「まずい」ハンドルを握りしめたまま杉村が呻いた。「完全に切れた」
「マジで?」
覗き込むと、ギリギリのところでかろうじて揺れ続けていたガソリンメーターがぴくりともせず沈黙している。
旅行先の、ド田舎の、夜もとっぷり更けた誰も通りっこない畦道の途中で、ガス欠。ガソスタにさえ一つも巡り会えず。
「運が悪すぎる」でかい溜息が漏れた。「だから言ったんだ、せめてカーナビくらい新調しておこうって」
「仕方ないだろ、車検にあんなにかかったんだから」
杉村がはじめて買ったマイカーは、その当時からオンボロの中古車だった。それを何年も乗り継いできたものだから、燃費は最悪で、メンテの手間もかかる。特に今年の車検ではいくつもチェックに引っかかってしまって、テセウスもびっくりの部品交換が起きた。もはやこの車は、彼のマイカーとは呼べないのではないだろうか。
長い目で見ればいっそ買い替えてしまった方が安く上がるんじゃないか、そんな話も何度かあったが、そのたび杉村は渋った。愛着があるのか、単に金がないのか。
搭載されているカーナビも、よく迷走する。内蔵の地図データが古いせいで、頓珍漢な案内をされてしまうことも少なくない。こういった建物の極端に少ない場所だと、位置情報の取得にも難儀する。そういうわけで、土地勘のない俺と杉村は、ガソリンも残りわずかというところで見事に迷子になった。
今日はなんだか朝からうまくいかなかった。この旅行は、俺の思い付きで突如計画されたものだった。提案した場所がもとより田舎町ではあったのだが、元々泊まろうと思っていたホテルの予約が取れなくて、聞いたこともないようなうんと安くて小さいホテルを予約せざるを得なかった時から、雲行きは怪しかった。出発前には寝坊やら忘れ物でドタバタしたし、渋滞もあった。工事で迂回させられたりもした。道すがら寄った話題のレストランは不運にも閉まっていたし、天気も悪かった。
極めつけに迷子でガス欠だったものだから、俺も杉村も、少し苛立っていた。杉村は溜息を受けて、一度は後ろめたそうに肩を落としたものの、すぐに背筋を伸ばして噛みつくように口を開いた。
「大体、そう思っていたならお前がちゃんと地図を見てくれればよかったんだ」
「俺のせいかよ」
グローブボックスの中に畳まれている日本地図は、確かにこの間、一度も開かれることがなかった。けれどこれほど広範な地図、こんな狭い農道のど真ん中で開いたとして、どうやってナビゲートすればよかったんだ。
「そうだろう。お前は助手席で文句を言うばかりで、なにかするわけでもなく!」
「携帯の粗末なナビ機能に期待しろってか?」
「それにな、俺は朝からここまで運転し詰めだったんだぞ」
杉村は不機嫌そうに顔をしかめた。確かにここまで、俺は運転を変わってやるとは一言も言わなかったけど、疲れたから交代してくれと言わない杉村にだって非はあるのではないか。
「なら俺からも言わせてもらうが、お前は“交代しようか”の気配りもできないのか?」
「なんだよそれ。それを言ったらそもそも、お前が最初のホテルを予約できてたらよかったんだ」
「急に旅行に行きたいとだだをこねだしたお前のせいだろ!」
売り言葉に買い言葉。旅行前から蓄積し続けていた、お互いへの小さな不満が出るわ出るわ。一度吹き出したら止まらなくなって、いつしか全く関係のないことまで言い合っていた。
「お前が急に思いつくから、俺はわざわざ頭を下げて休みを取ったんだ」
「なら断ればよかっただろ、終わったことをあげつらって、女々しいやつだな」
「その女々しいやつを旅行に誘ったのはどっちなんだ!」
俺も面白くなくなって強い言葉で非難すると、杉村は徐々に眉間のしわを深くした。人差し指を向けて欠点を指摘してくる。普段は寡黙で温厚な杉村が、これほど不満を噴出させているのは珍しい。
「この際だから言わせてもらうが、ひとりでできるくせに、俺の前だとだらしなくなるお前を見るたび、いつも負担に思っていたんだ」
杉村は目を固く瞑ると一層渋っ面を濃くし、半ば怒鳴った。
「あまり甘えるなよ、俺が日頃黙っているからって。そう文句ばかり並び立てるなら、ひとりで来ればよかったんだ」
…ガス欠したくらいで、そこまで言わなくたっていいだろ。
俺は自分の表情筋に、はっきりと不愉快が刻まれるのを感じた。
それを見た杉村は、寸秒、怒りを解いて、おろおろした。すぐに言い過ぎたことに思い至ったらしい。おいおい、三村信史ともあろうものが、この程度の痴話喧嘩に本気になるなよ。頭の隅でそうたしなめる自身の声も聞こえたが、疲労もあってか、一旦顔に出してしまった感情をひっこめることは、なかなかできなかった。
「…いや、その、三村」
「いい」
俺は運転席に背を向けた。窓枠に頬杖をついて、田んぼしかない真っ暗な車外を睨むと、その窓ガラスに子供っぽい自分が反射して、少し虚しくなった。
「旅行に行きたいなんて言わなきゃよかった」
さらにガキみたいなことを重ねる面倒な舌。
