サード・プレース

 秋也くんのギターと歌は日に日に上達している。私は音楽にはいまだに詳しくないけれど、それでも彼の技術の向上は明らかだ。
 秋也くんとアメリカの地に住むようになってもう何年経っただろう。「流しのギター弾き」七原秋也は、今では知る人ぞ知るロックミュージシャンだ——あの大東亜共和国からの亡命者という事実も相俟って。
 「ロックに歌唱力は必要ない」という理屈を唱える人も中にはいるらしい。大事なのはパフォーマンスとエネルギー、そしてメッセージだって。
 秋也くんは今の街に腰を落ち着け、生活に馴染んでまもなくしてから、オリジナル・ソングの制作に熱中しはじめた。発表当時こそ誰にも注目されなかったけれど、数年経ってから脚光を浴び始めたことは、秋也くんにとってもとても喜ばしいことのようだった。勿論私もそのひとりだ。
 ロックに必ずしも技術が重要なわけではないとはいうけれど、秋也くんの粗削りな歌や演奏は、どんどん丁寧に磨かれていったように思う。
 覚えている限りでは、昔はもっと激しくて、衝動に溢れていて、なんというか直感的だった。一音入魂というよりも、俺の歌を聞けという心の叫びに溢れていた。その時の彼の歌もむろん好きだったけれど、今はもっとメロディアスで、時々哀愁を帯びた。特にその「オリジナル・ソング」を歌う時はなおさらだった。
 秋也くんが特に好きなロックミュージックはアメリカン・ロックンロールで、彼が愛してやまないスプリングスティーンもジャンル分けするとすればそこらしい。力強いバックビートと、自由を謳ったストーリーテリング。反抗心を取り扱いつつ、前向きな独自性にあふれた曲を、秋也くんは強く好んだ。
 けど彼がはじめて作ったオリジナル曲はバラード調。当時の彼はオルタナティブロックの継承に挑戦していて、R.E.Mをリスペクトしたんだとどこか清々しい姿で語っていた。
「なんだか珍しい雰囲気ね?」
「そうなんだ」
 秋也くんは人懐こい照れ笑いを浮かべながらギブソンのエレキギターを大切に抱え込んだ。レスポールというらしい。なんでもこれがもっとも手に馴染むのだという。太く甘い鮮やかな中音は、秋也くんの歌声にとてもよく合っていた。
「俺たちが今ここにいる理由を、ちゃんと記したいと思ってさ」
 乱雑に書き込まれた楽譜の一節を、節くれた人差し指で撫でる。彼が何を思い返しているのかは言葉なくとも私にもわかった。あの時の厳しい夜や、硝煙の香り、寒々しい空の色は少し経った今も記憶に新しい。秋也くんの体のあちこちにもその記憶は古傷というかたちで刻み込まれていた。彼の左腕には痺れが残ったままだったし、私の頬に走った一本の傷線も、もう消えることはない。
「私も、いまだに、私なんかがみんなの代わりに生きていていいのかって、わからなくなるわ」
「わかるよ」
 サバイバーズギルトという言葉もこの亡命生活の中で知った。体にも、心にも深く焼き付いた烙印。私たちが生きている限り消えないくさび。けど「背負うにはちょうどいい」と言ってのけたのも秋也くんで、私は彼のそんな力強さにいつも感嘆させられた。
「俺達にはさいわい、気持ちを表現する方法がそなわっている」
 だからそうすることが自分の義務だと思ったんだ。
 そう言って秋也くんはリズミカルにレスポールを中指の第一関節で軽くたたいた。歌声を紡ぎ出すサインだ。察して黙り込むと、秋也くんは口の端に柔らかな笑みを浮かべて一度私の頭をくしゃりとかきまぜると歌い出した。
 優しくもどこか切ない音色。かすれた歌声。ただぶつけるだけじゃない、大事な何かを包み込むような、それに手を伸ばしかけてやめるような、祈りを思わせる声色。
 秋也くんと一緒に生活をはじめて何十回もの夜を超えた。知らなかった彼の様々な一面を知った。その中にはきっと、世界でたったひとり私しか知らない一部もあったと思う。けれど秋也くんはおそらく、私にはこんなふうに歌ってくれない、そんな予感は確かなものとして胸の奥に息づいていた。
 それから数年経って、曲が陽の目を浴び始めても、それは変わらなかった。徐々に意識から剥がれていく、私たちの悲しい思い出。それを追い求めるごとく悲痛と愛を増していく彼のうた。引き出しには、母国を離れる前に家から回収してきた学生時代の写真や、友人たちの遺品の類があった。わずかに青白く色が飛び始めてからは、太陽光にさらすことを秋也くんはやめたけれど、今でもすぐに取り出せる場所に、ベレッタの下になるところにしまってある。