フェイタルエラー

 三村が珍しく部屋の整理をしたいと言った。杉村は内心で顔をすがめたが、ひとまず任せてみることにした。三村の断捨離には常々怯えていたからだ。彼はこうと決めると捨てすぎる。
 大学生の頃、一度叱ったことがある。家に遊びに行くと、部屋がすっからかんになっていたのだ。あったはずのもの、本、気に入っていたと述べていた服もすべて。残っていたのは小ぶりな箱と最低限の私物だけで、流石になにがあったのかと問うと、「単に整頓しただけだ」と平然と返された。三村との付き合いのなかで肝を冷やしたことは多々あったが、あの瞬間はかなりの上位に来るイベントだったと、杉村は回想する。
「お前、どうせ人間関係もそうやって清算するくせがあるんだろう」
「それの何が悪いわけ?」
「…………」
 そのあと具体的にどのような叱責を浴びせたかは覚えていないが、目が点になった三村の、広げた白目の面積だけは妙に記憶の中に残っている。
 だめだこいつ。俺が見ててやらないと。
 同棲をはじめてからもそれは変わらなかった。本当に何が悪いのかわかっていないようだったし、注意して治るものでもなさそうだったので、断捨離は流れるように杉村の担当になった。
 だけど久方ぶりに「部屋がごちゃついてきたな」と三村が文句を呟いた。ならば——。
 杉村は、段ボールにガラクタをしまい込む三村の背中を何度も覗くという、きわめて物理的な対処によって、起こりうる事態を防いだ。「なに? 心配しなくても、お前のものは勝手に捨てねえよ」三村がとてつもなく怠そうに不満をぼやいた。違う、そこではなく。
 それを繰り返して小一時間経ったとき、杉村の心の臓には忘れかけていた冷気が吹き付けることとなった。
 床にあぐらを掻いた三村が、俯いたまま動きを止めている。その膝の上に開かれているのは——アルバムだ。城岩中学の、十年ほど前の——卒業アルバム!
「三村!」
 杉村は部屋の中に駆け込んだ。三村の両肩をがっちり掴み、必死に説得を試みる。
「ダメだ。捨てるな、それは。捨てていいものと悪いものってもんがあることくらい、わかるだろ。というか、そこまでなのか。お前、そこまでひどいのか? さしものお前でも、そればっかりは理解してると思ってたぞ、俺は――」
 杉村の焦燥が徐々に悲哀さえも帯びていくのを、三村はぽかんと見入っていた。そして、
「はあ?」
 傾げた首を突き出してまで呆れ果てた。「何言ってんの? 捨てねえよ」「え?」
「いや、アルバム出てきたから、懐かしくて眺めてただけだけど」
「…………」
「まさか俺がこういう大事なもんまで捨てると思って監視してたの?」
「……いや、その、……忘れてくれ」
「はあ~」
 三村はすこぶる心外といったようすで嘆息を吐き出した。そして、かつての杉村の一度きりの叱責を覆い隠すほどの勢いで、容赦ない不平を重ねはじめた。
「おい、失礼すぎんだろ」
「すまない。その、……だって」
「だってじゃねーよ。俺だってそれくらいわかってるっつうの!」
「前科が」
「犯罪者みてーに言うなよ、ヒトを!」
「しかし」
「妙に覗いてくるなと思ったら、そういうわけか。ははあ。弘樹くんにとって俺って、そんなに信用ならないやつだったってわけだ」
「違う」
「確かに俺も俺のこと、信用できないやつだなって思うよ? 思うけどさ? もう十年も一緒にいるわけじゃん?」
「信じてないわけじゃない」
「あ~、そうなんだ。やっぱりそうだったんだ。悲しいな。俺のことずっと疑ってたんだ。疑いながらそばに居続けてたってわけだ。あー、じゃあ今までのことって、意味なかったんだ。俺が今まで取り戻そうと頑張ってた信頼って、全部意味なかったんだ」
 一向に止まる気配がない雪崩のような難詰を、杉村は数ある中でも最悪の手段で黙らせた。
「お前のせいだろ!!」
 逆切れだ。
 杉村はすぐ自戒したが、心配をよそに三村はニタニタといやらしく口角を上げ続けるだけだった。この日も結局食わされてしまったというわけだ。
「なあ、お前のにも寄せ書きたくさん書いてあったぜ」
 無視して立ち上がろうとしたが、三村は杉村の服の裾を引っ張り引き止めた。
「うるさい」
「慕われてたんだなあ、お前も。琴弾のもあるぜ」
「知らん」
「そりゃないぜ。好きだったんだろ?」
「今は違う」
「じゃあ今は誰が好きなの?」
 杉村はよけい苛ついた。言外の意味を示すために裾の手を振り払い腰を落とすと、三村はふふっと笑んだ。一番やめてほしいのは、そういうしぐさだ。
「あ、でも、お前は見なくていい、これ」
「は? なんだよそれ」
「イタいこと書いてあったから」
「……お前が?」
「そう、俺が」
 三村はページを閉じ、そのままアルバムを棚にしまおうとした。その腕をむんずと掴み引き寄せる。口ではさっぱりだが、力比べなら負けたことはない。
 わざとらしい悲鳴を上げる三村の手からそれを引ったくるように奪った。乱暴に捲る。
