僕がおそ松兄さんを殺したんだ、と思った。
真っ暗な寝室で目が覚めて、腹が減ったな、と階下に降りれば居間からすすり泣く誰かの声が聞こえてくる。何事かあったのかと襖を開ければ、母さんや父さん、他の兄弟達にこぞって「どうしてあんな事を!」と詰め寄られた。「アイツの事がそんなに嫌いだったのか!」とはカラ松の談。「そんなに何か思い悩んでいたなら、僕たちに打ち明けてくれれば…」と悔やんでいるのはトド松だ。僕はゆっくり6人の顔を見渡して、それから嗚呼、成る程な。と思う。僕がおそ松兄さんを殺した。
殺した経緯は、悪いけれど全く覚えていなかった。犯行時の記憶すら無いのだから、説明の仕様も無いだろう。
黙して語らず、何の言い訳もせずに投獄される僕の背を、家族は断腸の重いで見送ったという。僕は、松野一松はいつもそうだ、大事な事は何も語ってくれやしないんだと思って。――今回に関しては仕方が無かったんだけれど、まあ、しょうがない。
「自分の犯した罪を、よく考える事だな」
僕を独房まで連れてきた刑務官は、朗々として、この世に間違った事なんて何一つないようなキビキビとした声でそう言った。
煤けた独房の天井を見つめながら思う。なぜ僕は、おそ松兄さんを殺したのだろう。
憎悪から? それは間違いだ。僕はおそ松兄さんの事を憎んだり、嫌ったりなどは断じてしていない。腹が立つ事もそりゃあ、あるけれど、いざ姿を消してしまったら僕は平静を装いつつもパニックを起こすであろう事は、最早自明だ。僕は、決して公に言いたくはないけれど、兄弟の事はやはり、好いている。
僕に、眠っていた殺人欲、みたいなものがあって? …それもしっくり来なかった。そんなものがあったら多分殺す相手はカラ松だっただろうし、それに、悔しいけれども僕の、攻撃性、というものは薄い。”あれ”も”これ”も、卑屈と臆病から来る自衛に過ぎなくて、素直になれない自分が嫌になる。そんな悪循環は、僕が生き辛い気持ちになる、最大の原因じゃないか。きっと…ナイフを相手に向けた時点で、僕は僕が、そしていろんなものが怖くなって、取り落としてしまうに決まってる。
何か、そうせざるを得なかった、大きな理由があって――。その可能性は、無くも無いのかもしれない。
例えばおそ松兄さんに頼まれて…、そこまで考えて、あの人はそんな事を頼んだりはしないだろう、と首を振る。だって、奇跡のバカが、自殺したいから幇助してくれだとか、そんな二流の刑事ドラマに登場する悲劇の被害者のような事を、果たしてするだろうか? 僕にはそうは思えなかった。
もしまかり間違って、何かの手違いや気の迷いで、あの人が死にたくなった時があったとて、やっぱり僕にその幇助を頼みなんかしないと思うのだ。だって、あの兄は目的には一直線に駆け抜けていく単純な人で…死にたいなら、自分で黙って死ぬだろう。それが、僕のおそ松兄さんに対する意見だった。――それともう一つ。あの人は僕の臆病さをよぉく知っている。
重い鉄扉が鈍い音を立てて開く音がして、僕は顔を上げた。先程の精悍な顔立ちをした刑務官が、小さく「面会だ」と呟くのが見えた。
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思考を切って、長い廊下を彼と共に歩いていく。見上げる彼の背中はぴんと天から糸を張ったように伸びていて、太陽から目を逸らすように日頃から背中を丸め地面ばかり見つめている僕を、まるで責め立てているような、嘲笑っているような気にさせられて、落ち込んだ。これ、誰かを見ている時の気持ちに似ているな。――あ、そうだ、カラ松だ。そう結論付けると殆ど同時に、刑務官は廊下の突き当たり、鈍い光を放つ扉のノブに手をかけて、押し開けた。
面会室には僕が腰掛ける椅子と向こう側とを隔てるようにして薄いガラスがはめ込まれており、音を通す為に真ん中に開けられた穴の向こうに、僕と同じ顔が見えた。背後で議事録を取る刑務官にはわからないだろうが、僕達には誰なのかなんて、瞬時に判断がつく。少しだけ得意な気分になった。
