三村は太陽が昇る前に起床してベランダで一服するのを好んでいた。
朝に強いと本人から聞いたことはなかったし、早起きにも見えなかった。むしろ寝起きは俺よりずっと悪くて、仕事だろうと叩き起こしたところでいつも何分もぐずっている。一人の時はどうしているのだろう。単に甘えているだけかもしれないけれど。
そんな性分のはずなのに、どちらかの家に泊まった日の夜明け前には、よく隣から這い出てベランダへ向かった。三村が抜け出た後のぽっかりとしたシーツの形と肌寒さ、ややあって鼻腔をかすりはじめるニコチンの煙の匂いで、俺は三村が起きたことに気づく。
上体を持ち上げて彼の方を見ると、暗闇に沈んだ半裸のからだが、建物の隙間から伸びるわずかな朝焼けに切り取られたようにして一部だけ光っている。家賃重視で選んだ俺の部屋はそれほど日当たりがよくないが、三村はそこがいいと言って好んだ。日当たりが悪い方がいいだなんて妙なやつだった。実際、三村の部屋もそれほど日が当たるわけじゃない。
その、濃い影の落ちた住居群に差し込むささやかな光を眺めるのがおそらく好きなのだろう。と思う。三村はそこによく視線をやっていた。俺も出ていって、何の気なしに問えばきっと軽い調子で答えてくれただろうけど、なんとなく憚られて、邪魔する気も起きないまま、今に至る。
三村と付き合い始めてしばらくした。最初は記念日を気にしていたが、「いちいち祝わなくていい」と言われてからはやめた。俺もそういうものに頓着する方ではないから都合は良かった。だが、あれは強行すべきタイミングだったのだろうかと回顧することがたびたびある。あいつは嫌がっている時と、てきとうにうそぶいている時と、遠慮している時の境がよくわからないのだ。よくわからないように振る舞っているくせに、正しい答えを教えてくれるわけでもないので、俺はしばしば困らせられる。
記念日というものへの意識を彼方に追いやってから、三村と過ごした日々の重さも、合わせてあいまいになった。おそらく三年は経つのだろうか。四年だったか。さすがに五年ということはないと思う。
ただ、きっかけは鮮明に覚えている。あの三村がなんの気まぐれか同窓会に現れたのだ。毎年律儀に参加していた俺は、当然、三村が一度たりともこれに出席したことはなかったと知っていた。毎年いたかのように仲間たちと軽妙な会話を交わしていた三村。俺に話しかけてくるでもなく、瀬戸たちと笑い合っていたから、気に留めることもなかった。
一次会で引き上げて帰ろうとした時に、俺は彼に呼び止められた。
「もう帰るの?」
口元に挑戦的な笑みを刻んだ三村は、俺の手を引いて路地に連れ込むと首に白い腕を絡め、何か言うより先に舌を唇に捻じ込んできた。
そういえばこいつとそういう関係だった時期もあった。俺はそれさえ、三村のキスがあるまで忘れていたくらいだ——忘れていたというか、「押し込めていた」の方が正しいのだが。
たった数回のキスと、おそらく一回か二回あったセックスをずっと胸にきざしていたのかと思ったら、なんだかたまらない気持ちになって、ラブホの前で別れる時、俺から付き合わないかと言って捕まえたのだ。あの時は我ながらどうかしていたと思う。彼にとっちゃいつもの気まぐれか、遊びか、俺をからかっているにすぎなかったかもしれないのに。
ふう、と、タバコの煙を一杯に吸い込んで、そして吐き出す彼の微妙な肩甲骨の動きがここからでも見えた。美味そうに吸うなと思う。表情が見えなくても、骨の動きやその間が美しかったのだ。バックでする時に見るのも好きだ。翼が生える場所とはよく言ったものだ。そこまで考えて、ふいに、ベランダから飛んでいってしまいそうな妙な錯覚にとらわれて、俺は軽く首を振った。
そもそもなんの気まぐれであのレストランに降り立ったのだろうと、俺は今でも考えている。そうでなければいまだに生きているかどうかさえ知らないままだったはずだ。瀬戸はずっと連絡を取っていただろうが、わざわざ聞きただすのも何だか怖かった。死んでいたらどうしよう、なんて、感傷的にも程があることまでは思っちゃいなかったけれど、拒否されたら、あるいは受容されたらどうしようという思いは代わりにどこかにあった。
つまり、俺は、いっときの親切のつもりで、軽はずみに三村に応じたことを、ずっと後悔していたのだった。形だけ差し出したって、何の救いにもならないのに。
