一、
俺は、いや正確には俺達だが、まあるくて白い部屋で目が覚めた。
部屋はそれほど広くなく、天井は目測にして凡そ三メートルはあろうか。家具や調度品のひとつもないかわりに、部屋の中央にあたる場所に巨大で奇妙なオブジェが鎮座している。
俺にもっとこのオブジェの妙ちきりんさを表現する為の語彙があれば良かったのだが、生憎俺にはこのオブジェを”妙ちきりん”と表す以外に方法が思いつかない。とにかくあらゆる部分が出っ張って凹んで、を繰り返しながら天井まで高く続いている、そういう妙なオブジェだった。
横で転がっていたおそ松と一松も俺と同時に目を覚ましたのか、まず声を掛け合うより先にこのオブジェを呆然と見上げたあと、弾かれるように声を上げた。沈黙を切ったのは長男のおそ松だった。
「いや何ここ!? 何事!?」
「俺も分からん」俺は努めて冷静に答えた。クールな男は動じないものだ。「フ、大方シャイなガールが用意した愛の告白の舞台って所だろう。さしずめ俺は罪深いプリンセスに拐われた哀れなお」
「いや冷静気取っててもそんだけ縦揺れしてたら意味ねーし。つーかガールなんか居ないし」
早口で一松が俺の言葉を遮る。彼は俺が一度は隠そうとした動揺を看破したようだ、流石は俺のリルブラザー。全く着眼点の良いカラ松ボーイだ。
「マジでここどこだよ。何かのドッキリ? てか残りの松はどこだよ」
頭を掻きながらおそ松は部屋をぐるりと見回した。
先程も俺が観察した通り、この部屋には中央のオブジェ以外目につくものは何もない。強いて言えば白塗りの木製扉が取って付けたように据えられている程度か。オブジェが豪胆かつ繊細な――とはいえ俺には芸術は全くもってわからない。出っ張り部分に施されたレリーフの細かさを繊細と記しただけで、実際の所この”デカブツ”がそんな華奢な表現の似合う一級品であるかどうかは不明だ――金のかかった品に見えるだけに、その辺の板を拾ってきて適当にペンキで塗りつけて節くれだった表皮を誤魔化したような粗末な扉は、お世辞にもこの部屋の雰囲気と調和しているとは言いがたく、俺は首を傾げた。
おそ松もその言い知れぬ違和感は感じていたようで――さすが六つ子だ―― 、んんー?などと唸りながら扉の方に駆け寄り、ガチャガチャとドアノブを弄っている。開く様子は無いらしい。一松はそんなおそ松の様子を尻目に中央のオブジェをまじまじと観察している。芸術品に興味があるなんて知らなかったぞ、ブラザー。
「開かねーな。鍵かかってんのかね。少なくとも向こう側から押さえつけられてるとか、そんな感じはしないけど」
「そうか…弱ったな。恥ずかしがり屋のハニーのイタズラは、可愛いうちに種明かしして貰いたいものだが」
「ねぇ」
おそ松と共に眉を顰めていると、じっとオブジェの前で身を屈めていた一松が口を開いた。見ると、チョイチョイ、と袖に隠れた右手で俺たちを手招きしているようだ。珍しい事もあるものだ。――異常事態なのだから当然だ。
「見てこれ」
引き寄せられるがまま側に寄った俺達に同様に身を屈めるよう指示して、一松はオブジェの一端を指し示した。そこには金に輝くプレートが取り付けられていて、何やら文字が刻印されている。俺には学はないが、どうやら英語らしかった。
「げぇ、お兄ちゃん英語なんて苦手よ?」
「俺も分かんないよ」
「フ、任せろブラザーズ。この次男カラ松の手にかかれば、このような怪文など」
「g…g…galaxy…ってなんだっけ? 宇宙?」
「銀河」
単語を一つ一つ指でなぞりながら俺達は翻訳作業を進めていった。それは非常に辿々しいものではあったが恐らく一応の解読は出来た…はずだ。なおその翻訳作業の殆どは一松の功績である事には触れないでほしい。俺も男の端くれ、手柄は欲しいのだ。
この広大な銀河――太陽系に漂う様々な星々。惑星の神秘を描いた巨匠の作品をお楽しみ下さい。
言われてみれば確かに、妙な球体の出っ張りや凹んだ部分にあしらわれた意匠には、ウラヌスとかマーズとか、確か惑星の名前だったと思うのだが、それがごく小さな筆記体で刻まれているのが確認できる。芸術家の考える事って分かんねーなー、とおそ松が横でごちた。格好悪いと思ったので口にしなかったが、俺も全く同意見だった。銀河を表すなら写真とかで良くないか。
そこまで考えて、ふと遠い昔トド松に「だから兄さん達は絵画とか彫刻ってもんの良さがわかんないんだよ。これだから神経の図太い奴って嫌なんだよねー」と揶揄された事を思い出した。神経の太さと芸術的感性ってどう関係があるんだ?
おそ松がこの場に居ない作者に文句を付けていると、横の一松がギロリと何かを責めるかのような目をして彼を見た。
「このオブジェが何を表現してるかとかは別にどうでもいい。これ、見て」そう言ってプレートのさらに下部を指差す。
一、このオブジェに隠された謎を解き、鍵を入手して脱出し給え。さすれば愛しい家族の元へ帰れるだろう。
二、君達はそれぞれ”秘密”を所持している。それが暴かれない限り、隠された道は開かれぬ。
部屋に再び静寂が訪れる。
謎解き?秘密?――何だそれは、というのが率直な俺の感想だった。人さらいの狂人の暇潰しに付き合ってやる程、俺は、松野家の人間は優しくなどないのだ。
不愉快な感情を隠す事もせず(今にして思えばこれは悪手だった。だってクールな俺らしくない)唇を曲げて顔を上げれば、おそ松は相変わらず片眉を上げて理解の及ばぬ子供のような顔をしているし、一松はいつも通り顔が白かった。何処となく焦っている風に見えたのは気の所為なのか何なのか、その正体を掴むより早くさっと彼は表情を変え、続けた。
「やらなきゃ出られないって書いてあるけど。どうすんのこれ」
「イヤイヤイヤ。従うの? こんな意味分かんないことに? テレビかなんかじゃないのこれ。ホラよくあるじゃん、脱出ゲーム」
「ふざけてるんじゃないか?」
俺は二人に背を向けて扉の前まで向かう。もしかしたら力業でも開くかもしれない、そう思った俺は謎解きより先に強行突破を試してみる事にした。体力・筋力には、共に自信がある。
徐に右足を上げて、そのまま容赦無く蹴りつける。ガン!と破裂するような、それでいて鈍い音がして、確かな手応え――この場合は足応え、を足裏に感じる。ビリビリとその感触は伝わってくるのに、目の前の扉は開く気配が無かった。こんなに薄そうな、オモチャのような扉なのに。
「まっ、おい、何やってんだクソ松!!」声を荒げた一松が俺の左肩を掴んできた。「もし何かの冗談でもなんでもなかったら、監禁だったら、下手な真似すりゃ何が起こるかわかんねーんだぞ!?」