「…どう? 元気してた?」
そう言って目の前の松――チョロ松は気まずそうに机を見つめた。そうだろうな、と思う。彼は世間体を一番気にする兄弟で、身内から犯罪者が出るなんて、多分、死んでもごめんだっただろうから。もしかしたら、僕が怖いのかもしれない。
「元気だよ」僕は答えた。「ムショって初めて入ったけど、案外快適。ヒヒッ」
「ふざけるなよ」チョロ松は眉を吊り上げて、ようやく僕を見た。「お前、自分が何したか、わかってんのかよ。俺達に何も話してくれないし」
どう答えていいかわからず口ごもる僕を見て、チョロ松は悲しげに唇を曲げた。
「俺達って、そんなに頼りないかな」
…当然の反応だと思う。僕だってきっと兄弟が人を殺してその理由や心境すら語ってくれなければ、多分戸惑って、何か出来る事は無かったのかと自分を責めたりすると思う。そう思うと不思議と心が柔らかくなって――元から不気味なくらい心は凪いでいたのだけど――、僕はチョロ松に手を伸ばすようにガラスに右手をそっとついた。
「あんたは優しいねェ」
「…そんなんじゃねーよ」
チョロ松は、怪訝そうな顔をして片目をぐっと細めた。皮肉めいた台詞に不機嫌になったのかもしれない。もしくは妙に素直な僕に驚いたのかもしれない。
僕だって、自分の落ち着きようが不思議でならないんだよ、チョロ松兄さん。覚えていないのに、偉大なる何かを成し遂げたような、あるいは事の顛末を全て予感しているような、そんな地に足の付いた安心感と満足感に満ちている。
「そんなあんたの優しさに免じてちょっとだけ教えてやる」僕はひひ、と声を漏らした。「覚えてないんだよね。何があったのか」
え? 眉根を寄せてチョロ松が身を乗り出した。秘密を共有する子供のようにして。「どういうこと?」
「どうもこうも、そのままの意味だよ。おそ松兄さんってホントに死んだの? それすらも分からない。でも僕は、兄さんが死んだ、そして俺がそれを殺したってことを、どこかで自覚してるんだよ」
六つ子だからかな。そう笑った僕を、自嘲と捉えたのかもしれない。なんだそれ、といかにも複雑そうにチョロ松は呟いた。
狂人の戯言に付き合うのが怖い、とでも言いたげな不安な色を表情に滲ませたチョロ松は、しばらく何も喋らなくなった。僕は、それ以上僕から話す事も思いつかず、黙り込んでしまう。
せっかく面会に足を運んでくれたのに、身の無い会話しか出来なくて、申し訳がないな。これでも凄く素直に心の内を開けたのに、チョロ松には伝わらなかったな。そういう思いで、じわりじわりと悲しくなってきた頃、たっぷり間を置いて、チョロ松は重そうな口を開いた。
「日記」
「え?」
「日記…があったんだ。おそ松兄さんの遺品」
「へえ」
少し驚いた。あの人に、日記をこまめにつける甲斐性なんてあったのか、と。大雑把をそのまま形にしたような男だったから、あの人がどんな事を日々記しているのかは、にわかに気になった。
「意外だね」
「そうだよね。俺も知らなかった。何でそういう事は教えてくれないのかなあ」
チョロ松はそう言って寂しそうに笑んだ。忘れていたけれど、彼はおそ松兄さんの相棒として日々野山を駆け回っていたようなやんちゃな少年時代を過ごした兄だった。僕がおそ松兄さんを奪った事、並々ならぬ思いがそこにあるだろう。相手が弟だから、怒れずにいるのかもしれないけれど――本当はもっと、わけのわからぬ不条理な事だとか、単純な憎しみ、理由のつかない感情に身を任せて暴れ出したいだろうに。短気なこの人に関してはよく我慢して、理性的に振舞っている、と感じて、僕は切なくなった。
「……ごめん」
素直に声に出すと、チョロ松は目を丸くして僕を見た。それからふ、と笑って、一松が謝るなんて、明日は雪が降るかもね、と言った。そういえば、今日は何月何日なのだろう。
「それでさ。一松にも読んでほしいと思って」
「俺に?」