 余白のたっぷり取られた寄せ書き用の項目には、色とりどりのメッセージが書き連ねられている。杉村の胸にも生やさしい旧懐が去来して、吹き付けた冷気を静かに癒した。名前すらあやふやな元クラスメイトの様々な名前と痕跡が、ここには残っている。
 杉村は深爪気味の指で、記述をざっくりとなぞりながら追った。確かに琴弾のものもあった(水色のペンだった)。そしてその右のページ、わりあい目立つ真ん中のスペースに、大きめの筆致で三村からの下手な言伝が書き記されている。
『俺は普通の人生なんて歩まねえ。元気でな!』
「……」
 当時の杉村への意趣返しだったのだろう。にしても、そう杉村は思い、隣の三村に物言いたげな目線を送った。三村はわめいた。長年の勘だが、本気で恥ずかしがっているように見えた。
「仕方ねえだろ! 中学三年生だぜ?」
「確かに、少しイタいな」
 杉村の口端に嘲笑めいたものが乗ったため、三村は腕を組んで胴体ごとそっぽを向いた。
「悪かったな。イタいガキで」
「悪いなんて言ってない」
「どうせ、今の俺はつまんねえ大人になったとでも思ってんだろ」
 三村が会話のなかに、軽妙で巧みに包んだコンプレックスを交えてくることは、杉村にとってはほどほどに慣れたものだ。特に今はその達者な皮の一枚もない。杉村はアルバムに目線を落としてさらに手繰った。ちょうど金閣寺の前でおどけたポーズを取る三村と瀬戸の写真が載っており、自然、唇に浮かんだものが安穏に変わる。
「つまらないのか。今のお前は」
 と問うと、それが適当なあしらいに映ったのか、
「……さあ? 昔の俺に反してる、とは思うけどね」
 三村の声色が微妙な由々しさを孕んだように、杉村には聞こえた。それで杉村は顔を上げた。立てた片膝に肘を乗せた三村が頬をついている。深刻な不機嫌は決してうかがえないが、ややいじけているか。それか単純に、コンプレックスの表層でもかすめたか。
 これでも改善したはずだが、そうそう人は変わらない。この寄せ書きを残した十五の三村もまだおそらく、その包みのどこかに息づいている。
 杉村はとらわれがちな三村を呼び寄せるようにして、こう放った。
「……お前がそれを“まとも”だと思うなら、そうなんだろうな」
「……?」
 三村は首を杉村に向けた。
「“流されて生きたくない”って意味だったんじゃないのか。お前が豪語してたのは」
 杉村が補完すると、三村は目を丸くした。それが、数年前の唖然とした表情と、奇妙にも重なって見えた。だが今回はそこに頓珍漢とは真反対の、つまり図星と、ある種の安堵が兆している。それを杉村は、しっかりと確認した。
「俺には、お前が流されて生きたことはないように見えるけどな。今でも」
 こうやって三村の卑屈を払拭してやるのも、お手のものだった。杉村は己の実直さに自負があったので(それはそうだ、二十五年も欠かさず誠実をやってきたのだから)、自分のせりふに少々手ごたえを感じた、正直なところ。
 しかし三村は予想に反して眉根をしかめ、
「………………全然信じてないくせに。俺のこと」
「ち、違う、それとこれとは別だ」
 杉村はふたたび焦った。やばい、こいつ、思ったより気にしている。見誤った、あれこそ“軽妙のオブラート”だったか。
「よく言えるよなあ、そんなこと。ほんとに思ってんのかね?」
「だから、それはお前が悪い、なんでもすぐ捨てるから」
 これもまずった。さらに逸る。
「捨てねえって! 言ったろ?」
「それこそ本当に思ってるのかって、俺は言いたい」
 しかしつい追及してしまう。年中無休の誠実では押しとどめられない程度の――治した方がいい、絶対――これは心配ではなく“余計なおせっかい”かもしれないと、杉村は断続的に内省した。
「思ってるってば。少なくとも、」
 三村のレスポンスにも、とうとう小さな、しかし本物のダメージが滲み始めた。それが原因か、三村はうっかり、言わなくてもいいことをその唇から滑らせた。
「お前との思い出まで捨てようだなんて――」
「…………」
「いや」
 ――だからショックだったのか。
 杉村がじんわりと感動に浸り入る前で、三村は加速度的に雄弁になった。そんなことまで口にしないと分からないくらい弘樹くんはばかだったんですねえ、知らなかったな。やっぱりお前の目から見えてる俺って、ぜんぜん正しい姿じゃないんじゃねえの? それをさも真実のように語れるだなんて、羨ましいかぎりだな。次の恋人はそこも査定対象にしなきゃな。俺もかなりの節穴だったみたいだ。あー傑作。――照れ隠しにしては言いすぎじゃないか、こいつ。
 杉村は半分羽交い絞めの意図も乗せて三村を抱きしめてみた。三村は明らかに恥じらいを走らせながら杉村の名前を叫んだ。杉村はそれを遮り、
「前に、断捨離しすぎるお前を叱ったことがあったろ」
「あったっけ、そんなこと」
「あの時も俺とかかわりのある品はちゃんと取っておいていたってことか?」
「……さあ」
「覚えているだろ」
「ちっとも」
「今もあるのか?」
「……さあ」
 それしか言えないロボットか、おまえ。