そう言われて俺は確かに、と思った。誰がこんな奇行を働いたのかは不明だが、主導権はあちらにあるはずだ。不本意な事に。こういう時は従順な姿勢を見せておくのがセオリーだ。なんかたまにそういうの、刑事ドラマとかでやってるよな。自分が演劇でも何でもなく本当にそんな目に巻き込まれる羽目になるとは思っちゃいなかったが。
「すまない」素直に謝って振り返る。「まず安全確認をしてからするべきだったな」
「いやそういう問題でもな……、…チッ、何で俺が…こういうのはいつもならチョロ松兄さんかトド松が…」
一松は一つ舌打ちを落とすと、ブツブツ呟きながら背を向け、扉から見て真正面、反対側の壁まで移動していく。おそ松がその背に近づいて、肩に頭を乗せた。なあ、と呑気な声を上げる兄に、何故だろう、この状況下の為なのか、チリっと焦げ付くような苛立ちを感じた。
「何見てんの?」
「何って、部屋の角。監視カメラとかあるかもしれないでしょ。若しくは…クソ松が反抗的な態度を取った時に射殺する為のガトリングガン、とか?」
ヒヒ、と掠れた這うような恐ろしい笑い声が聞こえて俺は思わず身震いする。冗談でもそんなこと言うな、怖いだろ!…しかし返答を受けた当のおそ松はふぅん、と間延びした相槌を打つだけだった。何故この長男はこれ程マイペースなのだろう、今の自分の状況が分かっているのだろうか。――俺もまだ、イマイチ現実のものとして飲み込めていない節はあるけれど。
けれど部屋内を探してみても、取り敢えずそういったカメラや武器類の類は見当たらなかったようだ。
一松は大きく息をついて俺に振り返った。安堵の溜息か、それとも俺を葬れるチャンスが今は無い事による嘆息かは、怖いので追求しない事にする。
「ま、クソ松が扉蹴っても何も起こらなかったんだから、とりあえずは心配しなくていいのかも」
そう言って肩を竦める。横でおそ松がその背を叩きながら「大丈夫だって、いざとなったらこのお兄ちゃんもいるし」と快活な笑みを見せている。だから分かってるのか、多分これドッキリとかじゃないんだぞ…多分。
「…しかし、食糧も無いんだよな。何時まで持つか不安だ」
「窓も時計も無いから時間わかんないしね」
「……てゆーかトイレ無いじゃん、トイレ!オシッコしたくなったら何処ですりゃいいの!?超困るんだけど!」
俺が感じていた不安を口にすると、一松の至極冷静な同意と共に長男の騒ぐ声が返ってくる。確かにトイレは不安だが、もうこの際仕方ない。手っ取り早く謎を解いて、秘密とやらも共有して、サクッと脱出するしか無い。
ここで明白にしておくが、俺にやましい秘密など一切無い。いやまあ実はおそ松の金で酒を買ったりとか、そう言った秘密は実は持っているのだけど、そんなの男なら懐を広くしてどんと受け入れるべき、そうだろう?因みに、俺がやられたら多分怒ると思う。棚上げ?そんなものは知るか。責任を負わない人生、C’est la vie!
……兎に角、俺にやましいところは無い。誓って無い。絶対に、だ。
二、
率直に言おう。一松は頭が良い。俺よりはずっと良いし、勿論おそ松よりも良い。この場に居ないあの三人と比べれば、十四松は言うまでもないが、もしかすればチョロ松やトド松よりも――つまり兄弟の中で一番賢いのではないかと、俺はそう思っている。その賢さというのは例えば学力もそうだし、所謂心の機微や、閃き、といった面でも言えるのではないだろうか。恐らくだが、おそ松もきっとそれは否定しない――と思う。
何が言いたいかというと、一松はこの狂った空間で強制された”謎解き”において最も――こんな言い方も良くないのかもしれないが――役に立つ、人材であった。事実今も彼は黙々とオブジェに向かって真剣な表情で何か考えているらしかった。
ヴィーナス…金星に当たる部位を引っ掴んで動かすと、僅かなズズ、という石同士の擦れるような音と共にそれが位置を変える。一松はプレートと金星を何度も往復しながら、他の星の位置を弄ったり、戻したりを繰り返している。おそ松と俺は、背後でそれをぽかんと眺めている。
「一松、なんか分かったの?」
「まだ確実なことは分かんないよ。てか、クズニートのゴミなんだからあんま期待しないでよ」
一松はあいも変わらぬ、何も面白くなさそうな、それでいて何処か寂寥(せきりょう)さを感じさせる仏頂面を向けて吐き捨てるように言った。そうは言うが、きっと何か掴みかけているのだろうとは思う。少なくとも俺たち以上には。
オブジェは動かして位置を変えられる。それに気付いたのは謎解きに取り組み始めて程無くしてからだった。
戯れにオブジェにぶら下がったり摘んで遊んだりと奔放な振る舞いを見せていたおそ松の身体がガクッと傾ぎ、それが体調不良などではなく、寄りかかっていたオブジェの一部がおそ松の重みで動いて傾いた所為だと気付いてからの一松の行動は早かった。
「ちょっと退いて、おそ松兄さん」
「え?お、おう。何々?」
ピシャリとした口調に気圧されたおそ松が言われるがままに数歩退くと、一松はあらゆる部位を上げたり下げたり傾けたりしながらオブジェをぐるっと一周し、やがて小さく、あ、と声を上げた。
「こういうの、あると思った」
俺達も近付いて見てみると、一松が動かした部位――Mercuryと刻まれていた――の跡に新たな文章が視認できた。ただオブジェを観察するだけでは気付かない、動かして漸く露わになる、死角になる位置だ。
そこにはNとかEといったアルファベットが幾つか羅列されていたが、俺にはこれが恐らく謎解きのヒントに関係するのだろうという以上の事は閃かず、首を傾げるよりなかった。カラ松ガールは知的な男がタイプだろうか?だとしたら申し訳ない。俺はそういった分野とは程遠い人間のようだ。その分、肉体的分野には明るいという自負があるので、容赦してほしい。
一松はアルファベットの数を数えてから、徐に「このオブジェ、太陽って見当たらないよね?」そう尋ねてきた。おそ松と俺は顔を見合わせてから、手分けしてこの物体を再観察した。水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、冥王星…なるほど、言われた通りだ。太陽にあたる部分はどこにも存在しない。
「あのアルファベット、多分方角の頭文字なんだと思う」太陽が無いことを伝えると一松はそう言って唸った。「このオブジェ、大体全部の惑星が動かせるんだけど、地球だけは固定されてて動かないんだ。さっきのアルファベットも地球を抜いた数だった」
