在処は更紗

 田舎のホームセンターは大きい。大体なんでも揃っている。大工用品や家電資材は勿論のこと、日用品や、ちょっとした食料品まで取り扱っている。主にここに用があるのは日曜大工やガーデニングの愛好家だろうが、学生も授業や部活で急な道具の用意を要求された時なんかには訪れることもある。今日の俺達もそうだった。
 目的は接着剤とヤスリだった。技術の授業で、木工製作のために必要になったのだ。店先に入ってすぐに見つかったので、俺はすぐに会計をして帰ろうとしたのだが、一緒に来ていた杉村がふらふらとペットショップコーナーの方に歩いていったため、仕方なくあとを追った。
 杉村は動物が好きだ。やつの幼馴染の千草がハナコだかタロウだかという犬を飼っていて、もう少し小さい頃は、よく一緒に散歩したのだという。そんなだからしょっちゅう付き合っていると噂を立てられるのではないかと思うのだが——それは一旦置いておくとして——その、ハナコだかタロウを羨ましがった幼年期の杉村は、よく親に自分も犬を飼いたいと駄々を捏ねたのだと、以前に聞いたことがある。
 結局犬は飼ってもらえなかったらしい。それで今でもよく、通行人が連れている犬や猫や、ショップで売られているペットをなにやら羨ましそうに眺めている。子供らしさの見えない杉村にも、一応そういう一面があるようだ。
 杉村を追ってペットコーナーの一角に入っていくと、意外にも彼は犬猫の販売エリアではなく、観賞魚のエリアで佇んでいた。暗く落とされたゾーンの中で、並ぶ水槽だけが青白く照らされており、そのそばで鬱蒼と佇立する杉村は幻想的というより不気味だった。背も一八〇センチたっぷりあるのに、そのタッパと強面で無遠慮に金魚を睨んでいるのだ。そりゃ怖い。睨んでいるのではなく、あれは羨望の目つきなのだろうけど。
「何見てんの?」
 その背に声をかけると杉村は目線だけ俺によこし、それから無言で水槽を指差した。
 さっきも述べたとおり、それは金魚だった。あまり詳しくない俺でも、これは見事なものなんじゃないかと想像がついた。ふっくらとした丸い体に、絹布を広げるがごときの長い尾鰭。確か金魚は丸くて大きくて、頭の肉瘤が発達しているほど高いと聞いたことがあるが、その理屈で行けばこいつには、こんなホームセンターで取り扱っているのが信じられないほどの高値がついているのではないだろうか。そう思い値札を見ると、やっぱり考えていたよりもひとつゼロの数が違っていた。ただの魚ごときにこれほどの金を払う好き者が、世の中に存在しているだなんて——失礼にもそう思った。俺はペットにはてんで興味がない。
「金魚も好きだったなんて初耳だな」
「ああ、好きだ。昔、犬のかわりに金魚を飼ってもらったことがあったんだ。小さなやつだったけど」
 杉村は懐かしむように、目だけで魚に笑んだ。
 よくありそうな話だ。犬猫を飼うには責任が伴うから、金魚で我慢しろという。ご家庭の教育方針に口出しする気はないが、それは愛玩動物の命の種類にランク付けをしているのとまったく同義であり、とりわけ金魚をその底辺に位置づけている証拠にほかならないのだが、こいつはそれにはついに気が付かなかったらしい。俺はこっそりと冷ややかに、杉村の横顔に視線を送った。
「毎日世話をしたよ。水が汚れていたら換えて、朝と夜に餌をやって——ああ、でも、俺は餌をやりすぎだったんだって、死んでしまっただいぶあとになって知ったんだが」
「ふうん」
 俺は気のない相槌を打った。魚の餌やりの適切な頻度は知らないが、まめに世話に取り組む杉村少年のようすは容易にイメージできた。朝になるといの一番に水槽に駆け寄ってチェックして、餌をやって、小学校に行って、帰ってきたらシューズもランドセルも玄関に投げ捨てて、また一目散に水槽に駆け寄って。おおよそそんな感じだろう。
「金魚ってかわいいの?」
 訊いてみた。犬猫の魅力ならわからないでもないが、言葉も解さない魚に愛着など沸くのだろうか。犬猫は愛情を打ったぶんだけ返してくれるというが、魚はそうではないように見える。見返りのないことがわかりきっている愛なんて与え続けられない。俺ならすぐに世話が面倒になってしまいそうだ。
