杉村はおおむね真面目と称される部類の学生だ。
宿題や掃除で適度に手を抜く程度の柔軟性はあれど、仮病で学校を休んだことは一度もない。小学五年の時分には皆勤賞でささやかな品を受け取ったこともある。どこでも買える安物のシャーペンだ。側面に学校名がプリントされていてダサい。三六五日の勤勉にはあまりにも釣り合わない対価だが、今でもなんとなくこのシャーペンは使い続けている。物持ちも良い。
特に理由はない。サボる理由がないから出席する、それだけだった。
勤勉に反する学業の伸びしろには首を捻らざるを得ないが、とにかく。
いまの杉村の全身を覆っているのは奇妙な緊張感だった。
試合やテスト、人生の様々な岐路上で相対するものとは本質的に違う感覚だ。後ろからずっとついてくる戸惑い。足底に固い床材の感触は受けなかった。前を往く三村の背中は対して軽やかこの上なく、いかに彼がサボり慣れているのかを雄弁に示している。
「それで、どこに行く?」
三村が囁いてから笑った。小馬鹿にするような表情は、別段杉村の真面目を嘲笑っているのではない。
すぐそばの教室から、平坦な教師の声が流れ続けていた。甚大な眠気のオーラが扉から漏れ出ている。隣の教室ではひっきりなしに生徒のざわめきが蠢いており、盛り上がっている授業もあるのだなと杉村は察した。
どこまでも続くかに思われる廊下は静寂に満ちている。杉村と三村、どちらの足音ともとれないゴム製の音が、時折響いた。
異世界に来たようだ。まるで。
「どこに行けばいい」
杉村は訊いた。三村は「なら当てどもなく」と答え、二人は足の赴くままに歩いた。
突き当りを往き、階段を上がる。踊り場で身ごとターンする三村はなんだか舞っているようだった。杉村はあたかも重鎮のごとく追った。
三階の渡り廊下の先には特別教室が固まっている。三村が「どこか空いてねえかな」と楽しげに見渡した。杉村はちょうど体のそばにあった扉の覗き窓をうかがう。すりガラスの向こう側に人の気配はなく、「空いてるようだ」と伝えた。音楽室だった。
「いいな」
三村が音をひそめて慎重に扉を引くと、伽藍洞な空間の中央に大きなグランドピアノが取り残されており、肖像画の注目を一心に集めていた。隅っこには、引けをとらない存在感を放つ太鼓らしきものが四つ置かれている。杉村も三村も、これがティンパニと呼ばれることを知らなかった。
三村は室内に飛び込むと、「俺、ピアノ弾いたことない」艶を放つ黒い屋根を撫でた。丁寧な清掃では取り除けなかった細かな塵埃が、空中に踊った。それが正午前の光の中に透けていくのを眺めながら、杉村は「大きい音を出すとまずいんじゃないか」と忠告した。
「ちょっとくらい大丈夫だって」
三村は鍵盤蓋を持ち上げた。白黒の八十八鍵が収まっている。
戯れに三村は、真ん中の白い鍵盤を、同色の人差し指でそっと叩いた。調律された美しい音が鳴った。静謐な音楽室には、今、それしかなかった。
杉村は警戒を以て周囲を見回した。ベートーヴェンやモーツァルトだけが二人を責めているのにほっとして、ピアノを叩く三村に首を戻した。
弾いているとは呼び難かった。「“猫踏んじゃった”ってどうやって弾くの?」「知るかよ」三村はわずかのあいだ練習にふけったが、音が一向に曲の形を成さないことに飽きたのか、すぐ放りだした。
「杉村も弾く?」
俺はいい。杉村は頭を左右に振った。誰かが来そうで怖かった。
三村は承知して、鍵盤蓋を用心深く下ろした。蝶番が低く軋んだ。
ふたりは音楽室を出て、次に理科室に向かった。
ここもたまたま使用されていなかった。変わった形の長机が整然と並んでいる。黒板も上下に分かれたスライド式のものだ。横壁に並置された棚の中で瓶がぎっしりと列を作っているのさえ見えて、杉村は再度、盗人のように息を吐いた。
「運がいい」
三村は机の間を早歩きで泳いでいった。その先に顕微鏡がひとつだけ待っていた。しまい忘れたのだろうか。三村は木製の箱椅子を引きそこに腰かけると、ちょいちょいと杉村を手招きした。
杉村が近づくさなか、三村の上体が顕微鏡に向かってちぢこもるのが見えた。「なにこれ」三村が弾んだ声を上げて「お前も覗け」顕微鏡を差し出すので、杉村も隣に腰かけた。
片目を閉じてレンズを覗き込むと、太くて透明な輪郭の、長細い六角形が大量に見えた。それら中央に淡い核のようなものも確認できる。「なんだったか」杉村は述べた。「一年の頃、こういうのを学んだような気がする」
