終幕

 場違いな拍手が聞こえた。まばらでいささか力ないその音を辿って杉村は歩く。もう、急ぐ必要はなかった。そして彼女とは違って、すぐに彼は、見つかった。
 木造の学生椅子に、片膝を少し行儀悪く立てて腰かけた三村は、やってきた杉村を歓迎するように拍手の手を止め、その腕を広げた。
「お疲れ。ハグしてやろうか」
 農協で死んでいた彼を見つけた時、体は穴だらけだったはずだ。それがすっかり塞がっている、どころか制服を焼いていたはずの銃痕さえ見当たらないということはつまり、とてもばかばかしいことだがここは、死後の世界、黄泉の国とやらにほかならなかった。それか走馬灯。その可能性を一考し、杉村は首を振った。
 ない。琴弾にせいいっぱいの想いを伝えようとして、言い伝えられなくて、そのまま意識を落としたことははっきりと覚えていた。そこまでに三村の顔がよぎったことは何度かあったけれど、その時ばかりはかけらも頭になかった。
 だから杉村は一瞬、「なにかの罰ゲームか?」そう思った。し、言った。なぜここで最初に出会うのがほかの縁深いだれかではなく三村なんだと、一番に疑った。
「俺がここにいちゃいけないか?」三村は空振った腕に目を落として唇をすぼめた。腕を曲げると、顔の両横で手をパーの形に広げて呆れの手真似をとった。「ここで待ってやってたんだ。追い続けた杉村くんに、待っててくれるだれかがいる喜びを与えてやろうってね」
 ここ。そこは教室だった。城岩中学校の自分たちのものに思われた、というのは、窓の外にとても馴染みあるグラウンドがあったので。杉村は自分の来た道を振り返った。夕焼けの赤い日に照らされた己の、濃い影がそこに落ちている。今入ってきた扉は開け放たれたままで、だけどその先にあるはずの廊下はなく、ただ、暗闇のかたちに切り落とされていた。それだけでなく、廊下のある方の窓はコンピューターグラフィックの読み込みが間に合わなかったかのように漆黒で埋め尽くされていて、だけど反対側の窓には見事な夕暮れが映し出されている。アンバランスだった。
 杉村は三村に一歩近づき見下ろした。突くような目をした三村は、立てた片膝をもう片方の腿に乗せて足を組むと、「まあ座れよ、歩き詰めだったろ」と言った。
 杉村は素直に三村の隣、窓に近い位置に座る三村の、廊下側の横の席に腰かけた。誰かの席だと思われたが、荷物がかかっているでもなし、判別することはできなかった。他の席にも、そこに座っていたはずのクラスメイトが使用していた痕跡などはない。外に広がるのは間違いなく城岩町の光景なのに、この教室だけが急ピッチで拵えたセットみたいだった。
「見てたよ」
 三村は目を細めた。自分の最期のことを言っているのだと杉村は察した。いつものようにからかわれるかなにかするのかと訝ったが、それきり押し黙ったので、そういう意図で言葉を放ったのではないということも、わかった。
「そうか」
 杉村は、そう返した。様々な想いが胸中を駆け抜けていった。琴弾に撃たれたことへの哀傷もないではなかったが、そんなことよりも伝えられてよかったという気持ちの方がずっと強かった。勿論生きていたかったが、杉村はある程度、満足していた。及第点といったところか。心残りがあるとすればそれもやはり琴弾のことで、自分が死んだあと、彼女は桐山にやられなかっただろうか、無事逃げおおせて七原たちと合流できただろうか、かすめていったのはそればかりだった。
 それを振り払って杉村は言った。「お前も、ご苦労だったな」
「まあな」三村は肩をすぼめた。「失敗した結果がこれなんだが」
 農協の、まるきりアクション映画の爆発シーンのようになっていた姿を杉村は思い出した。三村があれをやったのか。だとしたら相応に三村は、最期まで、戦って、戦ったからここにいるのだった。疑いの余地なく。
「俺、必死だった」杉村は、ここに来た時に放った言葉を申し訳なく思った。巻き取り直すように言った。「お前のことを考えている余裕がなかった。合流したいとは思ったんだ、だが——」
 三村は、続けようとする杉村を制して穏やかな口調で言った。
「いいんだ。俺だって、お前のこと考えてる余裕、なかった。それに、お前が俺のこと考えてたなら、俺、怒ってたかもしれない」
「怒ってた?」
 少し目を開いた杉村の、その上下に広がった白目を見て、三村は口角をわずかに上げた。
「やるべきことをやれってな」
 杉村は顔の造作を朗らかに崩した。「およそお前らしくない台詞だな」