曰く、水金地火木…の惑星の並びとアルファベットが対応しているのだとしたら、太陽と地球の位置関係から方角を読み取って、その方角に惑星位置を合わせてやればいいのではないかと思ったと、そういった感じのことを一松は説明した。
ここで気の利いた意見が出せれば良かったのかもしれないが、俺はただ一松が言うならそうなのかもしれないな、と頷くしか出来なかった。仕方ないだろう、先程も述べたようにこういうのは俺の苦手なジャンルなんだ。一松もそれは想定していたのか、俺を蔑むような目で一度だけ睨みつけると、特に返事を待たず再びオブジェの方に向かっていった。
俺の側に立っていたおそ松は、組んだ腕を頭の後ろに回して、まるで一仕事終えた労働者のように大きく伸びながら――何でお前がそんな仕草するんだ、俺が言えた事じゃないがお前も何もしてないだろう――いやあ、と俺に言った。少し潜める声だった。
「よく覚えてるよね一松。俺、言われるまで水金地火木とか忘れてたわ」
「……」
「なんだよその目! だって高校卒業したの結構前だよ!? 何年もニートしてたら頭からすっぽ抜けるに決まってんじゃん、お前だってそうだろ、俺と一緒に結構補習受けたくせに」
「お前よりちょっとだけ点数良かった」
俺が呟くとおそ松はむっとした顔で「マジでちょっとだったじゃん」と唇を尖らせた。そういうどうでもいいことは覚えているんだな。俺はバツが悪くなって黙り込んだ。言っとくが俺が苦手だったのは社会や国語であって、理数系はおそ松より得意だった。天体の並びくらい覚えている!――みなまで言うな、あまりにもくだらない張り合いであることは俺も重々承知なんだ。ナイスガイは終わったテストの点数なんかで口論したりしない。
閑話休題。かくして謎解きの役に全く立たないと悟った俺達は、普段は微動だにせず部屋の隅で体育座りしてこの世の全てを呪っているような顔をした弟の、世にも珍しくあくせくと動く生白く薄い体をぼんやりと見つめながら、地べたに尻をつける事と相成ったのだ。
一松は俺達には目もくれず太陽を探している。もしかすれば太陽を見つける為にはさらなる謎解きが必要で、だとすればヒントは複数あるのかもしれない。何となくそう思った俺は、一松にばかり働かせているのも忍びなくなって、手伝おうか?と声を掛けようと腰を浮かせたのだが、この歩が一松に向かう事は終ぞ無かった。おそ松が声をかけてきたからだ。
「なあ」
俺しか聞き取れないような、抑えたトーンだった。おそ松は悪戯がしたくなった時、こういう声調で兄弟に話しかけてくる事が時たびある。言うまでもなく、一緒に悪事を働く為か相手を陥れる為かの、どちらかだ。あるいは――唐突に真面目な話題を切り出してくる時。
この男は食えない奴なのだ。飄々と笑っていて、世界の何もかもが面白くて仕方ない、という顔をしておきながら、不意に真面目くさって、世間が信じられなくなるような事を言ってくる。そういう時俺は思うのだ、コイツは俺の兄だが、一松の兄でもあるのだと。
「秘密って、何だと思う?」
俺は目を丸くした。「どうしたんだ、急に」
「この部屋から脱出する為には向き合わなきゃならない課題だと思うが…”犯人”が俺たちの事を何処まで知っているかなど、たかが知れてるんじゃないか?」言葉を一度切って、酸素を取り入れてから続ける。「だって、四六時中俺たちの事を見張ったりしていたかどうかも分からないし。ただのニートの俺達にそんな、拉致してまで明かさせたい秘密があるはずもない。敵が何か知っているとしても、ちゃちなものだろ。せいぜいチョロ松のプリン食ったとか」
だから、あの一文はどうせ俺達を不安がらせる為のお遊びでしかないと思っている。
そう言い切るとおそ松は呆気にとられたような顔をした後に、くつくつと笑った。「お前、たまにめっちゃ饒舌になるよねー」
…ギクリと、そう。ギクリとして、しかしそれを学生時代培った演技力で覆い隠してから、俺は答えた。「それがどうしたんだ?まさか、不安なのか?」
多分隠せている、はずだ。間違いない。だって俺は主役を演じた経験だってある名俳優。松野家に生まれし次男カラ松に、これしきのことができない訳がない。
「不安か」
そう呟いておそ松は俺から視線を逸らした。外れた目線の先を追うと、そこには一松がいる。いつもの代わり映えしないヨレヨレのパーカーを着て、しかし動作だけはキビキビと、まるで生真面目一辺倒でサボりのサの字も知らなかったような、かつての学生時代を想起させる、俺たちの弟。根幹が変わる事は無いのだなと、少しばかり温かい気持ちになる、可愛い弟。
「別に俺は秘密を共有する事自体が怖いんじゃなくてね。お前の言う通り、大した秘密なんて、ないし」
立てた片膝に肘を置いて、ぼうと頬杖をつきながら一松の動きを目で追うおそ松の表情は、読み取れない。言っただろう、俺は苦手なんだ。人の機微を察するのが。言わなかったかもしれない。兎に角苦手なんだ。…苦手でなければならないのだ。
「お前がね。”ちゃんと”してくれるのかどうかってことと」
一松が、視線に気づいてこちらを見る。いけない会話をしていたような心地になって僅かに身を強張らせた俺とは対照的に、おそ松は朗らかに手を振った。一松は中指を立てる。手伝いもしねえくせにマッタリしてんじゃねぇよ、とでも言いたげだ。わかってしまう。
「……この夢が覚めた後、一松ちゃんは大人しくしていてくれんのかなーみたいな、そういう?不安は確かに、あるよ」
おそ松は再び俺を見た。その目は俺と同じ色、同じ細胞、同じ錐体で出来ているはずなのに、じっと見ていると嘘をついてはいけないような気持ちになってしまうのは何故なのだろう。クソな長男だと思っているのに。――いや、”だからこそ”クソなのかもしれない。
「ま、こんな状況だし?長男様の貴重な弱音、許してよ」
にぱ、と奴は笑った。コイツはやる気だ、と俺は直感する。
秘密。そんなものは、俺達健全な兄弟には無いのだ。何せ全て共有してきた仲である。映画館に行った事も、パチンコで勝った事も、そう、一人で山に登った事だって!だから隠し事なんて俺たちの間には無い。”無い”、その水面下で築かれた不可侵の国境を、この男は越えようとしている。ただの狂人のままごとに過ぎないこの環境をダシにして。これは紛れも無い現実であって、夢では無いのだぞ、と叫び出したい衝動に駆られ、掌に汗が滲むのが確認せずとも分かった。