「コピーを取ってきた。もう手続きは済ませてあるからもうすぐお前のところに渡るはずだと思うよ。時間はかかると思うけど、読んで」
念を押すようにチョロ松は丁寧に言った。早口ではあるけれど澄んで落ち着いた声色をしていて、僕はふと、チョロ松が落ち着いている理由が他にもあるのかもしれない、と思った。本人の我慢の成果だけではなく、例えばそれこそ――その、おそ松兄さんの日記、とか。
僕は僅かに逡巡した後頷いた。「分かった。ええと、…ありがとう」
チョロ松はもう一度穏やかに笑うと、面会を切り上げて部屋を出ていった。
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僕はおそ松兄さんに、結構寄りかかっているだろうなという自覚は、あった。
僕だけに限った話ではなかったけれど、あの人は、小学生をそのまま縦に伸ばしたような精神をしているくせに、相手に合わせるというやつがとても上手かった。時には子供に、時には大人に。時には冷静に、時には情熱的になって、僕達を導いていく長男だった。僕は彼の事を別段尊敬してもいないし、特別に大好きというわけでもないし、ただそこに在る長男として認識していたけれど、それでも僕の手を引いて歩いてくれる兄さんの姿に憧憬めいたものだとか、感謝の念を全く抱かないかというと、嘘になった。
兄さんは僕の前ではいつも天真爛漫で、迷惑ばかりかける男だったけれど、そんな彼に甲斐甲斐しく世話を焼いたりするのは少し楽しかった。僕は優しい男じゃないのに、兄さんといるとまるで自分が、優しくてよいもののように思えるような気がしたのだ。そして、そんな事を思い起こさせてくれるのはいつだって、兄さんだった。
おそ松兄さんは、一人ではどこにも行けない僕を、大きな子供のふりをしていろんなところに連れていってくれる。竦む足を、おそ松兄さんの為だからと叱咤しさえすれば、僕はどこにだって行けた。それが、嬉しかった。
動けない僕に、歩ける足をくれるのは、いつだって兄さんだった。
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それはどこにでも売っているような安価な大学ノートで、その表紙にでかでかと油性マジックで”日記”と書かれている。そんだけアピールしなくてもいいってば、と僕は小さく笑った。薄暗い独房に僕の笑みがこぼれるのは、なんともちぐはぐだ。
ぺらりと表紙をめくると汚い文字の羅列が目に飛び込んできて、おそ松兄さんが生きていた証であることを実感する。兄さんは小さい頃から兄弟の中でも字が下手で――僕は多分、一番綺麗な方なんだと思う。よくチョロ松に、「俺や一松に字を習えよ」と怒られていたことを思い出した。
罫線などとことん無視したその羅列を、人差し指でなぞりながらゆっくり追っていく。刑務官の視線が時々格子越しに刺さったけれど、もう僕にはそんなものは、気にならなかった。
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3月2日
暇だったから、一松を競馬に誘った。めんどくさそうな顔してたけど、結局ついてきてくれるの、俺は知ってるんだから~。
馬には興味ないとかごねてたのに、お馬さん大好きな俺は大負けして、猫ジャンキーのアイツは勝った。めっちゃ悔しかった。ずるいずるいと騒いでたら、いっこ溜息をついてから、肉まん奢ってくれた。
3月6日
猫カフェでバイトした事があるんだって。何で教えてくれなかったの!? 兄を差し置いてリア充になるなんて許さないし、そういう変化があったら報告する事って、こないだお前も含めてトド松に散々言ったじゃん。
そーやってぶすくれてたら謝られたけど、なんていうか、俺はお前がバイト始めるのが嫌だったんじゃないんだよ。まあ、お前が構ってくれなくなるのは嫌だけど、そうじゃなくて、やべえ、なんて書いていいかわかんねえ。わかんないからもういいや、謝ってくれたし! 今日の日記終わり!
