仕事から帰ってくると、俺たちにはまるで似つかわしくないものがローテーブルに飾られていた。
満開の薔薇だ。それも何本も。大輪の花をつけたそれが華奢な花瓶に生けてある。どれもビロードのような質感で、大きくて、花弁が中央に向かってみっしりと密集するさまは育種家の惜しみない労力を思わせる。細身な花瓶は少々アンバランスだが、これくらいしかなかったのだろう。日頃俺たちが家に花を生けることなどまずないのだ。
色は様々だった。赤が一番多く、ついで薄いピンク。オレンジや紫、白いものもあった。カラフルで、余計に存在感を生んでいる。ごちゃついた地味で質朴な部屋が、そこだけラグジュアリーホテルのように、そぐわない華やかさを増していた。
リビングでは七原がソファに腰掛けてギターの調律をしていた。薔薇のことを問うと、ミュージックビデオの撮影で使ったものが余ったので、スタッフで分けたのだということだった。なるほどね。
七原がミュージシャンとしてメジャーデビューを飾ってから少し経った。成果は鳴かず飛ばずといった様子だったが、インディーズの頃よりも資金を注ぎ込めるようになって、だいぶ生き生きしていた。それにレコード会社の後ろ盾があるという事実は、何よりも彼にモチベーションを与えていたようだ。俺の収入が生活基盤の大半を支えているのが現状だけれど、七原が楽しそうにしているから、まあ当分はこのままでいいか、と思っていた。我ながら、七原には甘い。
MVが公開されるまで数ヶ月は要するらしい。一番に三村に見てほしいと七原は語った。
俺は何気なく花瓶に目を留めた。咲き乱れた花たちがこぢんまりとした食卓の上で俺たちに微笑をよこしている。
「何本くらいあるんだ?あれ」
「数えてないけど、十本くらいはあるんじゃないかな」
試しにカウントしてみると、正確には十一本だった。まあまあな花束である、スレンダーな花瓶には荷が重いわけだ。窮屈そうに思われて、なんとはなしに一本、そこから特別赤いものを抜き取った。七原の鼻先に差し出すと、鼻腔をくすぐる香りに彼は目を丸くする。
「お前はやっぱり赤かな」
花言葉なんて高尚なものは知らないけれど、色によって種類があると耳にしたことはある。バーテンダーだった叔父さんが確か言っていた。叔父さんの経営するバーにはこんな美しい花がたいてい飾られていた。彼が亡くなってからだいぶ経つが、いまだにこうして心に彼との思い出を兆すほどに、その存在は大きかった。
七原は花を受け取って眺めると、撮影中に教えてもらったといって、覚えたての知識を披露した。
「“情熱”。確かにピッタリだ」
「俺は何色?」
「三村は気障ったらしいから、これなんかいいんじゃないか」
そう言って白いものを同じように、鼻先に差し出される。それは褒めているのだろうか。
「これは“純潔”」
「純潔?」
およそ己とはかけ離れている形容に、俺は思わず鸚鵡で返す。七原はもう一つあるんだ、と一度手で俺を制して続けた。
「私はあなたにふさわしい」
「…それは、お前から俺へのメッセージ?」
「いや、三村から俺への」
こいつ。うぬぼれていやがる。俺はクッションをひとつ手に取って、それで軽くぶってやった。七原は笑いながら享受した。
「十一本の薔薇にも意味があるんだ」
「ほう」
食らったクッションを自分の腰の横にしまいこみながら七原は花瓶に目を落とした。今は二本抜かれて、九本になっている。
「十一本だと、最愛」
「一本抜くと?」
「“あなたは完璧”となる」
俺はまずためしに一本薔薇を抜いた自分の行動を振り返り、顔に血が集まるのをごまかすように少し顔をしかめた。それを知っていたらやらなかった。確かに俺は、七原には特別甘い。欠点だって可愛く思っているけれど。
「もう一本抜くと?」
「いつまでも一緒にいて欲しい」
いけしゃあしゃあと言い放つ七原。どっちが気障なんだ。
「恥ずかしいやつ…」
「けど好きだろ?」
こいつのこういうところはすごいなあと思う。愛されることへの躊躇というか、臆面がない。それなりの挫折や蹉跌も踏んでいるだろうに、それを感じさせない。こいつを愛することへの不安感も、ない。だから自然と七原のところには愛が集まるのだろう。結局のところ、どんなに器用にやったって、大勢が求めるのは「裏表のない真実」ってやつで、その点においていえば七原という男は、言わずもがな、“完璧”だ。そう思う。
七原は、俺に差し出した白い薔薇を取り上げると、かわりに先ほど受け取ったばかりの赤い薔薇を再び俺の手に握らせた。
「やるよ」
日頃の礼ってわけじゃないけど。七原ははにかんで席を立った。夕食を用意してくれていたらしい。キッチンに歩いていく足音のあと、バタン、ガリガリと、電子レンジの操作音が続けざまに向こうから聞こえた。
俺は広くなったソファに転がると、手元に残った一本の赤い薔薇に見入った。
恥ずかしいやつ。もう一度唱えた。