舷窓

 切符を渡すと、それを受け取った係員は二人を見て顔を僅かにしかめたが、口を開く事はなかった。改札鋏に切符を挟み、端の欠けた切符を返す。淀みない動作だ。
 なのに一連の動作の終着が、憎々しげに切符を突き出すさまに思われたのは、恐らく自分達の状況と、それに伴う気の持ちようからくるものだろう。本当は顔をしかめてすらいないのかもしれない。そうタミヤは思った。ニコの手を握る手に力が入るが、ニコは何も言わなかった。

 蛍光町の最寄り駅は、蛍光中学区からはとんと離れた場所に位置している。
 タミヤは錆びた銀の自転車のリアキャリアにニコを乗せ、ペダルを漕いだ。ニコは尻が痛いと文句を言ったが、二人乗りは初めてだとはしゃいでもいた。それはタミヤの心中にまでかかっていた光化学スモッグを晴らすような声調で、タミヤは自然、泣きたくなった。
 夜も更けた刻、町中を闊歩する者はおらず、時折仕事疲れにくたびれた足を休める壮年の禿げ上がった男を見かけるのみであった。夜を選んだのは正解だったらしい。じきに最終列車がやってくるはずだ。それまでに駅に着かなくてはと、タミヤの足は急いた。転がっていた小石に自転車が傾ぐ度、ニコの、タミヤの腹に回していた腕が力み、タミヤは苦しいと言って笑った。

 そうして二人は夜の駅へとやってきたのだ。
 改札を潜れば、年期の入った襤褸い車両が既に口を開けていて、タミヤとニコは駆け足で乗り込んだ。間に合ったな、と弾む息を交えながらタミヤが言うと、ニコは危なかったと相好を崩したが、その視線は駅のホームへと投じられていた。この列車が発車してしまえば、もうこの町には戻らないであろうことを予期していた。
 最低限の着替えと金、食料を詰め込んだ鞄を抱えるニコの立ち姿は毅然とした軍人を思わせるような出で立ちだったが、反面肩を押せば崩れてしまいそうなほどあえかだ。
 タミヤは再度、いいのか、と念を押した。ニコは首を振って、いいも何も、ここにはもう何もないんだから、と言った。こいつにはもう俺だけだ、と、殆ど確信した。

 タミヤとニコは、幸か不幸か、偶然か奇跡か、光クラブの崩壊を免れてたった二人生き残った。
 ニコは、傾倒していたゼラという存在(あるいはもう、生きるための標ですらあったのかもしれない)を喪い、取り返しの付かぬ深傷を負ってしまったようだった。
 タミヤもまた、幼い頃よりの親友であったダフ、カネダを亡くし、哀哭に喉を枯らした。
 一頻り悲嘆に暮れ、顔を上げた先に待っていたのは、最早全うに生きられぬだろう現実だった。一斉に中学生が不帰の客となった、その中心にタミヤとニコが居る。それだけで世間は二人を囃すだろうに、この平和な世にあって人殺しに加担したと知れればもう平穏など何処にもない。
 ニコは、死んでもいいと覇気なく呟いたが、タミヤは活力のある少年であった。永らえた命を無下にするなと叱咤すれば、ではこんな絶望的な状況の中で尚生きるとお前は言うのか?と死人のように濁った目を以て批難した。
 タミヤは、振り払う気力も残らぬらしいニコの腕をとらえると、こう言った。

「結果的に死ぬのなら止めない。それがニコの意思であるのなら。でも少しだけ踏みとどまって、考えないか。一緒に。蛍光町を、少しだけ離れて。」

 ニコは、一晩丸々沈思黙考して、明け方応えた。連れていってくれ、と。

 タミヤはあの時、蛍光町を少しだけ離れてと言ったが、恐らくもう戻ることはないのだろうとニコは感じていた。
 恐らく自分達が産み落とされたあの地を棺桶にすることは、叶わぬ。それは、この逃避行を実行に移してしまった時点で、自分らが殺人罪から逃れようともがく匪賊であることが避けようもない事実になってしまったから、というのは大きな要因であるが、それよりも比を占める理由がニコにはあった。
 ニコはタミヤに合意したあの朝の時点で、既に自決の覚悟を決めていたのだった。この世に自らの安寧は無いだろうことをニコは悟っていた。だのにタミヤに連れ立ったのは、長らく放擲していた記憶があったからだった。

 タミヤとは元々、良い関係を築いていた友人であった。ニコはタミヤに対してのみ本心の内をさらけ出すことができたし、タミヤもそんなニコをよく案じた。光クラブに身を置いたそもそもの切欠は、そう、他でもないタミヤであった。
 ニコは哀惜と、誰に向けてよいかもわからぬ憎悪と、粛然との中にその昔時を見た。皮肉だった。凡てが終わりかける刹那に蘇る、タミヤと過ごした「はじまり」。ニコが欲した救いだのに、ニコ自身の手で破壊したはじまり。

 タミヤ、とニコは笑んだ。生きてくれと言われて、嬉しかったよ。ニコにしては珍しい、飾りっ気のない感謝の言葉だった。
 タミヤはほっとした面持ちになって、当たり前だろ、お前は価値のあるやつなんだ。そう簡単に死んじゃダメだ、と頭を掻いた。タミヤは何も変わっちゃいない。変わったのは恐らく自分で、韻末は自分に帰するのだとニコはその時思い知らされた。頭を鈍器で撲られた心地だった。
 …昔のように、キャッチボールなどできたらいい、と車窓に溢すニコの頭部を見下ろして、タミヤは、そんなのこれからいくらでも…と笑った。その言葉に、ニコは無性に慟哭したい感情に支配されて、路頭に迷った子供のような気分でタミヤの腕にすがって泣いた。タミヤは突然のニコの行動に狼狽し、それから忖度して肩を抱きながら辺りをそろりと見回した。田舎を抜ける夜の列車には、気味の悪いほど人気がなく、ニコの啜り泣く声が列車の揺れに混じって消えた。

 ニコは、あと一週間だけ、と決めていた。一週間タミヤと生きて、それから決めようと。
 タミヤのことが知りたいと思った。今日この日までにあった様々を思い返した時、タミヤの心に残る感情は何なのか。ゼラにかけていた忠誠心を、未だに、この荷物に詰めてきてしまっていた自身を生かすその訳を。その果てにあるのが死なら、それは自分の運命だったのだ。タミヤでなくゼラを選んだ末の破滅も、そうなのだ。

 だから。
 タミヤの肩の向こうで、車窓が切り取った景色がぐんぐん流れていく。
 ニコは既に決意していた。自らの死を以て光クラブは終結すると。殆ど使命感のようだった。最後の一週間、タミヤに心を砕いて終ることのなんと幸福か。
 走馬灯のように車窓の緑が映っては消えた。
 ニコを生かす為に買った切符を手に握ったままだったタミヤは、ポケットにそれを突っ込んだきり押し黙っている。ニコの肩に置かれたままの手は生きる活力に燃えて熱かった。
 タミヤは知らない。ニコの胸に、決意が宿ってしまうのを、取り除けない。

 しゃがれた車掌の声がスピーカーから流れた。ご乗車、ありがとうございます―――――――――