乾ききった死の風が潤むことは永劫にない。見渡す限り瓦礫にうずもれた街が再生するビジョンもまた、シミュレーションを繰り返したとて導き出せなかった。ぱらぱらと転がる人間の死体を見つける方が、自分たち以外の生存者を求めるよりよっぽど簡単だ。この現実よりも破滅的な光景は、この先の歴史(歴史自体がここで終わったとも言えるが)において、きっとない。
あとは上がるだけだ。なんてな。
三村は再度シミュレーションしてみた。そして導き直した。一万年くらい経ったらあるかもな。希望的観測。
むしろ救いようのない絶望であることは、言うまでもない。口に乗せるか検討して、今しがたの試算ごとなかったことにした。そしてふらふらと歩く七原の背に瞼を細めた。
目も当てられないとはこんな状態のことを指すに違いない。目覚める前までの覇気は完璧に失われてしまっていた。喪われた、かな。三村は頭の中で漢字を引き直した。
特別国語に強かった友人も、もう死んだと思われる。国語なんて伸びやかなことばが過去のものと化して百年以上経つこの世界で、読書という無意味な行いにふける変わった友人だった(そもそも国というくくりさえ近年で曖昧になったけれど)。傭兵としての腕は抜群で、うまく生きながらえていたが、ひときわ大仰な名前のついた戦いに招集されてからは、便りもなく一向に帰ってこなかった。つまりそういうことだ。
それに、生きてたって困るだろう。引きずるように歩き続ける七原の頭上には茫洋と空がぶちまけられていた。見たこともない色をしている。灰色とも赤ともピンクともつかない、奇妙なグラデーションだ。あらゆる生物の中身を改めても、こんな色にはならない。
鼻はとうにイカれた。ガスマスク要らず。
三村はちらっと自分の手首を見た。この時代を生きる者にしては綺麗な肌だ、そう自負している。貴重な頭脳の三村は軍事技術者として大層重宝されていた。それで死の機会を幾度となく潜り抜けてきた。ありがたい話だ。ありがたい話だろうか? 本来、影も見せないお偉方以外の人命は、消耗品のはずだ。
振り返っても、背後に広がるのは演算以上の崩落だけだった。遠くに脱ぎ捨ててきたマスクなど見る影もない。だから皮膚の内から毒斑が染み出してくるのも、時間の問題だ。
飲み薬程度でどこまで持つかな。果たして。
服用したのも数時間前だ。大戦が激化するのに合わせて科学(“ばけがく”も含む、大昔の用語だ)は飛躍的に発展したが、三村はそのちからを根本から疑っている。だってそれしきの躍進などではこの顛末は避けられなかったのだ。そのために今目の前の惨憺たる悲壮がある。いや、だからこそか。三村は鼻で笑った。
七原はざくざくと足を動かし続けている。機械的に。
機械でないのに、なぜ生きているのだろうと、三村は思った。
幸運としか言いようがない。不運かもしれない。これも二通りの解釈が考えられた。文学に明るければよかった。友人の、頁を手繰る傷だらけの指が、浮かんで消えた。指は一本欠けていた。文学なんて重ねてなんの意味もないけれど。三村の毎日は、才覚を見出されてからずっと研究だった。指もすべて生えそろっている。
己の成果がどこかで同じ光景を生み出した可能性については、思考として上がるたび、捨てた。それもしかたがないことだ、今更考えたって。全ての罪は今この瞬間平等になった。災いは終わった。第一から第七まで! どでかいラッパで!