おそ松は絶句する俺を取り残して、ゆらりと立ち上がった。
三、
突然近付いてきたおそ松に、一松は驚いたようだった。ずんずん歩を進めてくる彼に、動揺か静止の意図か、はたまた単なる疑問からか、口を開いた。
「どうしたのおそ松兄さん。………俺があんまり遅いから?」
謎を解くのが。そう口ごもり、責任からか俯きかけた一松の顎を、おそ松の指がぐいと引き上げる。思わず立ち上がった俺だったが、僅かに出遅れた。
おそ松は静かに言った。「太陽は無いよ」
「…え?」
「太陽は、無いんだよ。一松」彼はそう繰り返す。言いながら、オブジェを見上げる。目覚めた時とシルエットが変わっているそれは、一松の努力の痕跡だ。
「お前はえらいねえ。怠け者の兄のかわりに頑張ってくれて」
「そんな、ことは。ただ出たいだけだし。出て、猫とーー」
「秘密って、何だと思う?」
一松の言葉を遮り、ぞっとするほど抑揚の無い声で、おそ松は先程と一字一句同じ台詞を囁いた。一松の口元が、わけがわからない、と言った様子で薄く開きかけたのちに、その言葉の真意を理解してしまったのだろう。白い顔がさらに白くなる。震える唇の間から前歯がちらりと見えた。
「なに、何って、何も、」
「ああ、そうだろうね。お前は俺にやましいことは何も無いーーけれどカラ松にはある。そうだろ?」
どうして。と裏切られた絶望を滲ませて目の前の兄を凝視した後、ゆっくりと一松がこちらを見る。俺の足はそこに縫い付けられたかのように動かなかった。たっぷり見つめ合う形になった俺達の間で――おそ松は妬けちゃうなあ、と小さく笑った。
「俺はこんなにお前が好きなのにな。いちまつ」
その言葉は、声は、雄弁に語る愛は蟲毒だ。特に、一松には効果覿面であることを、俺はよく知っている。何故ならーーこの目で”見た”からだ。
ああ、もう無理だ。親愛なるガールの前では潔白な身でいたかったのだが、前言を撤回しよう。俺にやましいことなど何一つ無いという発言、あれは真っ赤な嘘なのだ。男なら例え虚飾であろうと自分を良く見せたい瞬間がある、そうだろう?俺はありのまま、欲に素直に正直に、溌剌と生きている自覚があるし、そう、それこそ目の前で震え硬直している一松よりかはよっぽど健康な精神をしていると自認しているものの、暴かれたくない秘密や心の一つ二つはあるというものだ。幻滅したかい、しかしながら俺も成人した一人の男。純粋なままではいられない、残酷な現実がここにはある。
可哀想なくらい頬を青くして「いや」「やだ」と繰り返し、後ずさろうとする弟の腕を素早く掴み後手にしたおそ松は、硬直する俺の前に一松の怯えた顔を見せつける。そして彼の耳に注ぎ込むようにゆっくりと囁いた。
「ごめんな。俺なら秘密にしてくれるって信じてたよな」
目を細める。明らかに一松に語りかけているにも関わらず、その視線は俺から動くことは無かった。何かを促すような、責め立てるような、それでいて許すような目をしている。あの粗末な扉が蹴破れるのなら、直ぐにでも一松を連れて逃げ出したかった。ああ、弟に辛い思いをさせるのは本意ではないというのに――。
おそ松はくっと口の端を吊り上げて言った。そういえば冥王星って太陽系惑星じゃなくなったよね。なのに何で惑星扱いしてくれてんだろね、このオブジェは、と。……お前、覚えてたんじゃないか。このタヌキ野郎が。
「本当は誰よりも寂しくて、愛して貰いたい。クズじゃないって言い切ってくれるカラ松のこと、好きだけど、信じられない。眩しすぎる。許したら立っていられなくなる。自分で選んだはずなのに、辛くて仕方ない。こんな事なら、真面目でいる事を辞めないままの方が良かった。でも、頑張るのも辛かった。お前はきもちいいことに強くないもんな? 俺が、甘やかして、囁いて、触ってくれるならそれでもいいかって、思っちゃうんだよな。でも、こんなのおかしいって、分かってんだよね。お前は”賢い”から。いつも、常識とか、世間体とか、忘れらんないんだよね? 俺が忘れていいよって、散々、言ってるのになぁ……」
「やめろよッ!!!!」
カーペンターズが甘く歌い上げる青春の旋律のように。ラジオから流れる耳障りの悪いノイズのように。母の優しさの、死刑執行人の宣告のように。おそ松が紡ぐ言葉を、鋭く悲痛な一松の叫び声が遮った。
おそ松は口を閉じ、その近くで、一松は震えている。その場で吐くか、殴りかかるかするんじゃないかと思った。しかし予想に反して一松は懺悔するようにその場に崩れてへたり込み、その頭を追いかけておそ松はしゃがみ込んだ。そっと頭を撫でている。
「”弟”であることに甘えてる。俺達が”許してくれる”のをわかってる。なんだかんだで俺達は――カラ松もそうだけど、チョロ松も十四松もトド松も――お前を許してしまうってことをわかってる。わかってて漬け込むんだ。甘え上手なやつだよ」
皮肉だ、と俺は思った。そうして掌握して、受け入れて、一松のこころを、からだをもがいても抜け出せぬ泥濘に引きずり込んだのはどこの誰だと思っているのだ。
「ねえ、いちまつ。お前がかわいいよ。かわいくて仕方ない。…お前はこう言うと喜んじゃうんだよな?そんでそんな自分を嫌悪して死にたくなるんだ。でも死ねない。そんな勇気が無いから?…違うね。だってお前は――強い子なんだもん」
そう言っておそ松は俺を見つめた。握りしめた拳は、指が食い込んで痛かった。殴りたくても殴れないのは、おそ松のその呪詛が、一松にも、そして他ならぬ俺にさえも、刺さってくるからだ。
「強いよ。だってこうして今も生きてるし、弟連中でいたらお前、踏ん張るだろ。いいお兄ちゃんでいようとする。だから強い。でも本当は強くなんかなりたくないんだ。弱ければ、守ってもらえる。だから弱い自分で居させてほしい。カラ松はそうさせてくれないから…だからキライなんだ。尊敬も多分、してんだけどね」ねぇ?いちまつ。「お前は、強くなりたくない。『一生僕を守ってくれる、僕の奴隷でいて』……いや、『いろ』かな。そういう臆病な気持ちからくる、高慢さ」
まくし立てた。いや、そう形容するにはゆったりとして子守唄のようだった。
おそ松は一呼吸置いてから言った。「これが、ひとつめの秘密ね」
一松はもう、俯いて動かなかった。あんなに震えていた肩が嘘のように静まり返り、しっかりと地につけられていた手はだらんとしなだれてぴくりともしない。旋毛しか見えないが、今の一松が放心した顔で床を見つめているであろうことは手に取るようにわかる。
