城岩中学校3年B組は、その全員が電車通学を行なっているわけではない。数人はそうしていたけれども、自転車で通学している者の方が大半だったし、徒歩で通える者や、あるいは車で毎朝親に送迎してもらっている者もいた。
けれどその日は全員旧い箱に揺られていた。車両の席には四十二人が各々仲のいいグループで固まっていて、十分に席は空いているのに仲間との会話を優先して手すりにつかまり立っている者——たとえば桐山グループの笹川竜平であったり、内海幸枝に何事か話しかけては声を殺して笑っている谷沢はるか等——もちらほら見受けられた。
雰囲気はよかった。いつものクラスの昼食の風景と、ロケーション以外、なんら変わりない。
とにかく、全員がその箱の中にいた。
七原は、左に座る国信慶時と、とりとめもない話で盛り上がり、ふとデイパックから水を取り出して飲もうとし手を差し入れ——そこで、そのどうしようもない違和感に、気がついた。
車窓の外を、なだらかな海の線が横切っている。真っ黒な海だ。空にはぽっかりとした満月が浮かんでいて、そのまわりを、全てを飲み込むような迫り来る闇が覆っている。
夜。それも深夜独特の冷淡な風が、背中側にある少し開いた車窓から流れ込んでいた。
その違和感に気づいているのは七原だけのようだった。みな談笑を止めない。無愛想な川田章吾でさえ中川典子と雑談に身を投じている、もちろん瀬戸豊や、三村信史もだ。
国信が訊いた。「どうした?秋也」
七原は景色から目を離さないまま、けれど顔と体の向きは国信に合わせ、抱いた違和感を言漏らした。
「いや、真っ暗だなと思って…。俺たち、そういえばどこに向かおうとしてたんだっけ?」
唇から落とされた言葉に、七原自身困惑していた。今の今までなんの疑問も抱かなかったが、そういえば自分たちはいつからこの電車に乗っていたんだろう。乗車駅のことさえ覚えていない。第一こんな時間に電車が走っているわけがない。
困惑していると、ちょうどその疑問に答えるかのように、車窓の景色の中を、貧相な設備時計が流れていった。七原は、己の動体視力の所以か、それとも何か別の力が働いたか知れないが、その一瞬で流れていった時計が記す時刻を、正確に理解した。一時を指していた。
その時、車内にアナウンスが流れた。この時刻に似つかわしくない、陽気な中年ほどの男の声で、「次は、——駅、——駅」、駅名だけは、そこでノイズがかったようなざらついた音が混じって聞き取れなかったが、そのような音声だった。
国信はそれを聞くと、自身のデイパックを肩に背負い込み、おもむろに立ち上がった。
「あ、俺、ここで降りないとなんだ」
「え?」七原は思いがけず問いかける。「こんなところで、一人で降りるのか?」
「一人じゃないさ」
国信が笑み、顎で軽くしゃくると、その先に藤吉文世が座っていた。七原と国信が座っている位置の対面、そのいくぶんか左に視線を移したところ。内海や谷沢たちと混じって優しげな微笑をたたえ相槌を何度か繰り返していた藤吉は、二言三言彼女らと言葉を交わすと、軽やかに立ち上がり、国信のもとに近づいてきた。
「それじゃ、国信くん、行きましょうか」
「そうだな」
計ったように電車は小さな無人駅に入っていく。ゆるやかにペースを落とし、それから停車した。
国信は藤吉と連れ立ち、一歩、右足を向かいの車両ドアに差し向けた。その時、七原の方を一度振り返ると、
「じゃあな、秋也」
とだけ言った。
国信は愛嬌のあるようすで笑んでいる。彼の調子は、学校からの帰路、分かれ道で友人にそうする時のようなものでしかない、なんでもないものだ。ここになんの違和感もなければ、「じゃあな」と反射的に返したに違いない。
七原はそこで、己の胸中に、ある衝動がぐんと、突然、鎌首をもたげるのを感じた。
「待てよ」その衝動のままに七原は手を伸ばし、去りかけた国信の腕を引き止めた。彼をこのまま行かせてはいけない、そんな第六感めいた衝動だった。
七原と国信は、同じ孤児院で暮らしている。ずっと同じ釜の飯をともにし、一緒に登校して、(部活や余暇の関係で時間が合わなくなることは多々あれど)同じ家に帰って、ともに眠ってきたのだ。「後でな」と言葉を交わしたことはあれど、「またな」も「じゃあな」も、数えるほどしか、もしくは数えるまでもなく、使ったことはない。
国信は大きな目をわずかに見開き七原を認めるが、すぐに笑みを戻してその腕をやんわりと払った。
「俺はここで降りなきゃならないみたいなんだ」そして続けた。「でも、お前の目的地はまだなんだろ?」
七原はまだ、伝えようとした。だが、国信の居ずまいには、なにか、有無を言わさぬなにかが、あった。国信と相対しているうちにそんな感覚を覚えるのは、はじめての経験だった。唇がその形で固まってしまったように、それ以上七原は、何も言えなかった。
国信は藤吉とともにゆっくりと車両を降りていった。屋根のない、屋外に並置されたホームには白い柵が立っていて、黒い海とふたりを隔てている。ふたりがそこに降り立つと、空気式のドアは、圧縮された空気が排出される遮るような音を立てて閉まる。再び穏やかな動きが七原たちの身を揺らし始めた。