3月8日
ちょこちょこ一松に構ってアピールするのに、あいつは最近構ってくれない。なんか面白いもの見つけちゃったの? それは悔しいなあ。
3月11日
どうも、新しい友達が出来たらしい。まあ猫だったけど。そいつの話を一松は目を輝かせながらしてくれた。そいつは随分弱っていて、このままだと死んじゃいそうだったから、獣医に連れていこうと思ったんだけど最近金欠で、だから一時期バイトしてたんだとか、なんかそんな感じのことを言っていた。
優しいなあ俺のおとーとは。でもお兄ちゃん妬いちゃうよ? 黙って遠くに行かれたら、なんだか寂しいなあ。
3月16日
ようやく分かったんだけど、俺、単に一松と一緒にいてえんだなって思った。
俺がこの手で一松を元気にしたかったんだ。だからバイトの話聞くの、嫌だったんだ。
3月20日
俺は、俺が駄々をこねれば一松は最終的に折れて構ってくれるってことを知ってた。俺の弟達はみんな長男様の言うことをよく聞いてくれる出来た弟達だけど、なんていうか一松は、黙って俺の手に引かれてくれるから、可愛かったんだ。
多分、俺がバイトしないでって引きとめれば、あいつはしないだろう。奢ってよって喚いたら、仕方ないなって笑って肉まんを分けてくれる、あいつはそういう弟だ。俺をいっぱい甘やかして、寂しい時黙ってそばにいてくれる、そういうやつ。
でも、これは俺のわがままだけじゃなくて、一松もきっと、そうなんだと思う。”いいお兄ちゃん”ならいつだって出来た。でもあいつの前では”わがままな子供”でいたかった。そうすると一松はよく笑って、しゃんと立って、太陽を見上げるんだ。なんだか俺は、そういう一松を見てるのがすごく嬉しかったんだ。好きだったんだ。
3月28日
あいつが幸せそうにしているところが見たいし、俺もあいつにちやほやされたい。二人で笑っていたかった。どういう結果になっても、どこにいても、それさえ叶えられるのならそれでいいかなって、思った。
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きっと刑務所の外は春なのだろう、と思った。だから寒くないんだということも、この時実感した。
日記は、今は亡き兄さんの温度ごと遺したように温かい。僕の手のひらの温度が移っただけだということも、頭が馬鹿になっていた僕にはついぞ思いつかず、照れと切なさと寂しさとでごちゃごちゃになって、ノートを抱きしめた。こうすると、兄の声が聞こえるような、そんな気がしたのだ。
――好きにしたらいいよ、一松。もっと自由に生きていい。馬鹿になっちゃいなよ。お前の進みたい道を踏みしめてあげる。だから――
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はっ、と目を見開くと、煤けた暗い天井じゃなくて、柔らかい日の光に照らされた見慣れたライトが飛び込んできた。ふかふかの布団と薄いパジャマに身を包まれていて、その瞬間僕は全てを理解する。
ああ…記憶無かったのにあんなに落ち着いてたのは、そういう事か…。
上体をのそりと起こして壁時計を見ると、時刻はもう12時を過ぎていて、スッカラカンになった胃袋の悲鳴に気が付く。もたもたと着替えて顔を洗い、目を擦りながら居間に降りると、いつも通りニート達が揃って昼食を取っていて、トド松が「やっと起きたの? 一松兄さん」と呆れ顔を向けてきた。
「もう兄さんの分のご飯とか無いよ?」
「…じゃあコンビニにでも行ってく…」
「一松!」
告げられた現実に小さく舌打ちをかましてから踵を返そうとすると、そんな僕の背中に呼びかけられる声があった。振り向かなくても分かったけれど、僕はゆっくり顔を向けた。
「俺、ずっとおやつ食べてたから結構昼飯残ってるんだよ。俺の食う?」
見慣れた赤いパーカー。爛々と輝く丸い眼。どこかあどけなさを残した顔立ち。僕達の、長男。
おそ松兄さんは自分の目の前に置かれた皿を指し示してにっと笑んだ。六つ子だからなのだろう、僕は何となく、おそ松兄さんが僕に何か話があって――多分恐らくは、あの夢の話で――、僕を引きとめたのであろうと察した。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