 だけど杉村は口端をわずかに上げて「可愛かったよ」と呟いた。彼にとっては本当に可愛くてしかたなかったのだろう、そんな笑みだった。
「金魚も顔を覚えるんだよ。俺が帰ってくれば口をパクパクして餌を催促するんだ。それが可愛らしくてな」
「それって餌が目的なだけであって、お前に懐いてるわけじゃなかったんじゃないの」
「そうだとしても、可愛かったよ、やっぱり」
 杉村の目線はまっすぐ、金魚の、優美に舞う鰭らに注がれている。あくまで美術品としてなら、俺にもその魅力は理解できるけれど。
「だから、たった二年そこらで死んでしまった時は、結構ショックだったな」
「金魚の寿命ってそんなもんなんじゃねえの?」
「いや、上手くやれば十年、それ以上生きることもあると聞くぜ。それくらい生かしてやるんだってあの頃の俺は息巻いていた。初心者だっていうのにな」
 そう言って杉村は自虐的に肩をすくめた。魚の飼育に初心者も上級者もあるのかと思ったが、杉村の言いぶりを信じるならあるらしい。“上級者”なら、へたな犬猫よりも長生きさせられるんだろう。きっと。
 俺は改めて、ガラス一枚向こうに隔てられた金魚をねめつけた。
 毛のある動物よりよほど知能のない、額縁の中で端麗をふりまく以外に存在意義のない魚。その泳力を失った体型では、ひとたび川や海に放り込まれれば生きていくことなどとうていできないだろう。頭部の肉瘤もいかにも邪魔そうだし、今しがた聞いたところだと水換えも欠かせないという。きっと品種改良の結果で、細菌やら寄生虫にも弱いのだろう。
「ただ綺麗なだけじゃん、他にはなにもない」
 ライティングを受けて透ける尾鰭を見つめながらぼやいた。すると杉村がようやく俺の方を見た、その気配がした。含みのある視線を流しつつ、つっけんどんに言い置いた。
「世話されなきゃなにもできない。言葉がわかるわけでもない。得意の泳ぎだって人間様に奪われた、ただ綺麗なだけだ。それってそんなに価値のあることなのかって、俺は思うけどね」
 低ランクに位置づけられるわけだ。そう吐き捨てそうになって、さすがに呑み込んだ。杉村の両親の思想ごと否定するつもりはない。
 水槽から視線を離せば、杉村は目を点にして俺を見ていた。「…三村、金魚嫌いだったか?」途方に暮れていた。憤ってはおらず、むしろ嫌いな話題を振ってしまったかと反省しているようなそぶりだったので、俺は慌てて付け加えた。「いや、そういうわけじゃなくて、俺はそもそもペットっていうのが窮屈そうで好きじゃないんだよ」言ったあとで、なんのフォローにもなっていないことに気が付いた。
 杉村は眉間にしわを寄せ、言葉に窮してまた水槽に目を移した。
 何ムキになってるんだろうか、俺は。杉村の様子を見て、ちょっと反省した。ひとの好きなものを下すのはよくないことだ、いまどき小学生でもわかるコミュニケーション術のはずなのに。俺も気まずさから逃げるように金魚に再び目をやった。
 なみなみの沈黙が場を満たした。俺たちはその静寂に溺れるように、ただ水槽を眺め続ける。なんの変化もなくゆらめく水草や気泡の合間を、金魚だけが優雅に漂っていた。
 どれくらい経ったか、俺はやっとひとこと謝ろうと思い、重い口を開いた。しかしそれより先に早く、「お前は」杉村が沈黙を、おそるおそると細く裂いた。
「美しいだけじゃ意味はないというが、俺は、そんなことはないと思う」
 俺は咄嗟に杉村を見た。その瞳は未だ金魚に向けられていたが、視線がいま熱心にそれに注がれているわけではないらしいことが、その横顔からうかがえた。もともと細めの目元は、ブルーライトを反射して青く揺蕩い迷いを帯びている。薄く広い唇は難しく結ばれているが、それが時々慎重に言葉を探しながら、ゆっくりと開いた。
「少なくとも俺は、美しいというだけであいつに愛着を持ったし、可愛がったよ」