しかし七原はそれを振り切るようにホーム側の車窓に駆け寄ると、半分乱暴にそれをすべて開け放った。びゅうと強い潮風が吹き込む。
国信と藤吉は手を振っていた。控えめに手を振り続ける藤吉。国信は、大きく、満身の力を込めて手を——もはや腕を、振っていた。それはどんどんスピードを増して小さくなっていき、やがて豆粒かそれ以下のサイズになって、消えた。
七原が片膝を空席に掛けて窓に乗り出したまま動かないのを、生徒の何人かが不思議そうに眺めていた。
電車は数回、駅に停車した。そのたびにクラスメイトが降車し、車内の人数は減っていった。
最初はそれを引き留めたり、疑問を呈していた七原だったが、あまりにみなが常と変わらぬ様子で、素知らぬ顔をして、自宅に着くかのように降りていくので、それも途中でやめた。きっと自分はあまりに疲れ果てていて記憶が朧げになっているだけで、何か旅行か、行事ごとがあったのだ。それで今はその帰りなのだと、そんなふうに自身に言い聞かせた。時間帯や国信のことへの説明はつけられなかったが、そんなちゃちな理由づけで疑問を洗い流してしまえる程度に、七原は、疲弊していた。
なぜか体は、おもしをたっぷりつけているみたいに重かった。それも生徒が降りるごとに増した。今にも瞼が閉じそうで、なにかについて考えることも億劫になっていった。デイパックは七原の右脇に投げ出され、席から肩紐がだらしなく垂れ下がっていた。中にある水や食料は今にもこぼれ落ちそうに、バッグごと少々はみ出ていた。
羨ましくさえあった。みな、なんの違和感も抱かない様子で歓談を交わし、最後には降りていく。七原だけがその、外の景色があまりに目まぐるしく太陽の位置を変えることだとか、いつまで経ってもノイズ混じりで正確に聞こえることのないアナウンスだとか、一向に終点にたどり着く様子のない奇妙な乗車時間だとかの、不自然さに、気がついているようだった。
七原は「疲れた」と、明確に、そう思った。いっそ自分も、さも呼ばれたかのように降りてしまおうか。ないしはこの、ささやかに引っかかり続けている頭の中の疑問符を丸ごと取っ払って、何も考えず眠ってしまおうか。
だんだんと静かになっていく空間の中でそう思っていると、ふとデイパックのない左脇の方、数刻前まで国信が座っていたところの席が、ぎしりときしむ気配がした。七原が重い視線を移すと、そこに三村が座っていた。
「よお」三村は軽い調子で言った。「なんだか疲れてる様子じゃん」
三村は明るくて、それでいて落ち着いていた。つまりいつもの三村だった。他の七原以外の生徒たちと同じように、状況に疑問を抱いていないように見えた。
七原はつい、悪態をぼやきたくなった。お前らが少しは外の景色のおかしさに関心を持ってくれたなら、俺のこの気苦労も少しは晴れるんだろうさ。
だけど七原は、三村だけはと思っていた。七原の三村への信頼はいつだって大きかった。尨大と言っていい。遍く知識や知恵にも、人格についても。七原は縋る思いで、口にした。
「なあ、おかしいと思わないか?この電車のこと」
「電車?」
七原はこれまで自身が感じてきた違和について話した。三村が降りてしまう前にという、焦燥めいたものもあった。それはそろそろ、七原の中で、それこそ“尨大”に立ち塞がる怪物として、成りつつあった。
三村はしかし、七原の願いを打ち砕くように、のんびりとした感じで言った。「そうかな?」
七原は落胆した。まだ自分は一人だ。もしかすると、降車するまでずっとかもしれない。全員がなにも示さぬまま、自分より先に降りてしまうのかもしれない。七原にとって、わけもわからぬ駅のホームに降り立つことよりも、一人ただ到着するかもわからない終点に向けて揺られ続けることの方がずっと、恐怖だった。一人は嫌だった。
だが三村は、その闇に飲まれそうになる七原に、続けてこうも言った。
「だけど、その感覚はきっと、持っておくべきものなんだと俺は思うぜ」
七原は多少苛立ちを滲ませながら返した。
「俺一人で苦しみ続けろ、っていうのか?俺はせっかく、三村ならわかってくれると思って…」
そこで七原はふと、続けようとした言葉を一旦飲み込んだ。
三村が笑っていたからだ。それもシニカルではない、単純で穏やかな、森閑とした、なにか慈しむような、それでいて物悲しささえ感じさせるような、つまり、およそ彼らしくない笑みだったからだ。
どうしてそんな顔するんだ。
沈澱しようとしていた七原の意識に、そんなワードが、そこだけ輪郭を持って浮上した。それが七原の思考を呼び覚ましていく。急速に徐々に、ロックよりジャズバラードめいて。
三村の美しい、整った笑みが、上下に控えめに開かれた。
「この方舟で、正気でい続けることは難しいよ。多分とても難しい。でもお前はここまで保ってきた。引き留めて、投げかけ続けた。だからこそこの方舟は、お前を選んだのかもしれないな」
明瞭になっていく認識の中でさえ、三村がなんの話をしているのかわからなかった。神話の話でもしているんだろうか。七原も、すべての雌雄のつがいを乗せて大洪水を進んだ舟の話はうすぼんやりと知っている。だけどここは電車だ。舟じゃない。それに、この方舟が自分を選んだ、だって?
