楽園

「こんなもんでいいか?」
 学生ズボンを脛まで捲った七原が、ざぶざぶと沖から戻ってくる。指さしているのは簡易的な罠だった。石や枝を組んで作った小さな囲いの上には、島で手に入れたネットがかかっている。その端を石で固定し、網の中央部分を少し浮かせておく。下部に石を入れることで、魚が中に入った時に重さで網が引っ張られて逃げられないようになるという仕組みだ。これは三村の発案だった。
「いいんじゃないか」即席にしてはよくできた罠を三村は満足げに眺める。「あとは魚がかかれば、ひとまず今夜のメシには困らないな」
「けど、三村、料理できるのか?」
 不安げに問う七原に三村は苦笑を返した。
「…まあ、料理なんてもんは多分、そんなに難しくない。きっとレシピ本だって探せば見つかるだろう」
 七原はますます渋面を濃くした。
「魚って捌くの難しいんだろ?」七原は歩き出す三村の背に訊ねたが、三村は何も答えなかった。

 初夏。学生たちがプール開きを心待ちにする季節だ。
 特別気温が上がったある五月の土曜日、七原たちは少し早めの海開きと称して集まった。午前中は学校だったが、昼の掃除のあと、成り行きで午後に海へ行くことになったのだ。
 その日の海は爽やかな陽気で、雲ひとつない快晴だった。風だけが多少強く、作り物のように真っ青な空の下、潮風が濃紺の水面に細かな波をいくつも刻んでいた。
 みなその光景にわっと沸いて、外履きをいい加減に脱ぎ捨てると、ズボンの裾を捲って駆けだした。瀬戸や国信はまっさきに海に入り、服が濡れるのもいとわず沖に向かっていく。脛が水を切るたび、新しい波しぶきが渦巻いた。
「おい、危ないぞ!」
 諫める三村の声も清々しい海風に上ずっている。七原は何がおかしいのか、けらけらと笑いながらそれに続いた。三村の腕を取る。
「俺たちも行こうぜ」
「まったく」
 三村の口元にも笑みが浮いていた。ふたり水沫を上げながら沖に向かう。
 その時、強い突風が急に吹き込んだかと思うとふたりの体を揺らした。思わず反射的にまぶたを閉じる。開いた瞬間には、とんでもない大きさの巨波がふたりを飲み込もうと迫っていた。大口を開けたその巨躯に、七原も三村も、あっという間に飲まれた。
 身動きを取ることもできないまま流されていくからだ。視界が暗転する直前、慌てた様子の国信たちの叫び声が耳に入った。

 気が付くとふたりして、波打ち際に倒れていた。
 海の上、垂直の位置にあったはずの太陽は少し傾いていた。周囲には誰もおらず、近くには見覚えのない大きな灯台がそびえたっている。それで自分たちが、今までいた海岸とは違う場所に流されてきたのだと悟った。

「こんな漫画みたいなこと、あるんだな」
 七原が砂の上に濡れた足を晒したままぼやいた。漫画にすら規制がかかる窮屈な国だが、その愚痴を諫める者は少なくとも今ここにはいない。
「どう考えてもおかしかったろ、あの波は」乾きかけの足を手繰り寄せて膝に顎を乗せ、七原は嘆息する。「急に現れるし、俺と三村だけが巻き込まれるなんて、なんだか都合のいい悪夢でも見てるみたいだ」
「言えてる」三村は肩をすくめて同意した。「実際、悪夢なのかもしれない。あの時にもう海水を飲んで、俺達は死んでいたりして」
軽く笑い飛ばしてみせる三村に七原は眉をしかめる。「やめろよ」
「ははは」
 晒した裸足を砂面にすりあわせると足裏にさらさらとした細かな砂の感触が伝わった。信じられない出来事の連続だったが、それらを一様に夢と片付けてしまうには、リアルな触感だったし、設定もずいぶん凝っていた。

