旅路は天へ、銀河まで

転:1025年 春

 それから何度か暁と桂は夢の中で語らった。この夢に関する真剣な推察を話し合うこともあったが、おおよそは互いの一族の話だった。
 夢は毎日ではなく、約1ヶ月おきにやってきた。起きている間は思い出すこともなかったが、眠っている間に、時折、あいつは今どうしているのだろうと夢想することがあった。普段夢を見ることもなく快眠を貪る自分が、ときたまこうして半覚醒のさなか思考できる瞬間があるということ自体、暁にとっては吃驚だった。
 そういう時はたいてい、次に会うのが楽しみになった。夢の中でしか会えない、志を同じくする戦友。目覚めている間も思うことができたなら、もっとよかったのにと惜しんだ。
 そして、その夢の日がやってくると、暁は再会を喜び、限られた眠りの時間を会話に費やした。
 桂が喜びをあらわにすることは一度たりともなかったが、おそらく、悪く思ってはいなかっただろう。

 季節は春になった。
 暁の目下の不安は望へと移っていた。日々目に見えて体調が悪化していっているのだ。呪いの症状であることは誰が見ても明らかだった。
 4月頃、暁は望を救うため、決戦の舞台に向かうことを決断した。
 自分か次の代で、と暁は考えていた。自分が朱点とやりあえるのかを暁は己なりに慎重に検討し続けていた。家族が茨城大将に殺されかけたこともあったので、今代では難しいのではないかとも思ったのだ。
 しかしいざ、悪くなった望を見た時、諦めるという選択肢は暁の中から掻き消えていた。いや、最初からなかったかもしれない。あれから暁は、息子のコスモを授かった。穏やかで優しく、手芸を好きだという彼。そのまだ柔らかい指を見た時、行くしかない。そう思った。
 急な決定は、天ノ川一族に、無茶な行軍をもたらした。拙い作戦を組んで、地獄で多くの薬を回収した。求められた踊り屋の来花は期待に応じて奥義を創作したが、彼女もまた無理をしているようだった。弟分の樋掛もまた、行軍中には何度か弱音を漏らしていたし、彼のための休憩も幾度かとった。望は、言わずもがな、だ。
 けれど誰も文句を言わなかった。助かるため、助けるために。その希望がみなを突き動かしていた。
 ある4月の晩、座敷に訪れた暁が桂にその話をすると、桂はそうかと小さく微笑んだ。
「行くんだな、ついに。頑張れよ」
 とても簡潔な言葉。しかしそれは暁にさらなる勇気をまねいた。たとえここから去ったあとにそれそのものを覚えていなかったとしても、暁にとって、それは意味のある言葉だった。
 それから桂は術の重要性を語った。なんでも野分が素晴らしい術だと悟ったらしい。己の娘が危険な目に遭ったというので、野分を駆使して潜り抜けたという話。最終決戦に向かうなら、攻撃だけじゃなく、補助にも目をくばれと桂は力説した。非常に桂らしい戦法だった。
「確かに俺たちって、補助術のことなんにも考えたことなかったな」
 脳筋ばかりの人員を思い並べると、桂はまた露骨に呆れ顔をした。天ノ川にも桂がいたらちょうどいいかもしれないと思った。

 5月。暁は朱点を討ち取った。ついにやったのだった。
 戦いは険しかったが、みな、よく働いた。危険因子だと黄川人に認識された暁は、何度も寝太郎の術を受け、まともに動くことができなかった。そこで樋掛が白鏡の詠唱をみなに提案したのだとあとから聞いた。桂の話を暁は思い出した。そういえば決戦前に、術もなんでも使えと話した気がする。その時の暁は桂のことなど覚えていなかったはずだが、なぜか、話したのだ。
 寿命間近の望は頻繁に狙われたが、その猛攻をすべて奥義で切り返していった。まさに剣豪と呼ぶほかない動きだった。望の燕返しは、彼自身を守るだけでなくむしろ、黄川人の多くの手を無に帰していた。あれは、望だけでなく、家族をも守っていた。
 来花が土壇場で会得した獣踊りは、梵ピンよりも速くみなの身体を強化した。家族が暁に白鏡を唱えた。大砲のような猛撃が望から、来花から、樋掛から。そして暁自身から放たれた。そしてついに天ノ川家は、朱点童子を撃破した。