俺はここで「お前が何を言ってるか、さっぱり分からないんだが」とでも言うべきだったのだろう。それが正しい松野カラ松だ。最適解はわかっているのに、俺はやはり依然として動けなかった。口の中がカラカラに乾いて前後が覚束なくなるような錯覚さえ覚える。
一松。一松! 絶望する必要は無いんだ。お前が悲しむ必要はどこにも無いんだ。何故なら俺は。
「ふたつめは」
おそ松が、一松の背を撫でながら言った。彼の表情を読み取る気さえ起きない。指の先が痺れている。
「俺が、一松を”慰めて”あげてたこと――ま、でもこれは大した秘密じゃないな。それこそ『プリン』レベル。そうだろ?」
悪戯っぽく笑う長男を殺してやりたいと思った。しかしそれは出来ない、俺は罪人になってしまう。
「みっつめはね。カラ松、お前が」おそ松の唇の動きがスローモーションに見えた。「それを全部知ってたってことかな」
のろ、と一松が顔を上げた。泣いていたのだろう、はらはらと零れ落ちる涙が頬をしとどに濡らし、痕を作っている。理解が及ばないのか、思考もうまく働かないのか。じっと俺を見つめてくる一松が、今は魔女を火刑に処す民衆にさえ見えてくる。
「俺と一松の関係を、知ってた。抱いてる事も勿論。どうしてそんな関係になっちゃったのかも。今の一松の、一世一代の”秘密”も心の内もね」
一松が目を見開いて俺を見た。足場が崩れて、空が落ちてくるような感覚。俺は掠れた声で呟いた。
「一松、違うんだ」
「せっかくなら、自分の口で話してあげなよ。秘密は共有しないと出られない。カラ松は結構強いからさあ。できるよな?」
それに俺、喋り疲れちった。そう言っておそ松はパーカーが汚れる事も厭わずその場に寝転んだ。へたり込んだ姿勢のままの一松と、立ち尽くした俺の視線のみが結びつきあい、一松は本当にか細い声で、どういうこと、と呟いた。
四、
きっかけは簡単だ。たまたま居間でまぐわっている二人を見た、ただそれだけだ。
普段六人で使っている、団欒の象徴とも言える卓袱台をラブホのテーブル代わりにし、一松を押し倒して一心不乱に腰を振っているおそ松の姿。その背中に手を回し、娼婦のように求め喘ぐ、一松。
はっきり言おう、俺は男同士で行われる行為こそ各々の嗜好として捉えることが出来ても、近親相姦なんて頭が狂っているとしか思えなかった。二人は愛する俺のブラザーで、それは何があっても揺らぐ事は無い。殺したいとは言ったがあれは言葉のあやで、今でも勿論おそ松も一松も愛している。命を賭しても守りたいと思っている。…本当に? いやいや、本当だ。それが兄弟愛と言うものだ。
しかしながら当時の俺は嫌悪感を隠す事は出来ず、当然、”俺が知っている”という事実を無かったことにすることもできなかった。一松はついに気づかなかったようだがが、おそ松にはすぐバレた。
あいつはニヤニヤと下衆な笑みを浮かべながら俺に近づいてきた。「見てたでしょ」……その対応は正直言って予想通りだった。松野おそ松というのはこういう男だ。
「…見た。なんなんだあれは」
「何って、セックスだよ」
「そんなのは見ればわかる。何で居間で…あんなの見つけてくれと言ってるようなものじゃないか…いやそうじゃなくて。そうじゃない。何でセックスしてるんだよ。男同士で。兄弟で! 兄弟でだぞ! わかってるのか!? 自分達が何をやっているのか!」
おそ松は俺の怒号に僅かに怯んだ様子を見せたが、すぐに持ち直して鼻の下をこすり――これはおそ松の癖だ――、あっけらかんとして言い放った。
「そんなに変?」
「当たり前だろ!! 何であんな…居間であんな…無理矢理なのか? 無理矢理にしろそうでないにしろ、チョロ松や母さん達になんて…」
眉間を抑えて考える。離縁させるべき大事件だ。あってはならない。きっと皆、めいめいに口を揃えて同じ事を言うに決まっている。兎に角早急にこの二人は引き離すべきだ。こんなの――…。
引き離す? そこで俺は小さな違和感と、クールでナイスガイな俺がすべき行動に気づく。
「…なあおそ松。お前、本気で一松が好きなのか?」
「へ?あー、まあ、好きは好きだけど」
イマイチ要領を得ない風におそ松は答えた。しっかりしてくれ、お前の返答が重要なんだ。俺は愛を愛する男、カラ松。もしおそ松が一松を、一松がおそ松を愛してしまっていて、兄弟であろうと抑えられぬ禁断の恋だと言うのなら、それをただの”近親相姦”で片付けて本当に良いものなのか?俺はそう思ったのだ。おそ松が一松を愛しているとここで宣言してくれたなら、俺は潔く忘れたふりを貫き、二人の愛に立ち入らないよう努めるべきだ――そう考えて。
「お前が一松を本気で好きなら俺は何も言わない」
「…あー。お前はそういうやつだよね」
うんうん、おそ松は困ったように頷いた。頭をぽりぽり掻いて、廊下の窓の外に広がる夕焼けに目をやっている。「でも残念ながら、お前の想像する恋とは、ちょーっと違うかなあ」
「は?」
「利害関係ってやつ? ビジネス。そうビジネス! ビジネスライクってやつだよ。お分かり?」
笑いながら俺の鼻に人差し指を突きつける。何がおかしいのだ、この長男は。
「………ぜんっぜんわからない。めちゃくちゃ噛み砕いて説明してくれ」
「一松はね、俺に愛される事が超絶嬉しいんだけど、傷ついてもいるっていうかさ。ああわざわざ僕なんかに手間かけさせちゃってスミマセン、みたいな?」
「……………わからない」
「だー! なんつうのかなあ。飴と鞭どっちもがほしいらしいんだよ。あいつ寂しがりじゃん?褒めてほしいんだけど、でもそういう自分を罰してほしい…みたいなさ。…なんか難しい言葉使ってるね俺。ガラじゃねー!」
兄はケラケラと笑った。おそ松と一松の関係が飲み込めたかって?単刀直入に言うとマジで全然分からなかった。それを素直に伝えるとおそ松はひとしきり爆笑して――すごく馬鹿にされた気分だったが俺は優しいので何も言わなかった――、それから目尻に浮いた涙をひいひいと拭った。
「まあ、いつかわかるよ、たぶん」
「わかりたくないんだが」
「わかっちゃうんだなこれが。お前が何で気持ち悪いと思っちゃったのか、きっとすぐにハッキリすると思うよ」
おそ松はすっと俺の真横を通り過ぎると、去り際にぽんと頭に手を置いて、そのまま玄関に向かっていった。大方パチンコにでも行くのだろう。今一度記しておくが、これは俺達が高校生の頃の話だ。学生の自分でパチ屋に入り浸る長男はやはりクズだった。(でも俺もパチンコは好きだった。少ない賭け金で大勝ちした時のあの爽快感と言ったら!)
