嵌めて

「杉村はピアス、興味ねーの?」
「ない。何でわざわざ好き好んで、体に穴を——」
 肩を回して振り向くと、後ろで三村が悪質な笑みを浮かべていた。
 俺は一瞬怯んだ。左耳の上で瞬く銀色の煌めきが、どれだけやつにとって重さを伴うものか知っていたからだ。とはいえ粗雑に扱っても三村の笑顔のたちはそうそう変わらない。単に俺が、他人の痛みに軟弱だというだけなのだろう。深みに嵌りたくないのだ。
「お前ももうちょっと身繕いってやつを覚えたら? せっかく素材はいいんだからさ」
 三村はするりと体を寄せると、どこか嫣然とした指の動きで俺の顎の付け根をなぞった。俺はそれを軽くはたき「必要ない」と言い吐いた。
 三村はさらに唇の形を歪め、「もしかしてビビってる?」と嗤った。
「まさか」
「なら開けられるよな?」
「お前にしては安い挑発だな」
 それには乗らないぞと目線に含んで睨む。「何をさせたいんだ。俺に」
 俺の拒絶それそのものは想定内だったらしい。三村はふん、と鼻を鳴らすと、「させたいってわけじゃない」と両肩を尖らせた。
「その予定があるなら、俺にやらせてくれない? って言いたかっただけだよ」
「お前が?」
 冗談じゃない。三村に体の一部を預けるなど、何が起きるか分かったもんじゃない。
 渋面で抵抗する俺に、三村はさらににじり寄った。
「人間には、どうあがいても鍛えられない部位がいくつかあるだろ?」
「そうだな」
「そのうちのひとつが、ここ」
 三村の白い指が俺の耳をなお這おうとしたので、すっと避けた。「何度も言うが、俺にはその予定はない」
「つれねえなあ」
 三村はくっくっと喉を鳴らすと、上体を引き「それなら」と目を細めた。「杉村が俺に開けてよ。ピアス」
 俺はかすかに瞠り、三村の右耳朶を見つめた。傷ひとつないなだらかな織物のようで、反対の耳にある細く重厚な光とは一線を画している。
「なんでそうなる」
 わけがわからず唸った。すると三村はもう一度唱えた。
「人間には、どうあがいても鍛えられない部位がある。いちばんやわらかい部位だ。そこに、目的をもって傷をつけるということの意味は、お前にもわかるだろ」
 三村は言いながら、左手の人差し指と中指で、わざとらしく細身のピアスを挟んだ。白くたわやかで小さな肉にぽつんと開いた空洞、そこを貫く金属。俺は視覚を、瞼を閉めて追いやった。
「なあ、やらせてくれないんならせめて頼むよ。ここ、お前のためだけにわざわざ取っておいたんだぜ?」
「嘘つけ」
「本当」
 三村の声がかすかに揺れた。俺は仕方なく瞼を持ち上げて三村を見た。こいつは笑みを扱う天才と言って差し支えなく、意地悪めいたものも、今描いている遠慮がちな微笑みも、自由自在だ。
 嘯くときには本音を一滴加えるものだと、目の前の嘘つきはよく得意げに語る。
 どこかおそれの滲む控えめな笑顔を、俺が百パーセントの妄言だと切り捨てられないことを、知っていて。
「お前は」
「ん?」
「……ずるいな」
 俺が降参すると、三村はにんまりと口角を上げた。「お前が俺に甘いんだ」言い返せない。
「それじゃあ、早速頼むわ。手洗ってきてくれる?」
「……わかった」
 俺は渋々了承して洗面台で手を洗った。三村の家の洗面台はいつもぴかぴかで曇りない。俺の家の水回りより整理されていて広い。それに倣って、入念に爪の間まで洗う。これから他人の体に穴を開けるのだから当然だ。鏡の中の自分に目を移すと、学校や自宅の鏡よりも、冷たい顔貌に見えた。
 部屋に戻ると、三村は安全ピンをライターで炙っていた。
「そんなものでやるのか」
 訊くと三村は「ピアッサー無かったし。それに、痛い方がいいかなって」と独特の希望を展開した。俺は鼻の下を思いきり歪めながら三村のそばに腰を下ろした。
「この消しゴムは何だ」
「後ろに当てて使うんだ。ちゃんと貫通するように差し込んで…」
 三村は安全ピンを渡すと、右耳を差し出してそっと目を伏せた。俺はこわばる指で耳朶に触れる。……やわらかい。
 息を詰める俺を三村は「緊張してんの」と小さな声でせせら笑った。
「するに決まってるだろ。こんなことするの初めてなんだ」言い返すと、三村の唇からは満足げな吐息が漏れた。
「ゆっくりやってくれる?」
「……よけい痛いだろ」
「だから頼んでんだよ」
 俺は詰めようとした。お前、変だよ。だけど俺の膝に添えられた三村の拳が固まっているのに気づいたら、もう何も言えなかった。
 俺は消しゴムを耳たぶの後ろに、ピン先をその前に当てがった。掛け声の代わりにふっと息を吐いた。そしてゆっくり、針を押し込んでいった。
 プチリと音がする。小さな血の玉ができて、三村の喉が鳴った。俺は躊躇いつつ、さらにピンを押し込んだ。
「ん、…う」三村の眉頭が寄せられる。固く閉じられた睫毛の先が震えるのが見えて、俺の思考はなんだか、妙な方向にとらわれそうになった。
 ピン先が消しゴムに食い込んで止まる。最奥部まで至ったのだとわかった俺は、安堵とともにそれを引き抜いた。
 三村はぱっと目を見開き、耳たぶを指の関節部分でなぞった。そこに穴が開いているのを確認して、
「サンキュ」
 と言った。飾り気のない笑顔で。
「これも頼んでいい?」
 続けざまに渡されたのはステンレス製のピアスや消毒液だった。まだ解放されないのか。俺は嘆息しながらもふたたび三村の右耳朶に向き合った。なめらかな部分に小さな穴が開いているのを目にすると、胸がざわつく。
 三村は相変わらず目を閉じて俺にすべてを委ねている。
「左耳のときは、自分で開けたんだ」
 唐突に始まった昔話に、俺も耳を傾ける。
「叔父さん、ホント唐突に亡くなってさ。勝手に形見分けして、家に持って帰って自分で開けた。痛かったし、しかも膿んじゃってさ。最低だったよ」
 俺は血の滲んだ穴の周りをさっと拭き取った。ファーストピアスを嵌めて、また軽く消毒する。三村の耳朶はそのたびほのかな弾力を返し、とてつもなく繊細な作業をしている気分に襲われた。
「……俺の親切心を、上書きに使ったのか、お前」
「人が悪いな。上書きなんかじゃないさ。だって」
 三村の睫毛が上に持ち上がる。逸らせない眼力が、その下にあった。
「言っただろ。俺はわざわざここを、お前のためだけに取っておいていたんだぜ」
 俺の左指はまだ三村の耳朶のところで引っかかっていた。嘲弄じみた唇はごく近く、鼻先も触れるようだ。
「なあ。いつか貸せよな。お前のも」
 意思表示はすべて、すぐに押し付けられた薄くてやわらかい唇の感触に呑まれて、なくなった。