ふらつく

 蒸し暑い夜の道を杉村がゆっくりと歩いていく。街灯や電飾看板、脇を通り過ぎる車のライトに広い肩が照らされては、また暗がりの影に埋もれる。繰り返し明滅しながら、その背中は少しずつ小さくなった。
 俺は立ち止まって、彼の背を見送ってみた。杉村は気づかず歩いていく。だけど途中で振り返ると、踵を返して戻ってきた。徐々に近づいてくる顔の陰影は心配を刻んでいる。
「三村? どうした?」
「別にどうも」
「どうもなくないだろ」
 何か気になるものでもあったのか?と杉村は周囲に視線を巡らせた。そばにあるのはシャッターが閉まった襤褸い店構えと汚れた自動販売機だけだ。杉村は自動販売機の中身に目を止めると、不可解な表情を浮かべた。
「飲み物ならさっき買っただろ」
 杉村が手にしているコンビニの袋が、がさつな音を立てた。
 俺はそれを無視するように、地面のはげかけた“止まれ”のペイントに視線を投げながら言った。
「ちょっと試してたんだ」
「何を」
「このまま立ち止まってたら迷子になれるかなって」
 杉村の相貌が不快そうに歪んだ。その面差しから、俺は色んなものを感じ取ることができる。都合のいい解釈をすることは十二分にできた。だけど煩わしさばかり切り取ってしまうのは、やっぱり俺がおかしいからなんだろう。
「……またそんなこと言って」
 杉村は言い置くと、袋を手にしていない方の手で俺の手を握った。
 俺は本当は、この大きい手がとても好きだ。だけど憚られて、一度も伝えたことはない。握り返すだけでも体の中心が錆びつく時がある。理由は全部わかっている。わからなかった方が良かったのかもしれないとも思う。深い了知はある意味、発展を阻む。
 杉村に引っ張られて、俺は歩き出した。そっと視線を落とすと、足元の影が二つに連なっている。
「いいよ」
 俺は繋がれた手をゆるやかに払おうとした。「恥ずかしいし、暑いし。俺らのキャラじゃない」
「誰も見てないから大丈夫だ」
 言葉とは裏腹に杉村の声は低く、苛立っているようだった。指に込められた力は強く、手を離す気もないようだ。
 俺は息をついた。すると胸がどこかすっとして、自分が安堵したんだと気づいた。馬鹿が。
 杉村の手はわずかに汗で湿っていて、俺のものよりも温かかった。
 遠くで虫が鳴いている。時たま通り過ぎる車のエンジン音と、サンダルの底の音。涼やかな夜風が、鬱陶しい暑さを幾分さらっていく。
 こう暑いと、一緒に溶けてなくなってしまいたくなる。いや、俺は、寒かろうともそうだった。
 戯れに目を閉じて、杉村が己の身を引く重力だけを頼りにすることにした。すると遠のいていく杉村の背中が瞼の裏に現れて、よほど安心した。それだけがちょうどいいぬるさだった。
「三村」
 ふと落とされた杉村の囁きに、俺は顔を上げた。かすかに顎先を上げて、杉村のうなじを見つめた。
「帰ったら飲むんだろう?」
 すぐにそれが、袋の中に入っている酎ハイのことを指しているのだと気がついた。ライチ味のものは俺しか飲まないのだ。
「……ああ」
 俺は頷いた。杉村はそうかとぼやいて、俺の手をしっかりと繋ぎ直した。俺は苦しみながら、その手を握り返した。
 剥き出しの腕や足に当たる爽やかな風を、急に肌寒く感じた。そこで図ったように杉村が「夜は少し冷えるな」と呟いた。俺は思った。……本当に、ずるいな、と。
「肌寒くないか?」
「平気」
「ならいい」
「なあ」
「なんだ?」
「離せよ」
 言ってみた。杉村は俺を見向きもしなかった。嫌だとさえ答えなかった。
 杉村の身体は俺のすぐ前に、目の前にあって、簡単に触れられそうだった。こいつもきっと、俺がねだればそうしてくれるだろう、今なら。
 そう了知するたびに、軋むし、傾ぐ。