兄の消えた玄関先を見つめながら俺は考えていた。嫌悪感の理由?そんなの近親相姦への嫌悪以外に無いはずだ。いつかわかる日が来るって?冗談じゃない。俺の愛は来るべき日のカラ松ガールの為にあるものであって、その愛というのは女に注がれるべき性愛であって、間違っても兄弟に注がれる性愛ではない。お前らに注ぐのは家族愛という名のそれであって、ベクトルが違うんだ、ベクトルが。
いやでもきっと、「抱いてくれ」と兄弟に懇願されたらば、「ああ喜んで!」と応えてやるのが最もかっこいい男性像だ。オザキなら絶対にそうする。
そうしていると戸口がガラガラと開いて、学生服のチョロ松が入ってきた。おかえり、そう挨拶することを俺はうっかり忘れた。
「あれ、何してんのカラ松。こんなとこに突っ立って」
「いや…愛について考えてた」
「は?」
「チョロ松、ちょっと俺に『抱いて』って言ってみてくれないか」
チョロ松は露骨に顔を歪ませ、汚物を見るような目をしたが、機嫌が良かったのか何なのか、暫しの逡巡の後リクエストに応えてくれた。「……………抱いて、カラ松」
「…………………。…………やっぱ無理だな。普通に可愛い女じゃないといやだ…。くっ、俺もまだまだということか…」
「ネタ振っといてめちゃくちゃ失礼じゃない!? なんなの!?」
バシンと背中を叩かれ、カエルの潰れるような声を漏らしてしまったが、この際そんな小さなミスはどうだって良かった。
五、
ともあれ俺はおそ松の言葉が気にかかって、それ以来二人の仲を、見初められるものではない行いであろうことは承知だが言わせてくれ、観察していた。兄の言葉の真意が理解できるのならやぶさかでもないと思ったのだ。おそ松はクズでどうしようもないし、あの日一松の身体を無理に割っていた可能性も否定できないのだが、しかしながらあの男の言葉には妙な信憑性というか、魔力みたいなものがあった。信じないといけないような気がする、そんな何か。実際あいつに相談を持ちかけたことも一度や二度ではない。悔しいかな、あいつのことは認めざるを得なかったのだ。
観察しているうちに発見したことがあった。
一松は優しい。いやそれは昔から知っていたんだが、そういうことではなく、その優しさのせいで勝手に傷ついて自滅することがある、そしてそういう人間が存在するのだということを俺は初めて知った。優しさって自分が気持ちよくなる為に行うものだろう?だからそれの所為で傷ついてしまうというのが俺には全く理解できなかったのだが、一松を見ていると何となくわかるような気がした。
例を挙げよう。あいつは俺に当たりが強い。周知の事実だ。俺は例え殴られようが軽く流してしまう。優しいからだ。そしてあまつさえ「流せる俺、カッコいい!」なんて思ってしまうのだ。汚いとガールは失望するだろうか?だがこれが松野カラ松という男なのだ。そして俺は今でもこの優しさが間違っているとは思わない。
だが一松は違う。優しさ故に傷ついてしまう。無論、俺を傷つけてしまった自分への怒りだ。どうして優しく出来ないのかという自問。くだらない意地が邪魔をしてしまうことへの自己嫌悪。それが自罰的な感情に変わる。
俺だけに限った話ではない。例えば一松が、十四松がトド松を甘やかしている現場に遭遇したとしよう。
十四松は素直だから、感情表現は得意な方――だと俺は思っている。この一件で俺は兄弟の事をあまり見れていないと自覚した為、確実性はない――だ。好意は明け透けに伝えるし、そういった彼の性格は愛されやすい部類なのだろう。十四松を叱る事が苦手な兄弟はきっと多いはずだ。
一松は、兄弟が好きだ。だから十四松と一緒になってトド松を撫でようとする。しかし出来ないのだ。恥ずかしさ、勿論それも大きな理由の一つだ。だがそれだけではない。
勤勉な観察の結果、俺は一松の瞳に宿る感情に気がついた――讃えてくれ! 彼は俺や十四松を、いや、もっと正確に言おう。人を愛したり優しくしたりといった感情を、何やら神聖なものだと思っている。自分はクズで手が早く、人をすぐ殴りつけて素直に好意さえ伝えられない臆病者なのに、優しくする資格などないと思っている。そして相手を攻撃してしまうのも、ひとえに自分が傷つきたくないからなのだと。
それに気がついた時の、俺のこの気持ちの高揚と言ったら!
なるほど、おそ松、お前の言いたい事が少しだけわかったような気がした。あの高圧的で、されど控えめなさまはいじらしくも愛らしい。そして真っ向から愛してやると萎縮してしまう。褒美を与えられるべき存在ではないと思っている。だからこそ、愛が欲しくて欲しくて仕方ないくせに、受け取ったが最後、これは自分に相応しいのかと不安が生じ、相手や愛や、様々なものに申し訳が無くなって、生きている事を懺悔したくなって、けれどまだ生きて愛されていたいから続けてしまうのだ。
一松は可愛い! そう思った俺はある日、息巻いておそ松に報告した。お前が言いたいのはつまりこういう事だろう。凄い、愛情で人が傷つく事ってあるんだな! あれは、確かに相手をしていて楽しいはずだ!
興奮する俺の顔を見て、おそ松はふはっ、と笑った。「サド」
「俺血とか嫌いだしスパンキング普通に引くぞ」
「そーじゃねーよ! ははは…まあでもわかってくれたようで何よりだよ。なんつうか小動物みたいで可愛いんだよなあ…」
そう、慈母のような笑みを見せるおそ松の膝元では一松が寝息を立てている。あまりにも危うくいとけない姿だ。この狂ったやり取りを、一松の頭上で行っていたというのだから驚きだ。
「怖くないでちゅよー、なんちって」
指を立てて恐竜のようなポーズを取ってみせるおそ松に笑いが止まらなかった。くつくつと穏やかに笑い合いながら、しかし俺はふと思う。
まるで生殺与奪を握っているみたいだ。
「どうした?」
おそ松が不思議そうに覗き込んでくる。
何をバカな事を。実際に命のやり取りをする訳ではないし、ただ俺は純粋に一松を心から愛しいと思っただけだ。弟の新たな魅力に気がついた。喜ぶべき事じゃないか、愛の男カラ松に相応しい幕開けだ。
だというのに俺はまるで自分が何か恐ろしい獣のように思えてならなくなってしまった。気のせいだ。そう笑い飛ばそうと思って、何とか舌を動かす。「――いや、何でもない」
それで終わるべき、だった。おそ松は突然人の領域に踏み込んでくる所がある。自分で言うのもなんだが、俺のように人のこころの柔らかく、踏み入ってはならない領域を理解していないのならまだしも、おそ松はそういったものにはとても聡い人間のはずだ。だというのに、だ。気まぐれなのか何なのか、深い意図でもあるのだろうか。未だに俺は奴をはかりかねている。
「怖くなった?」
おそ松はそう呟いた。俺はゆっくり顔を上げて、おそ松を凝視した。兄は完全に俺を見ておらず、膝で眠る一松の頬を指の背でそうと撫でている。その慈しむような目が今はただ恐ろしい。
どういうことだ。何が言いたいんだ。聞き返すよりも先におそ松が口を開いた。
「こいつくらいしかさせてくんないよ。いや、俺、童貞だからわかんねーけど。もしかしたらそういう女って、他にもごまんといるのかもしんねーけど」
何が。とは最早、聞かなくても分かる事だ。ああなんということだ! 馬鹿で疎くあることの、なんと幸福か!