裸足で近づいておそ松兄さんの隣に胡坐をかくと、チョロ松が世にも珍しいものを見たという顔で「どうしたのおそ松兄さん、ご飯分けるなんて…カビでも食べた?」と呟いた。
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昼を過ぎるとめいめいに残りの松は散っていって、後には僕とおそ松兄さんしか残らなくなった。
僕がヤキソバを完食するなり、兄さんは「風に当たりたいから二階行こうぜ」などと意味不明な事を言って、僕を二階部屋に連れ出した。拒否する理由もなかったので、黙ってついていく。彼の手に引かれて。
襖を開けると開け放たれた窓からゆるやかな風が流れてきて、そこから楽しげな笑い声が聞こえてきた。下を覗くとカラ松と十四松が軒先でキャッチボールに勤しんでいて、二人が僕の姿に気が付くなり、手を上げて笑みを向けてくる。
「ねえ」僕は二人には返事をせず、隣に腰掛ける兄さんを見つめた。「兄さんも見たの? あの夢」
おそ松兄さんは、やっぱり? と言って悪戯っぽく笑んだ。
「見た。俺の見た夢は、俺が一松を殺す夢だったけど」
「ふぅん」
「お前の日記、すげえ情熱的でさ、俺照れちゃった」
僕はにわかに恥ずかしくなった。僕の気持ちがきっとおそ松兄さんに筒抜けたであろう事は素直に照れくさく、僕は小さく「忘れて」とごちた。
「お前だって俺の日記読んだんだろ? フェアじゃないじゃん」
「うっさいな。あんたは馬鹿だから平気でしょ。俺はあんたほど馬鹿じゃないから平気じゃないの」
「なんだよそれー」
ぶうぶうと頬を膨らせるおそ松兄さんは、ふと真剣な顔をして、階下に目を向けた。相変わらず下ではカラ松と十四松がボールを投げ合いながらからころと転がるように笑っている。平和そのものだ。
「俺はね。お前をどこにでも連れてくのは、俺がよかったから。だから殺したんだと思うんだ」
窓枠にかけられた僕の指を、おそ松兄さんの健康的な色をした指がなぞった。少し驚いて手を引こうとする僕を、それより早く兄さんは握って、口角を持ち上げた。
「お前は…俺と一緒にいたかった?」
僕は静かに、そんな兄の表情を見た。恥ずかしかったけれど、それでもやはり心は幾分か落ち着いていた。どうせ、この夢を見る前から全部バレているのだ。兄さんは僕を振り回せる事が楽しくて、僕はそんな兄さんの前でなら素直になれる。意地っ張りな僕の心を解いて、その紐を自分の手に絡めてしまう兄さん。全部視えているくせに、馬鹿だからの一言で終わらせてしまう。ずるい。卑怯だ。ずるくて卑怯で最強だ。
「……」僕は観念して目を逸らした。「そうです。だからやりました」
僕の拗ねた表情にか、兄はくははっ、と耐え切れないように無邪気な笑い声を上げた。
「そうだよね。一松の事は何でもわかっちゃうんだから」
「ホント黙って」
ソファから手頃なクッションを取り上げて、頭に叩きつける。兄さんがぎゃあ、と鳴いたので、久々に勝ったような気持ちになってにやりと微笑むが、クッションを叩きつけた右手はそのままおそ松兄さんに掴まれてしまう。え、と理解する間もなくそのままマウントを取られて床に転がされ、上から兄さんがのしかかってきた。やられた。重い。
「ねえ、ちょっと」
「動けない一松に、歩ける足をくれるのは俺、なんだろ?」
するりと頬を撫でられる。その瞳には愛情とか、独占とか、とにかくいろんな物が湛えられていて、この人舞い上がってるな、と思った。
――僕なんかの為にこんなに舞い上がってくれるなんて、シュミが悪いな。そう口にしようとしたけれど、今の状況ではきっと、野暮なのだろう。
「なあ。いちまつ、お前と一緒に間違えるの、超楽しいなあ」
ざまあみろ、と兄は僕の上で笑った。あの夢の刑務官の、凛とした正しすぎる声を思い出す。
「…そうだね」
あんたと一緒に間違えて、同じ地獄に落ちるならきっと、それが暗い牢獄だろうと深い泥濘だろうと、季節は春なんだ。
くだらないものに遭遇した時のように笑う僕の唇に兄さんのそれがそっと落とされて、すぐに離された後、べ、と不味そうに舌を出した。
「めっちゃソースの味する」
「ふひひっ」
気の利いた台詞の言えない、馬鹿松兄さん。