月までひとっとび

「朴念仁の杉村くんは、きっと女の子に愛を囁く時も、シンプルな台詞しか紡げないんだろうなあ」
「シンプルの何が悪い」
 俺から言わせれば、遠回しできざな台詞なんて、伝わらなかったらなんの意味もない。
 古代から人間が関心を寄せる議題である、愛情表現。様々な文学で頻繁に登場する命題だが、俺がその討議の一員になったなら、好きだのたった三文字でさっさと終わらせてしまうに違いないだろう。
「読書家とは思えない意見だね。夏目漱石、読んだことないの?」
 机に向かいあった三村は、舌を出してオーバーにげんなりしてみせた。教養の一環として触れたことはあるが、俺個人の関心は四書五経や荘子ばかりに向いていた。
「せめて、お前の愛読書が紅楼夢ならね」
「俺に何を期待しているんだ」
 本は好きだ。日常生活をただ漠然と営んでいるだけでは得られない教訓をいつも与えてくれるから。だけど共感できない登場人物のロマンスにまでは見出せない。貴子と趣味が食い違った時、読書に求めているものが根本的に違うのだと知った。貴子もあれで普通の女の子らしいところがある。ひょっとすると彼女は案外、歯の浮くきざな愛の言葉を好むのだろうか。目の前の三村を上から下まで見下ろして、いや、ないなと思い直した。
「なんか失礼なこと考えただろ」
 まさにそういったことは三村の十八番だろう。こいつになら比喩を手足のように使って女を口説き落とすことなど造作もない。だけどそれにうつつを抜かしている貴子はまったく想像できなかった。それこそ貴子は“シンプル”を好みそうだ。
 引く手あまたのくせにコンプレックスをこじらせている節のあるこいつを見ていると、ついこのように感じてしまう。
「婉曲しまくった言葉には、さして意味はないんじゃないか?」
「おい、すべての詩人への冒涜だぞ」
「お前に対して言っているんだ」
「そんなこと言って、杉村だって、いざ琴弾に告るとなった時、そんなに素直に伝えられるのかよ?」
 俺は二の句を告げなくなって黙り込んだ。本日はお日柄もよく、なんて、くだらない常套句から入ってしまう自分が容易に脳裏に浮かんだ。だけどそれは主旨が違うんじゃないだろうか。
「わかるだろ?だからボキャブラリーってやつが必要なんだよ。俺からの貴重なアドバイスだ」
 三村からのアドバイスを鵜呑みにしていたら幸せになるどころか破滅してしまう気がする。
「ならお前はなんて言うんだ」
 まさか全員に月の美しさを問うているわけでもあるまい。百戦錬磨の三村なら、さぞ心躍る口説き文句を用意しているに違いなかった。
「そうだな」彼は少し考え込むと、両頬をついて俺の目をのぞき込んだ。「お前にささやくなら、フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」
 俺は一度、言われた単語を頭の中で並べてから、ひとつずつスペルを確認していった。フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン。英語はそれほど得意ではない。
「とても単純な英文なんだけどな」
 三村は俺の様子に苦笑しながら述べた。歌うように。
「木星や火星の春がどんなにいいものか、お前に見せてほしい」
「行けるわけないだろ」
「行けるとしたら?」
「ひとりで行けばいい」
「わかってないな」
 お前に、連れてってほしいんだよ。
 三村は机に広げられたままの俺の右手の甲を人差し指でつんと突いてから笑った。
「言うほど素敵なものでもなかったらどうする?」
「それもまた一興」
「火星はともかく、木星の春は厳しそうだ」
「でも、お前が見せてくれる」
 そのまま突っ伏し、曲げた肘に鼻先を埋めながら語る三村の笑い声は転がるようだ。ようやく頭の中で意味をなしたその文句は、なるほどロマンチックな口当たりだが、俺にはいささかスケールが大きすぎるたとえ話だった。
「連れていくなら、そのへんの公園でいいだろ」
 それくらいならすぐにでも叶えられるし現実的だ。なんでもない晴れた春の公園の、反射する光の中を、ただ恋人同士がふたりで歩いていく。その光景は俺には十分優しい景色に思われた。
 三村は瞠目すると、顔を上げてからまた片肘をついた。掌の腹に半分隠れた口の端が、ふうん、と機嫌よさげにつり上がった。
「月がいいって言ったのに」
「叶えられないからな」
「まあ、妥協点ってとこだな」
 じゃあ、次の休みはそこで決まりだなと三村が言った。今のは次の約束の話だったのだろうか?
「だって、連れてってくれるんだろ?」
 俺にも予定があるのだがとクレームをつけようとしたが、彼があまりに嬉しそうな様子だったので、つい何も言えなくなってしまった。三村は気分屋で、これほど機嫌をよくしているのは久しぶりだった。
「ポエッツ・オーフン・ユーズ・メニー・ワーズ・トゥ・セイ・ア・シンプル・シング、という言葉がある」
「意味は?」
「詩人は単純なことを伝えるのに、余計に言葉を紡ぐ」
「つまり?」
「つまり…」
 三村はさっきつついた俺の手の甲に自らの手を重ね、繋いでみせてから、頬をついた手の方に隠れた唇の笑みを深くした。
 どうやら俺は、詩人にはとうていなれそうもないようだ。