「…これね。ずっと思ってたんだぁ。お前があの日、俺達を気持ち悪く感じたワケ」
おそ松はす、と目を細める。その目は小さい頃から苦手だった。血と肉と細胞とを全て六等分した魂の兄弟であり、俺が胎内にいた頃から最も傍にいたであろう男…俺の、たったひとつ上の兄が、俺の一番汚いところを暴かんとして牙を剥く。
「…嫉妬しただろ。一松を好きだからとかじゃなくてさ。好きなだけ傷つけて愛してもいい、思い通りになってくれるオモチャを持ってる俺に、さ」
六、
一松はオブジェに寄りかかっていた。リラックスしているわけではない。
「なに、え、なん、…は? カラ、…嘘、何言って、…カラ松??」
声にならない声を上げながら一松は後ずさるが、オブジェを背にして漸く、逃げ場がない事に気がついた様子だった。滑稽だ。この部屋は密室で、扉も開かないのに。逃げ場なんてあるはずがないのに。
「聞いてくれ。一松」
「な、意味わかんな、何それ? 知ってた? 知ってたって何? 嫉妬って何? 思い通りって、何、全然わかんない、マジでお前、頭沸いたんじゃねえの、ぜんぜん、わかんな、」
「一松。俺は」
静かにしゃがみ込み目線を合わせる。一松は慌ててきょろきょろと忙しなく部屋を見回して何かを探しているようだ。それが、根拠はないものの、平素の癖で抱きしめる為の猫か何かでも探しているのだろうか? なんて思えてしまったものだから、笑みを堪えるのが一苦労だった。ここで笑んでしまっては、台無しだ。
「お前を恋愛感情で好きなわけではないんだ。多分おそ松もそうだろう。それはお前も知ってるはずだ。ビジネスライクだったそうじゃないか」
おそ松は気配を消したかのように一言も発さないが、俺の斜め後ろに佇んでいるのであろうことは窺い知れた。そしてニヤニヤと笑っているであろうことも。
「勿論! 兄弟として愛してる。大切な弟だ。お前のことを守りたい。そう思うよ。それは真実なんだ一松、信じてくれ」
演劇部に入ったのはもしかすれば仇だったかもしれない。大仰に手を広げて見せると、芝居がかった態度にか、より一層一松の不信の色が強まった気がする。ガール達にも宣言しておくが、この気持ちは太陽が爆発して地球が消滅したって変わらない、真実なのだ。
俺は口を止めてはいけないと思って、続けた。
「俺は…お前とおそ松のセックスを見たあの日から考え続けた。それで、わかったんだ。お前のことも…自分のことも。守りたい…あらゆることから。ただ…ただ、そうする俺がカッコいいから、そうするんだ。そう思っている事も確かに本当、なんだよ。それでな一松。愛してもらいたい、んだろう。寂しいんだろう? 分かってる。いや、理解は出来ないんだ。何故なら俺には俺という偉大な存在が傍にいるから、寂しくなんかないんだ。ただお前はそういう子なんだと分かっている。………、なぜ、俺がおそ松に嫉妬したのか…」
全て吐き出してしまえ。何もかもぶちまけてしまえと悪魔が囁く。そして――俺は本能的に悟ってしまっている。
一松は、最終的には全部受け入れる。
無条件で自らを愛してくれるのならばなんだっていいのだ。この臆病が、高慢が、俺とおそ松を、許すに違いない。
「俺は多分…優しくない男だ。だが優しくありたいと思っているし…その志は…尊いはずだと我ながら思っている。お前は…お前は…こんな、ナルシズムにまみれた、自尊心の塊の俺を…お前だけはありのまま、許す……はずだ。そうに決まってる。俺ならお前に、最高に優しくしてやれるし、いくらでもお前の望む言葉を吐くし、お前の………」
言葉を選ぶのは苦手だった。
俺は、素直な男だ。恐らくはこの俺の素直さが、人を傷つけてきた事が一回や二回ではなく在って、そしてその被害者に一松は何度か選ばれていたのだろう。それがどうして一松を傷つけるのかわからなかった。
けれど今ならわかるのだ。俺は一人で愛情を満たしてしまえるから。俺には俺がいるが、一松にはいないから。お前が必死で作った自己防衛という名の殻が、俺にはまるで通じないから。俺はその殻をも必要としないから。
――しかし、俺はお前が憧れる程、自己完結できる男ではないんだ。
「…………奴隷…になるよ。お前を何からでも守ってやる。お前をか弱いものとして扱ってやる。成長しなくてもいい。だから…」
抑えろ、抑えろと念じているのに。演劇部が聞いて呆れる、俺は――ガール達よ、頼む、頼む。こんな俺でも愛してくれ。…いいや、言い換えよう。この俺は、”素晴らしいので愛されるはずだ”――笑ってしまった。
「俺だけに縋れ」
一松がひゅっと息を呑んだのが合図だった。
俺は素早く一松の肩を掴み、押し倒した。鈍い音がして、一松が後頭部を打ちつけた音だったと理解した頃には俺は既に一松のパーカーを剥ぎ取っていて、音になど構っていられなかった。愛する弟はイヤだ、やめろ、と叫んでいる。半ば絶叫だった。
日に当たっていない白くて薄い肌は、血の気が通っていないみたいだった。家に、兄弟に守られ通した証のようで興奮した。抑えていなければすぐに隙を見て逃げ出してしまいそうな一松の腕をそのままパーカーで拘束する。空調が効いているのだろう、温かい部屋のはずなのに、弟の歯はガチガチと噛み鳴らされていて、ああ、と思う。すぐに、よくしてあげなければ。
七、
一松の声がこんなにも甘い事を俺は知らなかった。新たな発見だ。
乳首を摘むと跳ね、そっと臀部を撫で回すと期待に震える。そんな声がもっと聞きたくて、俺は意味もなく一松の名前を呼んだ。
「一松、いちまつ」
「ぁ、んっ、も…からま…ぁあ…!」
あんなに怯えて冷え切っていたからだは、長い時間をかけて施した愛撫によってどこもかしこもしっとりと手に吸いつき、温かく柔らかい。おそ松はこんなにも良いものを独占していたのかと思うと、視界が真っ赤になるような興奮と怒りに支配された。こんな気持ちは初めてだった。
当のおそ松は俺と一松のまぐわいを、相変わらずうつぶせに寝転がった状態で楽しんでいて――楽しんでいるのかどうかも分からない。何故ならおそ松は完全に無表情だったからだ――、参加する気があるのかどうか、何を考えているのか、…どうして俺達をあそこまで炊きつけて狂わせたのか。俺にはもうわからない。
ただただ一松の柔らかくくねる肢体を味わう。臍の上を舐めると、それにさえ一松の体は震えた。ああ、俺を甘受する弟!
「いちまつ、なあっ、いちまつ、俺な、俺が一番好きなのは、俺なんだ…」
細く、しかししっかりと脂肪の乗った脇腹を、筋張って細く白い首筋を、冷たいが汗の滲んだ腿の内側を。撫でて舐めて、段々と性器へ向けて進めていく俺の愛撫に、聞いているのかいないのか、一松は背筋を仰け反らせて喘いでいる。その表情は恍惚として、呆然と天井を見上げている。
「なあ、俺を見てくれいちまつ、寂しいだろう」
「ぅぁあ、はぁあぁ…っもちい…ふぁあ…」
「頼む、いちまつ、俺の、おれだけのおもちゃになってくれ、おれはお前を許すし、お前はおれを許してくれる、そうだろう、いちまつ」
快楽を追うのに必死になって視線を彷徨わせ、俺の話を聞いていない様に意固地になって、一松の性器を鷲づかむ。すると「ひいっ」と甲高い声で一松が啼いた。そのまま強く扱く。
「出る、で、いやっ、でちゃ、からぁ、あぁあぁっ、からま、からまつ…」
「俺を見ろ、この、わがままな俺を見て、愛してくれいちまつ、いちまつっ!」
