だとしても最悪

「でさ、父さんは――」
 言いかけた三村の上機嫌な顔は、蜃気楼のように一瞬で消え去った。残ったのは砂漠の冬よりもひどい渋顔だけだ。
「最悪だ」
 俺がなにか差し込むよりも早く、地を這うような低い呻き声を三村は漏らし、それきり何も言わなくなった。
 なにもしていないんだが、俺は。
「……い、今、何か言ったか?」
 慮って優しい嘘をついてみたが、あまりに下手で我ながら笑えてしまった。しかもどもった。この瞬間、全てが悪手になってしまった。
 案の定三村はその顰め面を険しくした。まるで俺がおおごとでも犯したような顔つきだ。重ねるが俺はなにもしていない、どころかここまで来れば被害者だ。
 不満のオーラを全開に背を向けてしまった三村の後頭部に、俺はついに溜息を隠そうとはしなかった。俺相手じゃなけりゃ、ここまで不機嫌をあらわにしないんだろうな。それを心を許している証拠だと前向きに受け止めるべきなんだろうが、やっぱり若干面倒臭かった。そんなこと考えずに気遣ってやらねばならないのか。いや、いったんは配慮してやったぞ、俺は。三村が相手だと妙に雑になる俺の心もまた、こいつにある程度開かれているのかもしれない。——はたしてそうか? 疑念に満ちた斟酌を事実として確定できないのは、どう考えても目の前の男からふるわれた、これまでの横暴と失礼の数々のせいだ。
 というか、いいじゃないか、別に。友人を親と呼び間違えることぐらい。
 俺も何度かある。学校の教師には何度か。道場の師範にも一度あった。
 けど振り返れば、友人を呼び違えたことはなかったかもしれない。
 なんとなくむかっ腹の察しはつく。ちゃんと事情を聞いたことはないけれど、おおかた三村は、実の父がとにかく嫌いでしかたがないのだ。
 彼の口から飛び出る家族の話題といえば叔父と妹のことばかりで、両親はとんと挙がらない。彼の語り草に言いづらいバックボーンを窺っていたのだが、そこそこ続いた友人づきあいの中で、どうやら存命しているらしいこと、生活もともにしているらしいこと、しかしながらそれらしい思い出が数えるほどもないらしいことを推知することができた。総合すると、純粋にうまくいっていないようなのだ。
 いまの彼の態度で、その推論をひとつ確証のステップに進めることができた(できてしまったというべきか)。それが変に申し訳なくなって、なんで俺が、自分で自分に突っ込んだ。
 ご機嫌取りするのもおかしな話だし、いっそこのまま気が向くまで放っておこうか。そう思ったとき、予想外にも三村の少し丸まった背中がぼそりと言葉を口にした。
「悪いな」大きく重い、嘆息交じりの謝罪だった。「まさかあいつの存在が意識の中にあっただなんて自分でも驚いちまってさ、ついな」相当ないいぐさだ。
「……いや、いいんだ」俺は戸惑いながらも返した。それから「可愛げがあったぜ」とぎこちなく笑い飛ばしたが、これもちょっと悪手だったかもしれない。正直全然可愛くはなかった、怖かった。
 三村は顔だけで振り向いてかすかな苦笑を浮かべた。俺が犯罪をしでかしたような顔はしていなかったので、取り急ぎ胸を撫でおろす。
 それから三村は首を戻し、己の耳たぶを揉んだ。それがしきりにピアスを探っているしぐさなのだと気づいて、俺は少し慎重になった。父親の話は聞いたことがないけれど、叔父の話ならかなりの覚えがあった。
「……叔父さんの方が、仲が良かったんだよな」俺は遠慮がちに訊いてみた。
「まあね。けど、親父も立派なやつだぜ?」三村は冗談っぽさを含ませながら答えた。「血がつながってるからって同じく善い人間だなんてかぎらないってことを、身を持って教えてくれたからな。感謝してるよ」わざとらしい笑いを滲ませた呼気を、苛立ちと一緒に静かに吐き出すのがわかったので、その答えを追及することはもうしなかった。なにを訊き出しても丸く収められる気がしなかったし、知らないうちに地雷を踏んでしまいかねないとも思えた。
「そうか」ごくつまらない相槌しか打てなかった。
 三村がようやく身ごとこちらを向いた。俺は背筋を正した。「しかしさあ」シリアスな空気をとりあえずなんとかするような、闊達をずさんに纏った笑み。まれに見る。だがそれも、まあまあ形になっている。
「杉村って、老けてるってよく言われない?」
「……なんの話だ。いや、まあ、……たまに、あるが…」
 顔のことか?
 転換した話題に疑念を向けると、三村はいい加減だった表情を幾分完璧に近づけて、
「ひょっとするとお前って父親っぽいのかもってハナシだよ」
 と言った。
 ……嫌味か文句を言われているのだろうか? もしくは“可愛げ”の方向で話をまとめようとしているのか。
 俺が考えているすきに取り乱したはずの相貌は今度こそ完全無欠になった。なにもかもなかったことのように「それで、なんだったっけ、そうそう」途切れていた世間話を再開したので、俺も乗っかった。そうするべきだと自明の理が光っていた。それで一連のことはすべて流れていってしまったが、ちらりとだけ、
 ――俺のことを、ほかの誰かと間違えることもあるのか? たとえば、そのピアスの――
 そんな無益な質問が胸をかすめた。
 勿論口にはしなかった。おこがましいことこの上ないし、それこそ、冒涜だって鼻で笑われそうだ。