 だが、一族が解呪することはなかった。暁が裏京都への侵入を承諾したのだ。
 戦いを終えたあとのある晩、暁たちの屋敷に、昇天したはずの黄川人が現れ、言った。
「こんな幕引きで納得できるの?」
 あれからほどなくして、太照天昼子が行方をくらましたのだという。天界は大騒ぎだった。彼女が逃げ込んだとされたのが、水盆に映った幻夢の世界、裏京都。
 暁は望の体調を確認してから、承った。
 これまでの気苦労を忌んだからではない。昼子と戦える、それはこの世界の天辺を知るということに相違なく、そして暁が抱き続けていた強い衝動の、終着点でもあったのだ。

 信じられない。そう言われるだろうと暁は浮き立っていた。桂なら、軽い罵倒をさしこんだのち、また激励の言葉をくれるだろうと根拠なく惟っていた。
 しかし、その日の座敷に訪れた桂は、意気消沈していた。暁のその驚くべき決断を耳にしても、そうか、と力なく言い放つのみだった。
「…何かあった?」
 暁は聞いた。まさか、人でも死んだのでは。桂は軽く首を振って、そういうわけじゃない、みんな無事だ、そう頼りなく呟いてから続けた。
「…僕は、だめな当主なのかもしれない」
 彼らしからぬ言葉に暁は瞠目した。桂は自分と同じ、自信にあふれた男だとずっと感じていたのだ。自身の策にも、在り方にも、桂は矜持を持っているようすだった。彼は細身だが、その振る舞いは威風堂々たるもので、おぼつかないやつだと感じたことは、これまで一度もなかった。
「…紅蓮の祠で、…宝箱、……養老水が……なかったんだ」
 唐突に桂が、とつとつと話し出した。暁は一瞬、追いつかなかったが、言葉をかけぬまま続きを促した。椅子に腰かけた桂は、膝に肘を立てると、その両手のひらに顔を埋めた。
「僕は眉だけでなくて、また春日を」
 それだけで暁は何があったか理解した。春日がまた、なにかで死にかけたのだ。幸い、彼女の命は保たれた。だけどそれは先月の眉の時のように充分な準備が行われていたからではなく、きっと、完全なる偶然か、春日の驚倒すべき生命力の所以に違いなかった。
 桂は自分の采配を悔いているのだ。そして、春日のその生きるちからにしか頼ることができなかった己の無力さを。
「誓ったんだ、僕は。あのひとから指輪を譲り受けた時、こうはならないって」
 桂の、前当主への並々ならぬ失望は、暁も感じ取っていた。凡庸で、何度も春日を危険に晒した女だと。そして独善で桂の父を守り抜き続け、結果、彼は望まざるにもかかわらず神となった。
 流れを鵜呑みにするなら、桂の父が神になったのは、彼自身の意志だ。だけど桂は「望まざるにもかかわらず」と断じていた。その決意を作り上げたのは前当主だと桂は感じているようだった。暁には、流れに対する憎しみの形をどこに置いていいかわからず、彼女に押し付けているようにしか見えなかったが、詮索することはなかった。そこに触れてはいけないような直感があったのだ。
 だけど目の前の桂は、強く悔やんでいた。打ちひしがれているようだった。
 暁は不安になった。強く在り続けていた、在り続けようとしていた彼が、壊れてしまうのではないかと、一瞬感じた。壊れるほど脆い存在ではないという信頼もあった、それでも。
「…春日サン、今は?」
「目覚めない、息はしてるけど」
「きっと、すぐに起き上がって、けろっとメシでも食い出すって」
 暁は慰めの言葉をかけようとしたが、それを桂が大声で遮った。
「だから嫌なんだよ!」
 激昂し、勢いよく立ち上がった桂は、肩で息をしたあと、そのままずるずると座り込んだ。組んだ手の甲に上に額を乗せ、その表情はまた見えなくなる。
「僕には責任があるんだ。血を繋げ続ける責任が。家族を守る責任が」