一瞬だけ、一松の目の焦点が合って、俺を結ぶ。俺は満足して一松を攻め立てた。亀頭に親指を添えて爪で軽く抉ってやる。そうすると面白いくらい一松はヨガって、両手で俺の手を引き剥がそうとしてきたが、その白くて骨っぽい手は明らかに俺の手を股間に向けて押さえつけようと動いているのだ。かわいくて、淫乱で、笑いが止まらなかった。
大きく弓なりにしなって一松は吐精した。胸と腰を突きだして、天を見上げて舌を突き出す様はたまらなくいやらしい。びくびくと震えた後、ゆっくりと弛緩し、やがてはあ、と熱い息を吐いて、上から俺の胸にしな垂れかかってくる。表しきれないほどの多幸感に胸が満ち満ちた。恋をしたことがなかったので知らなかった。愛とはこれほどまでに素晴らしいものなのか。決して軽くはない一松の重みが心地よかった。
「なあ一松、俺まだイッてないんだが」
俺が笑うと(相当緩くていやらしい笑顔だったと思う)、一松は二、三度瞬きした。
「………カラ松は、俺のこと、下品なクズだって思わなかったの」
俺は少し考えて答えた。「本当に怖がりなんだなあって、思ったな」
「俺、お化けとか以外で怖いものってあまりないから、なんていうか、面白かった」
「面白かった…」
「…わがままなのは、いいことじゃないか」
そう言って、胸の上でうつぶせになっている一松の頭を撫でる。ふわふわとした髪の感触が心地よかった。一松は目を閉じて静かに撫でられている。満足そうにその頬が紅潮していて、素直にかわいいと思った。
「……僕のわがままって、そんなかわいいわがままじゃないよ…」
「かわいいものさ。褒めてやればいいんだろう?」
「ぅん…」
俺の手に頬を摺り寄せて一松は微笑んだ。温かく、全てに身を委ねたような笑みだったのに、何故だろう。どこか諦観めいていて、切ない感情を覚えてしまうのは。小さく、本当に小さく、一松が何か呟いた気がするが、聞き取ることはできなかった。
聞き返そうとするより先に、一松は俺の首筋に軽くキスをして、それから呟いた。「イカせてあげる」
上体を起こして馬乗りになり、そっと尻たぶを割り開く。俺のところからはその様子がしっかり視認できないのが悔しい。しかし、焦ることはない。これから何度だって出来るのだから。そうした確信が俺にはあった。
「んっ…」
腹に手を添え、いきりたった俺の剛直に秘所を合わせた一松は、かすかに唸ると、首を傾けて笑った。
「ねえ、確認なんだけどさ、あんた俺のこと好きじゃないんだよね」
「…かわいいし、欲しいし、守りたいとは思っているけどな」
否定もしないかわりに肯定もしなかった。
俺の言葉の真意を察したのであろう。一松は刹那、目を見開いた後に、そう、と瞼を伏せた。あまりに美しく悲しい、微笑を浮かべて。
「一松」
「いい。分かってる。十分。…十分」
俺もあんたのこと、利用し続けるから。
下品な水音を立てて、菊座が陰茎を飲み込んでいく。歓喜したように一松の頬がさらに赤くなる。白い肌だから、より赤く見えた。――おそ松は、相変わらず無表情だ。
はじめてセックスを経験する俺の陰茎は、狭く温かいそこに打ち震えて熱い。どくどくと脈打つそれを、はあっ、と全身で感じながら一松は腰を浮かせ、ぎりぎりまで引き抜いて、落とす。
「はあぁ…っ!」
「うっ…! 一松、いちまつ、っ、これ、すご、」
「んん…! ぼくもぉ、すごい、すご…からまつ、おっきいっ…」
興奮からか背徳からか、俺の肉棒が一松の中でさらに大きくなる。俺は一瞬だけ、気遣わなければと思う。けれど腹の中が隙間無く満ちれば満ちるほど、一松は寂しさと汚さを忘れたように甘く淫らな、幸せそうな笑みを浮かべて悦ぶのだ。ならば――虚飾の理由が何処に在る。
俺は、目を溶かして喘ぐ一松の腰を、耐え切れなくなって力強く掴む。そのまま激しく打ちつけると、何度も何度も一松は啼いた。
「あっ、あぁ、や、むり、激しいっ、から、からまつ…っ、あぁぁ!ゆっくり…ぁんっ、くぁっ!」
「いちまつ、はっ、いちまつ! す………すきだっ、好き…愛してるぞ、いちまつ…!」
「うぁ、から…うそ、うそつき…あんっ、ああぁあっ、うそ…ばか、ば、しね、くそ………すきぃ…」
汗で滑る手のひらをどちらからともなく捕まえて、握りこむ。まるで愛の確認のようなそれの温度は空々しい。けれども俺達には、この空々しさこそが唯一、自分の足を地につけるもののように思えてやまなかった。
獣同士のような、全てを、恥も外聞も大事なものも、何もかもかなぐり捨てたセックスは心の底から気持ちが良く、俺達は示し合わせたように同時に果て、また唇を重ねた。恋人のように。――けれど俺も一松も、相手を愛してはいないのだ。過ぎる逡巡、けれどすぐに振り払ってしまう。その倫理の正しさなどもう、なんだっていい。どうだって良かった。
何故なら一松は俺を受け入れた。汚く浅ましく、淫らで賎しい俺を――一松はその腹に受け入れて、聖母のように微笑むのだから。
八、
「…もう、いいや」
一松が騎乗位でカラ松を銜える前に発した言葉だ。おそ松は、疲れきって眠る二人に腹ばいになって肘で近づいた後、その表情を覗いてくくくと笑みを漏らす。
「かわいいなあ。一松は勿論だけど、カラ松も」
頬杖をついてその寝顔を堪能した後、ごろんと床を転がって仰向けになった後、腹筋を利用して起き上がる。鼻歌を歌いながら、太陽系オブジェの裏側に回りこんだ。
おそ松が目をつけたのはEarthと刻印された出っ張り部分だった。一松が「固定されていて動かない」と言った部位だ。そこをぐいとねじ回すと、オブジェの上部から新たな半球が出現した。
「頑張りが足りないんだよねえ、一松は」
おそ松は半球を見上げて笑った。Sun、そう記されている。
ま、頑張りきれないからこそ一松なんだけどね。頑張られても困るし。
オブジェをぐるっと見て回って、一松が言っていたヒントのプレートを探した。確か水星だったっけな。記憶を頼りに、ようやくN、E、などと書かれたアルファベットのプレートを発見した。
方角を合わせる。太陽の方向を地球から見て北の方角に見立て、惑星を動かす。するとちゃりん、と軽い金属の音がした。足元を見れば、床に小さな金の鍵が落ちている。ともすれば見失ってしまいそうなくらい、小さな小さな鍵だった。
拾い上げて、口笛を吹きながらEarthの球体をねじ回す。太陽は、跡形も無くオブジェの中に飲み込まれて消えていく。それを見上げておそ松は呟いた。
「太陽はいらねーんだよなあ」
床で抱きしめあって眠る、愛する二人の兄弟を見下ろす。一寸も変わらない、俺と同じ血の流れるクローンだ。それを十二分に確認できただけでも、とてつもない収穫だった。次は俺も一松抱きてーなー、きもちいいし、俺もそろそろ寂しいし、などと思いつつ。
ふと考える。水星って実際何色なんだろう。水って青のイメージあるけどな。そういえば地球ってめっちゃ青いなあ。それからカラ松の無造作に放り出されたパーカーを見て、かわいそー、と思った。鍵はここにあったのに。
とろりと目の濁ったカラ松を思い出す。一松はもう既に旅立っていて、疲れ果てたカラ松も眠りの世界に足を踏み入れている段階であることは誰が見ても明らかだった。
大丈夫、俺が片してあげるからもう寝ちゃいなよー、と笑うおそ松に、最後の力を振り絞ってカラ松はこう尋ねたのだ。
「なあ、おそ松……お前の秘密、まだ、聞いてな………」
答えるつもりは毛頭なかった。秘密を共有する必要なんて無いからだ。けれど、強いて言えば、俺の秘密と言えば。
「この部屋出る意味ももう無いしね」
口を開けて、小さな鍵をその中に放り込んた。