなくて、どんなに雄弁に語られる言葉や、わざとらしささえ漂う大きな喘ぎ声よりもずっと、三村のこころに触れていられるような気がした。
 俺ぐらいにしか見せないだろう三村の姿。形のよい後頭部からうなじを指でなぞると、彼はわずかに首を傾けてこちらを見た。濡れた、泣いた後のような目と目線がかちあうと、合図のようにスロートキスを送った。

「…けど、三村って今日みたいに、全然喘いでくれない時あるじゃん、」
 嫌いじゃないし、かなりクるけどさ。
 ピロートークの流れでそんな話になった。三村が閉口したので、まずったと思い咄嗟に謝ると、「デリカシーの無さは経験不足からくるのかな」と溜息混じりに小馬鹿にされてしまった。
「いや、ごめん、聞く気はなかったんだけど、つい」
「仕方がないな」
 三村は軽妙な調子に戻ると笑んだ。
「喘いでるつもりだぜ?そういう時も」
「聞こえてこないけど」
「周波数だ」
 ムードもへったくれもない回答に、思わずはあ?とまぬけな音がこぼれた。三村は掛布団を多めに手繰り寄せその中に丸まると、声をひそめ、秘密事を共有するようにして不敵に笑った。
「五十二ヘルツの周波数は、ほかの鯨と共鳴することがない」
「なんの話?」
「たいがいのシロナガスクジラの周波パターンは十から三十九ヘルツ」
「鯨?」
「だから七原には聞こえないんだ」
 そう言って三村は目を閉じた。満足気にしている。弁明は終わりということらしい。なにか学術的なものか、知識を引用しているのだということしか俺にはわからない。唯一ヘルツという単語だけ聞きかじりがあった。
「音楽の授業で聞いたことある。ええと、音の単位」
「周波数の単位な」
「しゅうはすう」
「音は空気を振動させることで鳴っているというのは七原クンも知っているよな」
「まあ」
「振動の回数が周波数。これが高いほど音は高くなる。鯨はごく低い周波数によって鳴くことで仲間とのコミュニケーションを図っていて、五十二ヘルツってのはすごく珍しいんだ」
 それってどれくらい低いの?と聞くと、チューバの一番低い音よりちょっとだけ高いくらい、と三村は答えた。俺は可笑しくなった。「お前、チューバくらいの音で喘いでんのか?」三村も噴き出したように笑った。
「それで?」
 苦しい言い訳が面白くなって、俺は続きを促した。三村はうん、と小さく頷くと、布団にくるまったまま口を開いた。
「その音の呼びかけに反応する鯨は存在しなくて、」
 世界でいちばん孤独な鯨。こう呼ばれてるんだとさ。
 三村が言い終わると、しん、とまた静寂が帰ってきた。彼はいまだ悪ガキのような笑みを口元にきざしているが、その雰囲気はさっきばかりとは少し違った。俺は返事に窮した。そんなオチを持ってこられるだなんて思っていなかった。
 鯨。俺は頭の中に、大海を悠然と泳ぐ鯨の姿を思い浮かべた。シロナガスクジラというからには体表は白いのだろうか。それとも図鑑に載っているような、グレーか黒か青みがかった姿なのか。きっとうんと大きくて、小さな船くらいなら余裕で飲み込んでしまえるほど。絵本の「ピノキオ」で出てきた鯨は、確かそれくらいのサイズだった気がする。
 表情はうかがえない。俺は海に住む生き物にも表情があるかどうかを知らないから、頭の中のひとりぼっちの鯨は、むしろとても快適にしているように見えた。広い大海を独り占めして優雅に泳いでいる。その頭部から低く唸るような音が鳴る。ほかの鯨よりはちょっと高めの、おそらく、声。わあああんと響いて、静かな海にわずかに波が立つ。それが収まった時、訪れたのは再び凪だった。太陽は煌々と照っていて、やはり美しい航海に見える。しかし。
 俺は三村を見た。掛布団にくるまったままの、シーツの海に沈んでいる三村。俺を射すくめる目は、いたずらっぽくも、悲しんでいるようにも、笑っているようにも見えた。彼はいつも悠然と泳いでいる。確かに力強ささえある。俺はそれを追いかけるか、クロールで並走するだけだった、いつだって。
 だが、頭の中に描いた鯨は、拙い輪郭。細部もどこまでもあやふやだ。目の前にいる実像の三村はとてもはっきりとしている。光彩の色も、髪の生え際のブリーチされていない黒い産毛もよく見える。俺が頼めば、肌のきめこまかさだって見せてくれるだろう。そして全体的に薄かった。手首の骨は横から見るとぺたんとしていたし、手足や腹だってもっとすらりとしている。何より、鯨みたいに口を開かなくても会話ができるすべは、多彩な三村でも持ち合わせていない。
「三村は」俺は思わず言った。「鯨にはとても似てないよ」
「そう?」
 彼は笑った。