 海岸に流れ着いた七原と三村は、まず状況を把握するために島内の探索を行った。ここは無人島のようで、いくら探しても人間は見つけられなかった。かわりに野良猫や野犬が生息している。その他の動物もまれに見かけた。
 人家がいくつも建っていたことから、どうやら昔はここに人が住んでいたようだ。家財が残る家もあり、幸いなことに最低水準の生活なら営めそうだった。ただし打ち捨てられた冷蔵庫の中身はほとんど腐っていて、新鮮な食べ物は期待できそうにない。乾パンや缶詰が残っていたのは僥倖だったといえよう。
 電気もガスも通っていなかったが、オイルやライター、マッチを確保することができた。ガスコンロも発見できたので、原始的なやりかたで火をおこす必要は当面なさそうだ。
 生活感を残したこの島への疑問を七原が呈すると、三村は彼を連れてひときわ大きな施設へ向かった。そこは観光協会として使われていたらしく、掲示されたままの張り紙や新聞記事によって、この島の全容をある程度把握することができた。どうやら開発計画のために島の土地が必要となり、住民たちは半ば強制的に、急かされるかたちで退去させられたらしい。この放置ぶりから、その計画自体きっと頓挫してしまったのだろう。ついでにここが「沖木島」という名前の、周囲約六キロの小島であることもわかった。
 農協や診療所、雑貨屋、消防団屯所。神社に集落。小さな木造の学校。校門のところに分校と書いてあったことからも、島の規模や暮らしがうかがえた。

 まず当座の課題として挙がったのは食糧や水の確保だった。保存食はあったが育ち盛りの男子ふたりには少々物足りなかったし、海水だってそのまま飲むわけにはいかなかった。
 ふたりは水の確保を最優先に掲げた。七原は先に食糧をと言い張ったが、生存においてもっとも大事なのは水だと三村が説き伏せた。歩き回ってようやく井戸のある家を見つけた頃には七原はすっかりへとへとで、水を求め喘いでおり、三村は得意げにほらなと返した。
 その家は集落の中でもとりわけ年季が入り、庭には古めかしい井戸が打ち捨てられていた。水が汚染されている可能性は否めない。ひとまずふたりは水を汲んだ。勢いよく飲もうとする七原を三が押しとどめ、慎重に臭いを嗅いだ。それから周辺の植物を観察して、ほんの一口含む。
「うん」ひとつ三村は頷いた。「大丈夫そうだ」
「わかるんだ?」
「変な臭いもしないし、まわりの草木も枯れてない。ってことは、このへんの水質は悪くないってことだ」
「すげえ」
 川田みたいだと七原は笑った。
「川田?」
「うん、この間ちょっとあいつと喋る機会があったんだ。むっつりしてる感じだけど、実はよく喋るんだぜ」
「想像できないな」
「なんだかすごくサバイバルに詳しいんだよ」
 三村は言われて川田章吾の姿を頭に思い浮かべた。中学生とは思えない大柄な体に、丸太のような太い腕。古傷を全身に抱えた彼がサバイバルに奮闘しているさまがありありと浮かび、三村はふっと可笑しくなった。

 井戸水をペットボトルに詰めたふたりは民家をあとにし、海岸に戻った。
 途中で立ち寄った雑貨屋で魚網を作るための道具を手に入れ、海に仕掛ける。あとはしばらく待つだけだ。