「…それは、見た目の美しさだけじゃなくて、しぐさとかさ、」
「しぐさだって同じだろ」
 杉村は水槽から俺に視線をうつした。いたわるような緊張した面持ちが、目線を彷徨わせつつも、おもむろに静かに、俺の瞳を見つめた。それは青い光をちかちかと受けて、不思議な紺色に輝いている。場違いにも、今度こそ幻想的だ、そう感じた。
「俺は、美しいというだけのことにも、意味はあると思う」
 丁寧に、間違えることのないように、繰り返した。
 俺はその言葉とまなざしに、一瞬、息を呑んだ。その狭間に生まれた刹那の無音が、俺にはさっきの沈黙よりもよっぽど、永遠に感じられた。
 悟られないように、すぐに返した。「…思想の違いってやつだな」そしてごく自然に顔を背けた。
 その台詞を、真正面から受け止めてしまいそうな自分がいた。色んな感想が、即座に頭を過ぎっていった。
 ——そんなわけないだろ、ばかか? ——そうか、そうだといいな、とても。 ——ありえない。 ——俺もそう思いたいよ。 ——それだけのことに意味があるというなら、じゃあ、必死に織り続けてきたこの言葉や知覚はなんだったんだ? ——ここじゃあ、本当に美しくあろうと思ったら、生きてなんかいけないのに。
 ばかばかしい、俺が一番。金魚の話をしているんだ、俺もこいつも。
 もう一度、息を吐いてから深く吸い込んだ。その後ろから、「三村」杉村の心配そうな声がする。「悪いな、お前がペット嫌いだとは知らなかったものだから」…気が付かれてはいないようだ。
 俺はちょっとの準備を整えると、再び向き直り、いつもの笑みを形作った。動揺ごと取り繕うように、適当なごまかしを並べ立てた。
「いや、俺こそ悪いな。ちょっと羨ましかったんだ、ペットにいい思い出があるお前がさ」
「なんだ、そういうことか。お前も飼ってみればどうだ?案外可愛く思えるかもしれないぞ」
 杉村がほっと相好を崩したから、俺もつられて少しだけ、ペットを飼育する三村家に想像を巡らせてやった。
 …どのみち縁遠そうな話である。ひびわれた俺の家にペットがやってきたとして、いまさらなんのかすがいにもならなさそうだ。それでも、案外可愛く、思えるのだろうか。そんなのそれこそ適当な想定だ。
「うーん、俺はやっぱりいいや」
 杉村は残念げに眉根を寄せたが、それ以上は追求しなかった。あまりこの話は広げない方が良いと判断したらしい。
「とにかく、そろそろ帰ろう。明日もあるし」
 俺の言い訳自体には、すっかり納得した様子だった。話は終わったと言わんばかりに俺の脇を通り過ぎ、出口まで歩いていく。途中まで歩を進めたあと、ついてこない俺に気付いてか足を止め、振り返った。また不安をかすめた声が俺の名を呼ぶ。「三村?」
 俺の足元にはまだ、金魚の話が絡みついていた。自嘲がその上をさらに這いずってくる。無自覚に人の思い出に噛みついて、勝手に刺された気になって、そこで足の裏にあった狭量と嫉みをやっと見出して、なんなんだ、俺は。ぎりぎりまで落ちた照明の中で、青白く光る水の光に暴かれて、今度は俺が鬱蒼となる番だった。
「三村」
 杉村が俺に駆け寄った。俺は明るく返す。「なんでもない、ちょっと検討してたんだよ、金魚」
 訝しげに片目をすがめられる。今度はさすがに納得してくれていないようだった。「帰ろうぜ」声を上げるが、杉村は探るように俺を覗き続けた。そして、ひとまずのため息を漏らすと、やや惑ってから、俺の手を取った。
 引きながら、ペットコーナーを出るすがら、こう言った。
「お前が飼えないんなら、また俺が飼うよ」
 興味があるなら、見に来ればいいさ。そうちらりと笑った。
 その杉村の慰めは、今の俺にとってはすこぶる的外れなものだった。だけど優しい、残酷なまでに。
 その後頭部を見つめながら、軽い礼を口にした。杉村は得心したように何も言わなかった。俺もそれきり黙り込んだ。その手は出口脇の駐輪場ですぐに離されたけれど、それまではずっと俺たちは、揺蕩うように歩いていた。ゆるく繋がれた手が流れに解かれてしまうまで、ずっと。