いや、三村はきっと、ずっと遊びのつもりだ。今だって、昔だって。そんなふうに自分に安い言い訳を重ね続けて経った時間、それが三村との日々が持つ意味のひとつでもあった。
三村がベランダから戻ってくる。咄嗟に狸寝入りのふりをした。数年は彼に明け渡す覚悟を固めたはずなのに、こういう時になると俺は大体こうだ。情けない。こんな弱さを克服できるのもまた拳法だったはずなのに、もどかしい小心を永遠に抱え続けている。
ごそごそと俺の隣に潜り込む気配。そしてひやりとした手が背から俺の脇、そして胸にすべりこむと、軽く抱きつかれる触覚と音を感じる。
「杉村」
声だけでは気持ちまで窺い知れなかったが、うんと甘えている時のものには似ていた。立てられていない柔らかな髪が俺の背にすりつけられる時、今すぐ振り返ってきつく抱きしめてやれたら、どんなに誠実なんだろうと本当に思った。
山ほど重なった愚問が俺の両肩にまとわりついて邪魔をするのだ。何のつもりで今ここにいる? 誰と俺を重ねている? 若しくは重ねていないのか? 休息に立ち寄っただけのことなのだろうか? お前が焦がれたまともな恋というやつは、いまお前の手元に在るのだろうか? それとも…。
俺の肩甲骨をなぜながら、三村は軽くキスをした。そこには昨夜三村自身が残した爪痕がいくつも刻まれていたはずだ。小さな、笑い声を含む息の音。
「いたいか?」三村はその、爪痕のうちのひとつを指先でなぞると、重ねるように爪を立てた。「痛いよなあ」
チクチクとした熱さ。三村はおかしそうに声を殺して笑っている。痛かった、だけど修行中に負う傷に比べたらなんてことはなかった。俺は極力傷なんてつけたくないけれど、三村は好んでいたようだった。そうであるならば、いくらでもと思った。背中を預けている。すると三村は情事の時よりはゆるい形で爪を立て、軽く引っ掛けて中程まで掻いて、それを浚うように手のひらで払った。
「消えなきゃいいのにな、これ」
消えることなんかないと言い返したかった。あの頃とは違う。決まっていつも、お前はここに爪を立てるのだから。
「メイク・アウト・スカー」
▶︎振り返る
身を起こして体を反転させると、三村の白い肢体と向き合った。三村は不意を突かれたようだった。「起きてたんだ」
「そりゃあ、起きるさ」俺はあくまで、しかたない、というていを装った。「お前が出てくと寒いし、タバコの匂いだってするからな」
三村は何度か瞬きした後、もしかして今までも何度か起こしちゃってた?と、ちょっと大仰に肩をすくめて申し訳なさそうにする。だけどたいして悪いとは思っていないだろう。
「隣でごそごそされたらな」
俺は右腕を自分の頭の下に敷いて、少し位置を高くすると、今はじめて思いついたような声色で問うた。
「何でわざわざ、毎朝起きてタバコ吸ってるんだ」
そんなふうに起きられるなら、いつもしろよ。
低く淡々とした感じは、なかなかうまい調子だったと思う。内心はだいぶ緊張していた。三村の一番柔らかいところに踏み込むことを、俺はしてこなかった。
三村は俺の言葉を受けると、やはりというべきか、うん、とひとつ頷くと黙り込んだ。ただし考えあぐねている様子で、これは俺にとって予想外のものだった。弁の立つやつのことだから、すぐにはぐらかされると思っていたのだ。
三村はややあって口を開いた。
「整理してるんだ」
「整理?」
「お前が、傷ひとつつけないように、俺のこと大事なもんみたいに丁重に抱いてくれる晩のこと、何かの間違いだったんじゃないかって」
間違いじゃなかったって自分に言い聞かせるために、整理してる。
そう言って三村はにんまり笑った。
驚いた。
彼らしからぬあまりにストレートな言葉と、目の前で示されているいかにも虚構っぽい笑みとがまったく結び付かなくて、混乱した。もし、この三年強、飽きずに毎回整理しているのだとしたらと思うと、いたいけに思われて、胸をむしりたくなるような感情に襲われた。自分がいかに気を遣ってやっているかを三村本人に勘づかれているという事実にも。ついでにこれが全部、こいつのお得意の嘲弄に過ぎないという最大の可能性にも。
相反する混乱を抱えて、どのみち困ったようすになった俺を、三村は揶揄った。
「お前やっぱりかわいいよな。俺は知ってたよ。毎回俺が戻ってくると狸寝入りするもんな?」
