それじゃあ、あとはよろしく。
三村はその言葉を、鍵ごとスポーツバッグに押し込んだ。
振り向く。熱の鎮まった広大な体育館が、目の前に広がっている。時刻は七時で、二階の窓から小粒の月が覗いていた。
三村は落ちているバスケットボールを拾い上げると、ゴールを見据えた。
距離にして目測六メートル。構えて、慎重に重心を落とす。まっすぐに見定める。指を、肘の角度を、腿に込めた力を計算する。狙って、放つ。脚は精巧なバネのように伸びて、ボールが美しい弧を描く。
ガシャン。
リングの上をボールは一周半回転し、重力に従ってその中に落ちた。
ナイス。誰にともなく三村は口の中で呟いた。ザ・サードマンたるもの、これくらいはね。
歓声はなかった。ないのが良い。三村は注目をこよなく愛するが、されないのもそれはそれで嫌いじゃなかった。
無人の体育館は、なんだか不気味だ。夜となると尚更だ。特別に思える。くすぶる妙な高揚感は、それゆえだろうか。
とにかく腹が空いていた。三村は空腹も好きだった。身体の中から何もなくなると、己がとても洗練されていくように感じられた。不純物が消えていく感覚だ。
汗も掻いており、少し身体が冷えていた。それも良かった。肉体のすべてが自分の管理下にあるような気がした。
とはいえ、さすがに。三村は食事を訴える腹を押さえて口端に苦笑を浮かべたが、すべて振り切り、ドリブルを打ちながら走り出した。
運動は楽しい。三村にとって身体とは、素直な機械だ。鍛えれば鍛えるほど自在に扱えるし、制御も容易だ。思い通りに動ければ、万能感さえもたらしてくれる。ゼロとイチだけで稼働する単純な身体の中身を想像して、三村は薄笑った。
この体育館も、今の自分によく似ていた。夾雑物の一切が取り払われた虚ろな空間。本来、物事のつくりなんて、この程度でよいのだ。多くのものは複雑すぎる。複雑な存在を歓迎したいけれど、時折疲れる。そんな日、三村は決まって夜の自主練に熱中した。
バッシュと床のこすれ合う音、ボールの硬質な響き。肌の上を容赦なく滑る汗。
唇から浅い吐息が漏れた。肺がかすかに呻いている。水くらいは摂ってやってもいいかもしれない。
三村は鞄に駆け寄ろうとして、そこではじめて、入口に身を預ける大柄な人影に気が付いた。
施錠にやってきた教師ではない。三村のよく知る友人、杉村弘樹だった。
「あれ?」三村は反射的に訊ねた。「なんでいんの?」
「明日の提出物を忘れたことに気が付いて」杉村は組んだ腕の上を指でトンと叩きながら答えた。「稽古が終わったあと、戻ってきた」
「わざわざ?」
ふはっと三村は笑った。「律儀だなあ」と伝えると「一度気になったら、どうにも座りが悪くなっちまってな」と杉村は照れくさそうに瞬きをした。
「それで帰ろうとしたら、すれ違った先生に『体育館にまだ生徒が残ってるようだからそろそろ帰るよう伝えてくれ』と」
「ああ、なるほど」
三村が時計を確認すると、七時半を回っていた。
「そりゃあ悪かったな。もうちょっとしたら帰るよ」
「まだ練習するのか?」
「うーん、もうちょっと」
肩をすくめる。有体に言うと、まだ帰りたくなかった。静かで居心地がよかったし、もう少し動いていたい。希望としては、満足ゆくまで疲れ倒して、そのまま気絶するように眠りたいところだった。
杉村は「試合が近いのか?」と意味もなく体育館を見回したが、ゆっくり三村の顔面に目線を戻すと、そうではない何かを悟ったようだった。
「……まあ、お前がそう言うなら——」
言い加えようとした時、杉村の言葉の隙に間抜けな鳴き声が割り込んだ。三村の腹の虫だった。
三村は視線を落としてから、ほのかに生じた恥じらいを笑い飛ばした。「……腹も減ったし、長居はしないよ」
杉村は温かな呆れ笑いを漏らした。そして思い出したように「そうだ」と呟くと、屈んで鞄からラップに包まれたおにぎりを差し出し、言った。
「食べるか?」
「何これ?」
「稽古中、腹減ったら食えって母さんが。時々持たせてくれる」
「ははあ」
お前がたまに午後もメシ食ってるのはそれかあ。
三村が指摘すると、杉村はまた照れくさそうにした。「いいんだよ、成長期なんだから」
「お前、まだ成長する気かよ」
からかいながら、三村もその場に腰を落として、ラップを剥がした。特有の塩気を含んだ香りが鼻の下をくすぐった。「いいの?」と訊ねると「いいよ」と杉村が微笑んだ。
三村はおにぎりに齧り付こうとしたが、動きを止めた。身を覆う清廉な感触が名残惜しかったからだ。杉村がわずかに片眉を上げて訊いた。「どうした?」
「いや、なんていうか」
「なんだよ」
「お前には言っても理解されない気がする」
「他人の手作りが嫌だったか?」
「そういうわけじゃないんだけど」
三村は逡巡してから、述べた。「腹減ったままでいたいことってない?」
杉村はあからさまに眉をひそめた。
「食欲がないとかではなく?」
「そうじゃないけど、なんか食べたくない」
「……なんだそれ」
腹が減ったら食べたくなるのが自然だろ、と杉村はさも当たり前のように答えた。三村は健康的な回答に思わず表情を崩す。杉村はそれを嘲笑の一種と受け取ったらしい。声に若干の“やけ”が滲んだ。
「わけのわからない理屈こねてないで食えよ」
「怒るなよ」
「昼はちゃんと食ったのか」
「ほどほど」
「その言い方だとあんまり食べてないだろう。水は?」
「飲んでないかも」
「おい」
オカンかよ。
三村は勢いを増す杉村のようすに、小さく噴き出した。杉村は眉間のしわを深くし、説教を唱えながらもうひとつおにぎりを取り出してラップを剥き始めた。三村は追加で大笑いした。
「何個あるんだよ、わんぱくかよ」
「俺は頼んでない、これは母さんが勝手に」
杉村が言い訳とは裏腹にそのおにぎりを口に運んだので、三村はさらに抱腹した。あまりに三村が笑うので、ふたたび杉村は顔を赤らめてから、呟いた。「……とにかく、お前も食えって」
三村はくつくつと肩を揺らしながら、自然な動きでおにぎりを頬張った。中身はプレーンな焼き鮭で、刻んだわかめと胡麻が入っている。
ペットボトルの水と一緒に流し込む。喉を通り過ぎる瞬間に気疎さがよぎったが、胃の中に生じた違和感は優しかった。
「美味い」
こぼすように呟いた。「お前んちの鮭おにぎり、胡麻入ってんだ」
杉村はその言葉を聞くと、ふっと口元を綻ばせた。彼にしては柔らかな微笑だ。
その後ろの暗闇で、非常口の掲示灯が緑色に点滅していた。
「帰ろっか」
三村が腰を上げると、杉村も顎を引いて立ち上がった。時計の針は八時を過ぎていた。
ボールカートを戻そうと足先を向けると、目の前の閑散とした光景は、もう別のなにかに見えた。