今すぐロードサービスを呼べば済む話なのだ。最後に夕食を取ってから時間が経ってしまっているのもよくない一因だろう。補給してもらって再び走り出して、チェックインして、ちょっと腹ごしらえして。そしてすぐ温かい布団で眠りにつけば、それで終わりだ。明日からは切り替えて楽しめばいい。
気が立っている理由を俯瞰することで気持ちを落ち着けようとしたけれど、ガラスに映る自分の顔はますます悲憤を強くするばかりだ。大人になってからようやく自覚しはじめたことだけれど、俺は自分が思うほど、気持ちのコントロールが上手くない。杉村といると、特に。
「三村、悪かった」
すぐに謝罪を重ねられるこいつは俺よりも大人だ。単に怒り慣れていないだけかもしれないけれど、そうだとしても、意地を張り続けられるよりよほどいい。
そうされると、自分がよけいみじめになった。杉村以外が相手の時は、もうちょっとうまくやれている——と思う——から、彼の言う通り、俺は甘えているんだろう。いや、はっきり、甘えている。わがままを言って振り回すのが心地よかった、杉村は受け容れてくれるから実感が得られるのだ、愛されているんだということの。
今だって甘えている。これがもし豊との旅行だったなら、俺はきっとすぐに自ら謝って励ましてみせただろう。そもそももうちょっとあちこちに気を回したはずだ。杉村が相手だと、俺はいつもよりずっと、何倍もガキになった。
それが負担だったと言われたことが、思いがけずこたえているのだ、そう気付いた時、自分のあまりの小ささに、心中毒づいてしまった。たかがそれだけのことで、俺って。
「なあ、三村、悪い。そんなつもりじゃないんだ、つい。せっかくお前が甘えてくれているのに、俺」
「もういいよ」
本当にもういいのだが、杉村が焦りを解くことはなかった。自分のせいで傷つけたと思ったらしい。
「俺も悪かったし。ごめん、運転変わってやらなくて。予約も俺がすればよかった」
「三村」
抱いた不愉快がどんどん自分に向かっていく。言われてみれば、ほぼ俺のせいだ。いや、最初からわかっていたんだけれども、杉村なら許してくれると期待していた。
ようやく謝罪を口にすると、杉村はかえって落ち着きを失い、運転席を乗り出して俺の顔を窺った。
口元を引き垂ったまま見つめ返す。杉村はあぐねていたが、ややあっておそるおそる俺の頭に手を伸ばし、それこそ子供にするようにぎこちなく撫でた。しばらくそうすると、今度は頬に触れ、しょぼくれた声で、
「キスしたら怒るか」
「……………」
安直だ。だけど、すごく、してほしかった。
でも、
「そんなことされたら俺、また甘えちゃう」
「いいさ」
「負担なんだろ」
「負担じゃない」
「…言ってることちげーけど」
俺が軽く身を寄せて目を閉じ唇を差し出すと、杉村は鼻先を合わせてから、自分のものを近づけた。
啄むようなリップ音が狭くて古い車内に響く。控えめなそれは何度か行われ、そのたびに、単純な話だが、抱いていたすぼらしさが溶け出していくのを感じた。
やがて杉村はゆっくりと唇を離した。再度俺の頭を優しく撫でると、ポケットに手を入れて携帯電話を取り出す。
「山奥でもないし、電話したらすぐ来るだろうから」
ダイヤルボタンを親指でいくつか叩いて、耳元にあてがわれた携帯に俺は手を伸ばす。そして杉村の手のひらから、小型のそれを奪い上げた。
「呼ばなくていい」
「呼ばなきゃ帰れないぞ?」
「ここで一緒にいたい」
ここでの杉村との距離は、広い室内でそうしている時よりも近く感じられる気がした。なんだか今だけは彼を、とても近くに置きたかった。できるならどこまでも、近くに。
杉村は照れと当惑が混ざった表情をして、あわてて俺をたしなめた。
「こんなところで車中泊なんかしたら明日に差し障るし、気温ももっと冷えるぞ」
「くっついてたらいいじゃん」
「ホテルだって予約してるんだし」
「離れたくない」
上半身をさらに寄せ、抱きついて背中に手を回す。センターコンソールのあるわずかな空間さえも邪魔で仕方がない。胸板に頭を預けると、頭上から杉村のわざとらしい咳払いと、参ったようなため息が聞こえた。
「どのみちあとで呼ぶからな」
取り急ぎ今は、俺のわがままを優先したらしい。若干呆れた顔。あー、負担に思われてる。今。
けど俺は杉村への要求を止めなかった。キスやハグをねだって、言葉を求めた。
「なあ杉村、俺、お前と旅行に来たかったんだよ」
「ああ」
「ひとりで来ればよかったなんて言うなよ」
「すまなかった」
「好きだって言って」
「好きだ」
存外早かった。普段はあんまり口にしてくれない。
そうして甘やかされていると、これしきの不運や喧嘩を重大事のようにとらえていた自分や、まだ狼狽をにじませている杉村のことがなんだか急に馬鹿馬鹿しくなって、俺は小さく笑った。
「俺たち、まぬけみたいだ。こんなくだらない喧嘩でムキになって」
杉村は面食らったが、すぐに機嫌を直した俺の現金さに閉口したあと、その唇に同じような苦笑をたたえた。
「…電話していいか?」
「いいけど、来るまでキスしてて」
「外から丸見えだぜ、絶対…」
薄明るい室内灯で照らされた車内は、畦道の途中じゃきっと目立っているだろう。
俺は無言で、室内灯のスイッチを切った。