「うるさい」
「なあ、本当だぜ。俺、お前がこんなに大切にしてくれるなんて思ってなくてさ。でも考えてみりゃそうだよな。お前ってば昔からずっと一途で、けなげで、それがウリだったもんな」
「そんなものをウリにした覚えはない」
「すごく嬉しいんだよ、俺。なあ、もったいなくてさ、お前と過ごす時間をただ寝て終えちまうなんて」
「三村」
「でもちょっと杉村ってへんだよな。俺のこと、そんなにかわいいと思ってるなんてさ。心配してんだ?ベランダで毎朝何してるんだろうって——」
「三村!」
俺が名前を呼ぶと三村は心底楽しそうに笑った。風船が破裂したような笑顔。饒舌だ、とにかく。すぐにうつ伏せになって、組んだ両腕の上に顎を乗せると、やっぱりせせら笑いながら、なあと呼びかけてくる。
「俺からも一個聞かせてくれよ」
「なんだよ……」
「なんで傷つけてくれないの?」
そんなのわかりきってることだろうが、と睨めつけるが、引く様子はない。何年かぶりに出てきた俺のなけなしの勇気が、面白くてしかたないようだった。
「いつも思ってたんだ、お前も俺に傷つけてくれたらなって」
ちょいちょいと喉元を指してみせる。キスマークでも残せということだろうか。俺はキスマークもひとしく嫌っていた。鬱血の跡は痛々しい。三村が俺に仕掛けてきても、返してやることはこれまで——少なくとも付き合ってからは——なかった。
「好き好んで傷つけてやりたいと思う方がおかしいだろう」
「俺は杉村にアト残すの大好きだけどな」
「…」
それは知っていた。
ここ最近はそれでも加減を覚えたようだが、付き合いたての頃はひどかった。鏡で背を見てだいぶ引いた覚えもある。そういや、それこそ、毎朝先に起きてタバコを吸う習慣がついてからは、めっきりなくなったはずだ。因果関係があるのかも知らないけれど。
「なあ、つけてよ、お願い」
三村は俺のそばににじりよると、顔を寄せ、ちょっとした悪事に誘い込むふうにささやいた。
「……」
全く気は進まなかったが、他ならぬ恋人の頼みだぜ、とはしゃぐ三村の姿は悔しくも可愛らしかった。絶対に告げることはない感想だ。どうせ何から何まで、整理だなんて話も嘘っぱちに決まっているのに。
上体を起こし彼の肩に手をかけると、その表情は喜悦に歪んだ。鎖骨のあたりに鼻先を寄せて、皮膚の薄くなったところに歯を立ててやる。三村の体が小さく震えた。そして、ついた歯形の中央を強めに吸ってやると、震えが大きくなり、胸がくんと反らされる。俺の胸板に支えるように当てられた三村の指先が丸まる。唇を離すと、そこに忌み嫌っていた鬱血痕が出来ていた。
痛そうだという思いと、仄暗いほんの少しの欲情が、同時に顔を出す。
三村は綺麗に整えられた指先でそこに触れると、上擦った調子で言った。
「やばい、俺、鏡見るたびにここ凝視しちゃうかも」
「…そんなに嬉しかったのか」
「そりゃもう」
またやってよ、ともう次の話をし始める三村。呆れて、傷口なんだぞ、と諭すも、どこ吹く風といった調子だった。気おくれするほどの痕を残してくる三村だから、自身の体についた多少の痕はどうということもないのだろう。
「お前も、痕を残される痛みを学習したんだと思っていたのにな」
「え?」
「昔はもっとすごかっただろう」
あの頃の傷の数を思い出しながら嘆息すると、三村は虚をつかれた表情を浮かべた。
苦笑い。そうだっけと視線を天井に彷徨わせる。こうしてとぼけてみせるとき、大概彼は覚えている。シーツを己の身から引っぺがすさまはかなり急で、わかりやすい誤魔化しに思われた。
「いいだろ、そんな昔のことは」
「なんだ、それ」
「つまり……必死だったんだよ、色々と、」
今より三つ四つも若かった、そういうことだ。振り返りざま見せたのは、とってつけたような皮肉げな笑みと、やたらアメリカンナイズなお手上げのジェスチャー。そうしてぶっきらぼうにまとめると、三村は立ち上がり、手近に丸まっていたシャツを引っ掴んだ、おそらく俺のものだ。コーヒーを飲むかと聞かれて頷くと、シャツを乱雑に腕に通しながら足早にキッチンへ向かっていく。
その、ワンサイズ大きめのシャツの襟ぐりの隙間からさっき残した痕が見える光景は、率直に言って良かった。
そして、傷跡を必死になって残そうとする三村の心情を俺なりに思案して、それから俺も照れた。