 心地のよい波の音が耳を優しく吹き抜けていく。気温は落ちてきているが、五月にしては暖かくちょうどいい。白く輝いていた太陽が水平線に触れ、燃え盛りながら消えていこうとしている。
「助け、来るかな?」
「さあな。けど黙って待ってるわけにはいかない。救難信号を出す方法も考えなきゃいけないな」
 バッテリーや携帯、パソコンさえあれば外部にアクセスできるかもしれない。だが自然放電や腐食で既に使い物にならなくなってしまっているかもしれない。そうなれば、SOSを出すのは難しい。三村は呻いた。
 ぶつぶつと考えをまとめるように呟き続ける三村の横顔を、七原は見つめる。
「でもさ、ここってすごく自由じゃないか?」
 七原の言葉に三村は顔を上げた。なにをのんきな、と言いたげな三村の視線を受け止めた七原は、おどけてギターを構えるしぐさを取った。
「だって、ロックを退廃音楽だなんだってバカにしてくる教師もいないんだぜ。肝心のギターもないけど」
 まだこいつは、状況を夢かなにかだと楽観しているのだろうか。三村は呆れた目線を送ったが、やがてふっと表情を緩めると、立てた片膝に頭をあずけた。七原らしいと思ったのだ。
「危険思想だな」
「お前もだろ」
「せっかくだし、歌ってくれよ」
 七原はギターを構えるようにしていた手を、一度ぎゅっと握ってから開き直し、「アカペラで?」と訊ねる。三村は頷いた。「ああ」
 期待を受けた七原は、一度こほんと咳ばらいをすると、照れを呑み込むように深く息を吸って歌い始めた。彼が敬愛するロックスター、ブルース・スプリングスティーンの「ブラインデッド・バイ・ザ・ライト」――光で目も眩み。その歌声を三村も何度か聞いたことがある。粗削りでぶつけるような歌声。拙いけれど、女の子たちの脚光を何度も浴びてきた歌声だ。
 七原の声だけが小さく広い海岸に響く。時々掠れる甘い声は軽やかで、波の音は伴奏だ。
 三村はその横顔を柔らかい眼差しで眺める。形のよいはっきりとした横顔も喉も、夕日に照らされて際立っていた。オレンジの光の中の彼は――たとえここが真っ暗で冷たい穴倉だったとしてもきっと——まぶしく見えた。
 歌が静かに終わった。波だけがさざめきを残し、七原は照れ笑いを浮かべた。三村は隠れたスターに、ぱらぱらと拍手を贈った。
「自由かもな。ギターはないけど、でも、すごく自由そうだ」
 七原は三村の言葉に満足そうに頷いた。だがすぐに引っかかったように瞬きをして「お前もだぞ」と頬をかいた。ここには国や政府のしがらみがない。すべてがまっさらな空間だ。その自由は、七原にも三村にも平等に与えられているはずだった。
「ああ、俺は——……うん……」
 三村は目を細め、相好を崩して七原から水平線へと視線を移した。太陽はさらに傾き、空にはちりちりと星が瞬きはじめている。穴ではなく、本物の星だ。その青黒さを見て三村は思い出す。叔父の住んでいた狭い借家から見えた空も、こんな色をしていた。あの時の空は工場の煙にまみれて白んでいたけれど、その向こうにはきっと、今日と寸分変わらない、こんな色が広がっていた。
「俺は、絶対戻らなきゃならないから」
「絶対?」
「そう、誓ったのさ。このクソみたいな国にスペシャルなダンクシュートをって、叔父さんに」
 七原がなにか言おうと口を開いた瞬間、三村は立ち上がり、思い出したように沖合に向かっていった。慌てて追いかけると、三村は仕掛けた罠を確認するところだった。そこには中ぶりの海魚が一匹かかっている。泡を食ったように跳ねるたびに鱗がきらきらと光る。とても窮屈そうだ。
「やったな」と三村が振り返ると、七原は笑っていなかった。うつむきがちで、どこか寂しげな色を帯びている。沈みかけた夕日に照らされた頬の産毛は、温かい色をしていて眩しい。穴倉のように暗くなりかけても、何も変わらない光だ。
「俺は、三村のそういうところ、尊敬してる」
 彼のウェーブがかった癖毛が潮風に揺れている。いつもならもう少し整っているはずだが、波に晒されて一層くしゃくしゃになっていた。三村は自分の額にも前髪が落ちてきた感触に気付き、鏡を見る暇もなかった今日一日を思い返した。
「決めてやれ、って思ってる。三村ならそれもきっと叶うんだろうなとも……思ってる」
