三村は手にした絵筆を乱暴にパレットに撫でつけた。一切計算のない動きで絵の具を混ぜると、案の定、近所の溝川のような色味になった。それを水彩紙に運ぼうとしたところで、杉村が「おい」と低声を上げた。
「正気かよ」
「なんだよ? ハンサムに仕上げてくれって注文するキャラだったか? おまえ」
「そうじゃないけど」
杉村は、授業中にしては賑やかな美術室を見渡してから、そばの江藤の穏やかな筆致に目を留めた。美的とまではいかないが、優しいタッチで描かれた南の似顔絵だ。水を多めに含んだ薄く明るい色合い、女子学生らしい和やかな画風。
彼女の正面に座る南は、ほとんど作業の手を止めてアイドル論を展開し続けている。江藤の微笑みは苦々しいが、それでも南とは、彼女特有の心象風景に違和感なく溶け込める存在なのだろう。
江藤らしいイラストだった。少なくとも、今から数十分先の未来の三村には、とうてい生み出せそうにない。
「お前の中の俺って、そういう……」
そう漏らす杉村があまりにうら寂しげに見えたので、三村は下品な哄笑を立てた。「あくびが出るほど退屈な授業に笑いをどうも」
杉村は、自身も机の水彩紙に向き合いつつも、不安げに三村の筆の軌跡を追った。
なんの迷いもなく描き出されていく杉村の似顔絵は、見事な美的感覚と繊細なバランスの上に抽出された賜物かというと全くもってそうではなく、むしろ稚児の落書きと大差なかった。荒々しいと言えば聞こえは良いが、率直に表すと雑極まりない。骨格は崩壊しており、彩りを放棄した画面は必要以上に黒々としていた。
「絵の具って扱いづらいんだよ」
三村は言い逃れでもって杉村の恨めしげな目つきに答えた。
だとしてもひどい。そもそも友人の顔を丁寧に描いてやろうという気概そのものが欠けている。失礼だと思う。書道なら多少は評価されたかもしれなかったが、思えば三村は漢字も苦手だった。
「そんなに酷い出来かな」
三村は薄ら笑いを浮かべながら杉村に振った。杉村は「酷いよ」と眉根を寄せた。「俺はそんな顔してないし、色使いがちょっと、独創的すぎる」
「ありがとう」
「貶してるんだ、これでも」
すると三村は、濡れた筆先を杉村の鼻に突きつけながら「まったくわかってない」と片頬を上げた。
「こんなに熱烈なラブレターって、ないぜ」
「意味がわからない」
杉村はますます顔を歪めた。ああ、お得意のやつが始まった、と思った。
「じゃあ質問」
三村は筆を置くと、箱の中に収められた絵の具のチューブに指を伸ばしながら訊いた。「おまえ、何色が好き?」
杉村は口を開いた。そこで「黒以外で」と叩きつけられたので、もう一度思案して、「……緑とか、紫とか?」と伝えた。あまり考えたことがなかった。
三村は了解したように頷き、ビリジアンとバイオレットのチューブをパレットに絞った。美術室の蛍光灯を受けて艶めいており、まだ鮮やかだ。そして「俺は青とか、あと黄色が好き」と、さらに追加で二色絞った。
杉村が不思議そうに見ていると、三村は筆を手に取り、粗雑にすべてかき混ぜ始めた。当然のごとく、溝川が再生産された。
彼のパレットに広がっているのは、汚泥のように澱んだ、筆舌に尽くし難い色だけだ。杉村には画材が泣いているようにさえ見えた。
「ここで問題です」
三村は茶色に濁った筆洗に絵筆を通してから、ニヤリと笑んだ。
「同化欲求って知ってる?」
杉村は、わけがわからず三村の目頭を見つめ返した。いつにも増して意味不明だった。三村の真意だけでなく、単語の意味すらもだ。
唖然としながらも、ひとまず待った。期待しすぎない程度に、お粗末な教師が講釈を垂れてくれるのを待った。
しかし三村は答えなかった。水気を含んだ筆でくすんだ粘質な泥水をたっぷり掬うと、あろうことか先鋭的な杉村の似顔絵の上に、躊躇なく塗りたくり始めた。
答えが得られないことは予想の範疇内だったが、その行動は理解の斜め上を突っ切っていた。
「……何してるんだ、お前」
思わず正気を疑った。今度は本当に。
三村は杉村のイラストを鈍いカーキで塗りつぶした代物を、得意げに机に立てて見せつけた。
「だから、これが俺のラブレターだってば」
「………」
杉村は困惑しながら水彩画だったものに目を落とした。
そうしているうちにも、子供の落書きのような輪郭線がどんどん滲んでいく。紙は水分と絵の具を吸いすぎて凸凹に歪んでいた。ここにかつて人物画が描かれていたと特定することは、もう誰にもできないだろう。そして本日の三村の授業の評定も、自動的に決定した。
本当にわからなかった。ひょっとしたら、これが真の芸術というやつなのか。いや、違う。
「……絵心がないことの言い訳がしたいだけだろ?」
「はは」
バレた?
そう述べる三村の笑顔は、今日一番に空々しく、乾いていた。
「杉村はどうなんだよ」
触れられたので、杉村は自作の三村の似顔絵を、躊躇いながらも丁重に差し出した。自信は三割といったところだった。
三村はその紙の角を、骨ばった指で手に取って、「正直な感想とお世辞、どっちがいい?」
「……じゃあ、正直な感想で」
その乾いた笑みに水が差した。
「よく描けてる」