ところで眼前のもうひとりの友人は、何でも屋だった。改造車両で物資を運んだり、負傷者の手当に駆けずり回ったり、せこせこやっていた。川田というやたら器用な大男ととりわけ仲良くしていたので、サバイバル能力一点でいえば相当に長けているはずだ(ちなみに川田も死んだ)。いつか盤面ごとひっくり返る日が来ると、本心から口にしていた。
彼にも趣味があって、それは音楽だった。ラジオ中継が止まってからというもの、時間を見つけては避難シェルターの中でギターをかき鳴らしていた。たいしてうまくはなかったが、セロトニンとオキシトシンの分泌には確実に役立っていた。だけど演奏に必要な左腕にも今はざっくり傷跡が刻まれていて、それはストレスフルなオーディエンスによる「贅沢するな」という轟轟の非難所以のものだった。なので七原の左腕には強いしびれが残っている。それでもかまわず歌っていた。
七原の歩みはしびれが全身に回ったようだった。どんな怨嗟や憎悪や八つ当たりより、この絶望は重いらしい。さしもの彼でも背負いきれないのかと三村は思った。失敬な。
煤と塵の嵐が太陽の光を覆っていた。螺旋を描く芥の嵐だけが、この先の星で唯一蠢き続けることを許された怪物だ。これはとんでもなく寒くなるな、三村の脳は弾き出した。どうせ死ぬのだが。
実は、細々と命脈を保つだけなら、いくつか方法があった。ブレークスルーは、命を屠るだけでなく、繋ぐ方法ももたらしていたので。
三村は小一時間ぶりに七原に声をかけた。「七原」
七原は幽鬼のごとく見返った。涙さえ枯れ果てた目尻がくっきりと赤く染まっていた。染まっていたという表現は生やさしい。顔貌はたった数刻で十歳くらい老け込んでいた。てこでも動かなかった大望は、吹けば飛ぶほど小さくなっていた。
「どうする?」三村は訊いた。「戻るか。それとも——」
噤んだ言葉の先に、優しい選択肢を置いた。優しい選択肢。三村の枝道に、幾度となく立ちはだかってきたものだ。もはや親友と言ってもいい。ついには永遠の伴侶になりうる、それ。
七原は両の瞼をゆっくりと開き、瞠った。喉ぼとけが動くのが見えた。
七原は数十秒たっぷり動かなかった。三村は、自分が悪魔にでもなったかのように感じた。違う、俺は現実的な提案をしているんだ。ずっと現実的な対応をしてきた。織り重ねてきた選別。切り捨ててきた様々。へたすると戦果は、この国の中でも上々だ。三村の影法師を真に悪魔たらしめている蓋然性はすでに、無視できないほどの高さに、積もっていた。
——なあ。もういいんじゃないか、俺たち。
選択する権利を奪われることを願っていた。だけどその時はついぞ訪れないまま、ここまで来てしまった。
与えられた権利を死の時まで遂行し続けること。せめてそれだけが、己の美徳を保つ不二の手段だと、ただひたむきに信じ——そして——折れていた。もう三村の心は、完全に。
美徳。そんなものはない。ひょっとするとはじめから、なかった。俺はまやかしの存在を信じていたのだ。ここではそうしてしか生きられなかった。もう、無理だ。
悪魔はいざなうように、七原の小さな瞳孔をじっとりと見つめた。
言え。今ここで。たった一言、そうだなと微笑むだけでいい。
七原の魂を、完膚なきまでに折ろうとしている自分の存在に、三村は気が付いた。これまで健気に道行を照らしてくれた、大切な友人だ。星のようなやつだ。いつかこの時が訪れるなら、その時まだ己が権利を行使できる形をしているなら、隣には彼がいるといいと、冗談めかして語らったことまである。
(こんな顔、見たくなんかなかった)
(ぜんぶ無意味だ。終わった星で誰も聴いちゃいないラッパを奏でるのか、お前は?)
三村と悪魔が重なる。視界に認めた七原の立ち姿が二重三重にぶれた。
七原は、ゆっくりと俯いた。荒れた癖毛がバラバラに揺らぎ、肩まわりの筋肉がこわばった。
俯くのと同じくらいの速度で顔を上げたとき、その表情を知覚して、三村は全身から力が抜けていくのを感じた。
——ああ。
琥珀の瞳、意志の強そうな眉。真っ青な顔立ちの中央の、よるべない闇にすら灯る、
「……それだけはダメだよ、三村」
――これが絶望か。
三村の喉から、ひりついて掠れた乾き笑いが漏れた。