 三村は鏡を気にする性分だった。自分がいま美しく在れているか、それは三村にとってとても重要な尺度だった。毎朝髪のセットにはこだわったし、身なりにもほどよい自負がある。そしてなにより、恥のない、美しい生き様をという思い。それは三村の中心に、一本の大木のように植わっている。
 七原はわずかに顔を上げて罠に近づいた。そして網を取り去ると、そのまま魚を逃がしてしまった。
「! おい、せっかく」
 三村の抗議に背を向けたまま、七原は逃げていく魚の姿を目で追う。水を得た魚は、席立てられるように、けれど泰然と泳ぎ出し、すぐ波間に消えていった。
「けど、時々心配になるんだよ。いつもお前は俺たちとは全然違うところを見ているから」
 七原の声が強い風に乗る。心許なげな目で三村を見た。見覚えがある表情だった。七原はポジティブで活発で、進んで賑やかでいようとする少年だった。だがそれは性分のせいだけではない。自分が望んでいるからではないかと思うことが、三村には時々あった。
「今ぐらい、いいんじゃないのか?」
 七原はじゃぶとひとつ近づくと、三村の片頬に手を添えた。風にさらされて冷えた指先。そういえば、まだ五月なのだ。いくら昼間が快晴だとして、この時間になれば冷えてくるに決まっている。
「寒さでセンチメンタルでもなったか?」
「茶化すなよ。俺は真剣に」
 口を開こうとする七原の二の句を遮るように、三村はキスで黙らせた。触れるだけの長いキス。七原の唇はかさかさに渇いていたが温かい。どこもかしこもそうだ。成長するにつれ体つきはどんどん固くなっていくのに、この温かさだけは変わらない、と三村は思った。体の奥に太陽を宿しているかのように。大人になっても、会えなくなっても、きっと変わらない。ブラインデッド・バイ・ザ・ライト。
「このまま、永遠に助けが来なかったら」
 唇を離しながら三村は言った。「それはそれで、良いかもしれないな」
 けど同時に思う。――無理だ、と。諦念と停滞に身をゆだねてしまった俺は、たぶん美しい姿じゃない。
「俺はここでいいよ」
 七原は涙声で呟くと三村を強く抱きしめた。スポーツから離れてもなお締まった体や腕は温かく、冷たい三村の体に熱が伝わっていく。肩も胸も、去年よりしっかりした気がする――そう思いながら三村は背中に手を回し、そっと抱き返した。同い年の自分だっていずれは大人になるはずだ。だが、そんな未来の姿はなんだか——煙にまかれたように——思い描けなかった。
「ただお前と普通に笑ったり、遊んだり、バカやったりしたいんだ。それが叶うなら、ここでいい」
 目を閉じると、十分すぎるくらいの熱を感じた。離れがたいほどの柔らかい温度。
 七原の提案は拒むべきものなのに、同時に強く惹かれた。とても魅力的だと思った。ここが魚網の中じゃなかったら、そうしていただろう。
「一生ふたりでサバイバルして、誰も助けにこないこの島で?」
「そうだ」
「お前もロックスターになれないじゃん」
 そんなの自由じゃないだろ、とあざけると、七原も少し身を離し、ぽかんとしたあと、あからさまに困った顔になった。本当にわかりやすいやつだ、と三村はくすくす笑った。
「それに、本気でそんなこと思っちゃいないだろ」胸を軽く押すとふたりのシルエットが少し離れた。三村は海岸に向かって歩き出す。「お前は戻りたいはずだぜ、らしくないこと言うなよ」
 残された七原はなにも答えない。それがすべてだった。
 そういうところが好きなのだ。一直線で少し不器用で、どうしようもなく愛情深い。三村のために自分を差し出すことだってできるくせに、心の片隅に残った大切な他のだれかを無視することができない。それでよかった。
「それに俺は不自由じゃない。こんな終わってる国で、戦うすべを持ってるんだから」
 三村の中にある大木はまだ緑々としていた。「お前のロックと俺のこれ、なんにも違わないだろ」そう振り返ると、七原はまだ憮然としつつも、渋々納得した様子だった。
「ほら、戻ろうぜ。風邪ひいちまうよ」
「三村」
 七原はばしゃばしゃと水を跳ね上げ、小走りで三村に追いついた。左側に並ぶと、ゆるやかに指を絡める。そして唇を合わせた。今度は一瞬の、とても短いキスだった。
「俺、みんなに幸せになってほしいと思ってるんだ。もちろん、お前にだって。すごくだ」
「わかってるよ」
 もういいよ。もう十分、ここは楽園だ。