「電車はだめだな、揺れが平坦で眠くなる」
景色の方にすっと視線を移した三村は、そこに相変わらず流れ続けている判を押したような水平線の連なりに目を細めると、わずかに七原に身を乗り出し、得意の皮肉げな笑みに、唇を引き直した。
「多少酔いが回りやすかったとしても、舟の方がきっといい。そうだろ?」
アナウンスの代わりに、汽笛の音が響いた。
三村の発言の意図は変わらず読めなかったが、彼がここで降りるのだということは直感的に理解した。瀬戸や飯島もデイパックを抱え、降りる支度を始めていた。
三村は首を軽く捻りそちらを見遣ると、自らもデイパックを肩に抱え、立ち上がった。
「行くのか?」
七原の声は哀惜をかすめていた。意識の片隅でそれを恥じる。
三村はふっと目尻の弧を強めると、座ったままの七原を見下ろしこう言った。
「お前は、数少ない、美しく生きているひとりだと思う。俺がそれを保証する。その苦しみはずっと、できうるかぎり抱き続けろ。それが、お前の美しさの証だと、俺は思う」
三村は踵を返し、瀬戸と飯島に加わった。立ち上がりかけ中腰になるが、言葉をかけられずそこに立ち尽くす七原に、三村は降りる直前、背を向けながらも利き手の左腕を見目よいフォームで上げ、その先の長白い指でサインを形作った。
それはとても馴染みのある指の形だった。七原がワイルドセブンと呼ばれていた頃にチーム内で使われていたサインだ。親指と小指を立て残りの指を閉じる。そのあと拳の形に閉じ、ほんのわずかに、肘を下におろす。
自信を持って、打て。
中学になってから知り合ったはずの三村がなぜ、当時七原たちのチームで使われていた古いサインを知っているのか。七原の頭を混乱がよぎった。しかし三村は、ともかくそのサインを使って、七原に、伝えた。それだけがこの異様な空間におけるただひとつの真実として、存在していた。
「秋也くん」
七原ははっと目を覚ました。隣には両の瞳いっぱいに涙を浮かべた典子が寄り添っている。
どうやら疲労から、いささかの時間眠ってしまっていたらしい。操舵室の壁にかかった時計を見ると、五分も経っていなかった。
しんと静まり返った船の中は、七原と典子以外の人間の命がとうに潰えたことを意味している。死後硬直のはじまった川田の遺体が、薄布を顔にかけられた状態で、丁寧に脇に安置されていた。分厚く頼もしい掌がふたりと挨拶を交わすことは、永遠にない。
この、死ばかりを載せた船の中で、にわかにも眠ることができた自分を七原はかすかに恐れ——そして目覚めたその意味を、ようやく、冴えた頭で、悟った。
「…夢を見たんだ」
「…どんな夢?」
七原は、ぽつりぽつりと電車の夢の話をした。典子と己以外のすべての仲間がすでに降りてしまった、方舟の夢だ。
そして三村について触れた。狂気の泥濘から正気の荒波に自身を引き戻した、三村について。
典子は黙って聞いていた。終始なにも言わなかったが、ただ腕を広げ、その柔らかい両腕で七原の肩を抱きしめた。
七原は少しだけ、その中で、泣いた。少しだけ涙を流し、それが落ち着くと操舵装置に向かった。横に広く取られたガラスの向こうに在る冷厳たる波浪の前に立つと、息を深めに吸い込み、小さな舵輪を握った。