 三村は答えずに、窓の方をふと向いた。ならって杉村も、ちょっと背筋を伸ばして、そちらを見る。放課後のこの時間の、野球部のだれかが球を打つキンという音や、吹奏楽部のトランペットやクラリネットなどの幾重にもなった音が遠くから聞こえてくるのが、好きだった、好きだったかもしれないと、杉村は回顧した。ここからだとトラックを陸上部が走っているところもよく見えた、無論今は誰も走ってなんかいないのだけど。当たり前としてそこにあったので、好きだなんて想ったこともなかったが、きっと、それらすべてが、好きだった。
 三村の後頭部に杉村は目を移した。ブリーチで一旦色素を抜いてからハイトーンのブラウンを入れた短髪。そのすぐ脇にある、片耳に引っかかったおなじみのピアス。すっと長い首に嵌っていた首輪は今はなく、彼の美しさを損なっていなかった。よかった。目に焼きついた彼の最期の姿は、ひどかった。思い出したくもないのに、瞬きするたびに鮮明に粘ついてくる映像。それで杉村は、好きだったものが損なわれた悲しみを抱いている自分に気がついた。これも、よかった。その痛みに慣れていなくて。
「俺、学校、好きだった」
 その姿勢のまま三村が話し始めた。逆光になった背中を杉村はじっと見つめる。
「ダチがいて、ばかやってさ。バスケも楽しかったし。授業は、まあ、だいぶたいくつだったけど。女の子にもてるってのも全然悪い気分じゃなかったな、はは。もしかしたらちらっと言ったかもしれないけど、俺、親がろくでもなくてさ。だからかわりに…ってわけじゃないけど、叔父さんのことばっかり見てた。叔父さんみたいなイカした生き方がしたいって、ああ、これ、多分話したこと、あるな。俺って叔父さんのことばっかりだったかも。ひょっとして、聞き飽きてた?」
 三村が振り返った。やはり顔は逆光になっていたが、笑みの形になっているように見えた。
「飽きてなんかないさ」杉村は優しく答えた。「続けろよ」
 三村は頷いた。「それで」再び外に目線をやった。
「親がろくでもなかったから、帰るのがちょっと、煩わしかったんだ。郁美だっていたし、いやなことばかりじゃなかった。慣れてもいたけれど、…ちょっと。別になんでもなかったけど、…だから、………、——学校のこと、好きだった、かもしれない、って。今思った、…ちょっとだけ」
 言葉を少し選ぶような感じで、三村は歯切れ悪く、けれど静かに、八ミリの映写機をハンドルでゆっくり回すように、呟いていった。
 全く三村らしくない様相で並べられたその言葉たちを、杉村は丁寧に、聞き取った。「そうか」と、もう一度相槌を打った。
「だからすげえ腹が立ったんだ。このやくたいもないゲームに。でも」また言葉を選ぶように舌を止めてから、「だめだった」
 杉村は頷いた。三村がゲームに乗らなかったであろうことはずっと前から確信していた。そういう男だ。
 三村は少し顎を引いて、俯くような形になってから、杉村に目線を戻した。その表情はおそらくはじめて見るほど静かな、無表情とさえいっていいもので、杉村は少し驚いた。が、まったく、怖くはなかった。
「お前みたいに、一途なの、いいなって感じてたんだろうな。だから、曲げたら怒るかもって、そう、思った」
 その無表情に、絵の具を一滴垂らしたように、感情が呼び戻ってくる。じわりと彼は、微笑んだ。
「多分、きっと、かもしれない」
 そこまで言って、三村はその笑みを掻き消すように別の笑顔を作った。鮮やかな嘲笑のような、やつ。「なんてな」
 杉村には、その笑顔を縁取るように走った薄橙の線が、頼りなさげな細いものに見えた。殺しても死なないとまで思っていた三村が、死んだのだ、永遠に損なわれたのだということを、身に沁みて感じた。そしておそらく、ここに長くもいられない。
 杉村は、己も言葉を少し選んで、選び取って言った。
「俺もお前が好きだったよ」
 三村が、彼にしてはわかりやすく、目を丸くした。
「みんなが好きだった。かもしれない、じゃない。お前のことも——すごく」
 それを耳にした三村は、丸くなった目を半月の形にして唇を歪め、ややコミカルに、責めるように眉根を寄せた。
「言えてよかった」杉村は伝えて、立ち上がった。そして、「行こう」見上げてくる三村に右手を差し出した。「ゆっくりだ。もう走る必要も、ない」
 三村は半目の瞼をまたちょっと開いてから、再び笑顔を作った。今度は苦笑。
「一途って褒めてあげたはずだったんだけどな」
「何かおかしいか?」
「いや?」
 そして利き腕の左手が、戸惑うように一度彷徨ってから、おずおずと杉村の右手を握った。杉村は三村を引っ張り席を立たせてやると、その手をしっかりと繋ぎ直して、歩き始めた。今度は何も損なわせない、ために。
「このまま行くのか?」
 思わず三村が訊いた。杉村は答えた。「ハグの代わりにな」
 三村は伏し目になって「そうかよ」とぼやいた。杉村は普段三村がするようにいたずらっぽい笑みを浮かべると、彼を連れて教室を出た。
 切り落とされた地獄のような暗闇の中を、臆することなく、歩いていった。