アヴェ・モロー

「なあ、そんなに嫌だったのか? …三村。…おい、どうした。…俺が何かしたなら謝るから、…泣き止んでくれないか、そろそろ」
 どれだけ言葉を尽くしても、三村は懇々と泣き続けた。顔は枕に埋められていて見えないが、時々鼻や喉から鳴る湿った音、目元を拭おうと差し込まれる手の動きが、それを証明している。
 俺は途方に暮れていた。泣かせるようなことをしたつもりはなかった。どころか、いい感じだった。沢山キスを贈ったし、こいつだってもっとと幾度も強請っていた。とても気持ちよさそうだった。熱に浮かされて、日頃言わないような、調子づいた愛の言葉までかけた。
 二人で頂に到ったとたん、泣き止まなくなってしまった。焦った。すぐに中から自身を引き抜いて具合を伺ったが、一言も応えてくれなかった。
 思い当たることといえば、今日は俺から誘ったということくらいだった。本当は嫌だったのだろうか。
「三村」
 何度目になるか、名前を呼んだ。三村の肩の震えが少し大きくなり、すると、くつくつと笑いの声が、伏せられた口元から漏れ出した。
 俺は虚を突かれた。…うそ泣きだったのか?
 三村はやっと枕から顔を剥がしてこちらを見た。その目元は確実に濡れていた。ハの字に情けなく傾いた眉の下では、今もぽろぽろと一粒ずつ涙がこぼれているのに、唇の方は歪んでいる。顔の上と下が違う信号で動いているみたいに見えて、いや違う、自嘲だ、とすぐにわかった。
「悪い」
「どうした?」
「急に泣きたくなったんだ」
「どうして」
 三村は嘲笑を漏らしながら、両の腕で目元を覆った。
「さあ。あんまりソドミーにかまけて、ホルモンバランスでもおかしくなっちまったのかな?」
「はぐらかすなよ」
 俺は慎重に片腕をどけた。まだ泣いている。
 その瞳が言うまいかどうか、不自然に揺れた。
「…ほんとはいつも泣きたくなってるって言ったら、驚くか?」
 それは、生理的なものではなく、情緒的に、ということだろうか。
「俺が毎朝、祈ってるの、知ってる?」
「祈る?」
「そう。祈りや儀式を通じて不安を軽減するのは、人間が進化で得た生存戦略の一環なんだと。俺はもしかして、そういう特性の遺伝子を持ってるんじゃないかって思うことがあるんだが、…いや、つまり、……そういうことじゃなくて」
 俺が三村の泳ぐ目を追い続けるのがわかって、苦笑が強くなった。逃げるようにさらに伏せられた瞼。彼は続けた。
「いまだに怖がってるんだ。毎日。悪いこととか、恐ろしいこと」
 涙に震える声も、話自体もなにもかも、はじめて聞くことだった。
 ともに過ごす朝だって、わかりやすく両手を組んでるわけじゃない。俺が早く起きろと言って急かす時、なかなか布団から出てこないのは、つまりそういうことだった、のだろうか。
「ダサい話だよな。いいことが起きると次の朝が特別憂鬱になるんだ。ほら、確率は収束するって、よくいうだろ」
 相変わらず煙めいた三村の話を、俺は取りこぼさないように聞いていた。微笑を浮かべごまかし続ける三村の、苦しそうな口の端が、睫に縁どられてぼやけた瞳がやけにどうしても、愛しくなった。
「…俺たちの関係を、確率や計算で語ろうとするなよ」
 どかさなかった方の片腕が、目元の涙を力強く拭おうとした。その腕の代わりに、中指でそっと払ってやった。三村の瞳がたじろいだまま俺をとらえた。
「世の中が、そんなに機械的に回ってるわけないだろ」
 涙を払ったあとの目尻に唇を寄せた。言うべき台詞を頭の中で並べて、どれもしっくり来ず、ただ抱きしめた。三村の頭を胸に抱き込むようにして、しっかりと裸の背中に腕を回す。こいつは言葉できちんと説明してくれるのに、俺はこういう時、だめだ。
 腕の中の三村がまた鼻をすんと鳴らした。俺はぎこちなく、再度言った。「好きだよ」
 三村が額を預けてくるのがわかった。またしてもすぐ泣き始めてしまった。
 察する。こいつの明朝がより重くなる。それを不憫に思った。だけど俺には取り除いてやることはできない。三村自身に戦ってもらうしかない。
 せめて器の中に、届ききるように、祈った。三村のつむじに頬を預け、隙間なくかき抱いた。明朝にそばにいてやれることを、祈った。