「よく覚えてるな、お前」三村は足を組み、頬杖をついた。「俺、生物全然興味ない」
「俺もないが」杉村は頭を持ち上げ、レンズから三村へと目を移しながら「勉強したからたまたま覚えてた」
三村はふうんと興味があるのかないのかわかりかねる相槌を打った。
「でもお前、理科の成績、よかったっけ?」
「……よくはない」
「ははは」
三村の顔面に気安い嘲笑が乗った。お前もたいして良くないだろ、と杉村は思った。同時に、やればできるだろうに、と押しつけがましい親切をも抱いた。三村のよくできた頭なら、どの教科も本来、さしたる難易度ではないだろう。全教科満点なんてことも決して絵空事ではないのではないか。
買いかぶりすぎか。
「次はどこに行く?」
三村が言った。
「お前、少しは落ち着きってもんを覚えろよ」
杉村が唇を尖らせると、三村はだって、と壁時計に視線を投げた。杉村はその眼球の動きだけで、三村の言いたいことを悟った。
仕方ないな。そう言って杉村が肩の力を抜くと、三村は口端を大きく上に吊り上げてから立ち上がった。
家庭科室と美術室は残念ながら埋まっていた。家庭科室を通りすぎるとき、香ばしく甘い匂いが鼻の下を漂った。中からはかしましい複数人の声がした。杉村は学生服から伸びた自分の手の甲に、焼きたてのカップケーキの温度を含んだ空気が触れるような感覚がした。だが錯覚だ。実際にそこに横たわっているのは、冷たい清閑な、限りない無風だった。
それを振り切り、杉村は腕と足を交互に動かして歩いた。手の甲に感じる空気が多少の躍動を孕んだ。
三村はどんどん先へ進んだ。同じく歩いているだけなのに、ずっと跳躍しているような軽快さがあった。そのまま飛んでいってしまっても驚かないかもしれない。杉村は彼を、よく晴れた窓ガラスにかすかに反射する、自分の姿と比較した。なじんでいる。それが飾り気のない感想だった。
三村はさらに上に向かう階段に足を掛け、杉村も続いた。この先には屋上があって、まれに開放されている。杉村も何度かそこで昼休みを過ごしたことがあった。
その三村のステップが、止まった。
漏れた低い母音。杉村が「どうした?」と肩越しに覗き込むと、三村の白い両手の中に、固い南京錠が組み合わさっているのが見えた。
「鍵かかってる」
心底落胆した低さだった。杉村は顎をわずかに上げ、目の前の金属扉を見つめた。ぼろぼろで所々錆びた年季のある扉だ。いくつか蹴りつければあるいは壊せてしまいそうではある。当然、しないが。
「ならここまでだな」肩口に声をかけると、三村はつまらなそうに振り向いた。杉村の首元あたりで不満げな目元が揺れている。失策、無念、阻害。そんなところだろうか。採光窓の先に広がる無限の青色がなお、扉のメタリックグレーを沈んで見せていた。
「戻るか?」
杉村は問いかけた。三村は首が重みを増したように徐々に俯くと、たった一言、まだ、と呟いて、その場に座り込んでしまった。
階段に腰かける三村の畳まれた膝がちっぽけだったので、杉村はすぐ横に、ならって座った。肩先が自然と触れた。三村は小さく、だが強くそれをいっそう押し付けると、杉村のしっかりとした肩にこめかみを擦りつけて、最後には預けた。
「こういうのは、屋上で締めるのがセオリーなのにな」
「そういうもんか」
「そういうもんなの」
杉村は、肩を抱いたり、手を握ったり、そういうことはしなかった。ただじっと止まり木として沈黙していたが、一度首を伸ばして背後の隔壁を目に留めると、
「俺はよかったけどな」
と、かすかに抱いていた安堵をささめいた。
三村は頭をもたれたまま「なんで?」とぼやいた。視界の端にちらつく明るい短髪は鳥のものに似ていて、そこに扉の暗い影が落ちていた。
杉村はそれらしいでたらめを返した。
「サボるのも悪くないと思った」
肩に感じる三村の頭の重みは、満足そうに揺らいだ。「そう」
ふたりはそのまま、チャイムの音が異世界を裂くまで、そこでじっとしていた。杉村の身には現実めいた勤勉が降り戻りつつあった。三村もおそらくそうだった。
「じゃあまたする?」
三村がふっと乾いた微笑みを含むのがわかった。杉村はややあってから応えた。
「お前が言うなら」
杉村は、コンクリートに縫い留められている三村のスニーカーを見た。そして身体が真面目の形に戻る直前に、こっそり希求した。
ひょっとすると彼には怒られるかもしれない。だけど次の世界にも、果ては、あるべきだ。