 今の桂は、なんだかすごくあえかに思えた。彼の身に背負われていた重圧は、なぜそれほど重さを増したのだろう。その重みに潰されそうになっている彼は、やっと吐き出すようにこぼしていく。
「絶対に失敗しないって誓ったんだ、この指輪に。家族が安心して戦えるようにするのが僕の…、当主の役目のはずなんだ」
 それに、と桂はゆるく顔を上げる。泣いてこそいないが、その瞳は雨が降る前の夜のように沈溺していた。
「…春日が……痛みを我慢していないはずは、ないんだ」
 搾り出すような声が、座敷の暗闇に消えていく。
 桂自身には、死にかけた経験はないらしい。けれど桂は春日が死の危機に瀕するさまを何度も目にし、それから娘の眉のも、見たのだという。
 いつかの語らいで彼が言っていたことを暁は思い出す。彼の父——帳という男は、春日が目を失った時のように大水に流されて、生死のふちを彷徨ったらしいということ。その時には桂はまだいなかったが、帳の魂はずっとその瞬間を回顧していた、そう嘲笑を浮かべる彼の姿。たかが父の愛情をもらえなかったごときで、そう過去に囚われ続けなければいけないものなのかね。くだらない。
 暁には帳という男の姿はわからない。話を聞くだに、暁の大切な仲間、白羊に似ていたともいう、その男。きっとその時の帳は、こんな姿をしていたのだろう。桂の瞳は、泥の中を彷徨うように、濡れていた。
 暁は、他人だ。桂の痛みなどわからない。知る由もない。共感もできない。だが、この宇宙で、桂に手が届くのは今、同じ魂を持った暁だけだった。
「なあ」
 暁は立ち上がると、桂の前にしゃがみこみ、その右肩に厚い手を乗せてやる。おそるおそる覗き込む。
「そいつは、いつだって活発で、何も気にしてないんだろ」
 桂の瞳を見つめると、きっぱりと言った。
「だったら、その態度を信じてやれよ」
 何をぬかしているんだと言いたげな桂を見上げ、暁は続けた。
「俺たちみてえなタチのやつはさ、態度で語ることしかできねえんだ。知っての通り、”ぼきゃ貧”なんでな」
 いつでもそうだった。暁は強い言葉で発破をかけることくらいしかできなかった。それでもうまく回っていた。暁の言葉は表現に富んではいなかったが雄弁で、真実味があった。嘘をついたことなど一度もなかったからだ。常にすべてが叶えられる自信があったし、覚悟を負っていた。
 みんなそれを信じた。暁が言うとすべてが現実になるような気がした。
「そいつの言葉や態度に、嘘なんかねえ。ほかの誰が嘘ついたって、お前の手に届かないトコにあったって、そいつは絶対いつも、お前に本当を示してる。俺には、わかるんだ」
 これは多少盛った。春日は暁ではない。だが暁は言い切った。真実を真実たらしめるなら、言い切る必要もあった。
「お前はそいつの、そういうトコが好きなんだろ?」
 だったら、それを信じてやれよ。
 静寂が訪れる。暁はがらにもなく、少々緊張した。自分が間違っていることを言ったとは思わない、だが桂のような部類の人間を励ましたことはついぞなかった。思えば自分の周りには陽気で無鉄砲なやつらばかりが揃っていて——それこそ白羊はちょっと違ったかもしれないが——、それは、とても、幸運なことだったのかもしれない。
 間をおいて、桂は、一度うつむき、目を手で覆うと、ふっと笑った。
「なんでそんなに言い切れるんだよ、あんたは」
「そんなの、たりめぇだろ。俺がそう思ったからだ」
「すごいな」
 その声の調子は皮肉めいていたが、なにかの揶揄などでは特にないように感じられた。
 暁は肩から手を離して言った。
「ごちゃごちゃ考えすぎなんだよ、オメーは。もっと単純なんだ、世の中は」
「あんたに世の中の何がわかるっていうんだよ」
「わかるさ。これからもっとわかる。なにせ俺は、テッペンに辿り着くんだからな」
 そう。太照天昼子と戦って勝って、ついでに連れ戻したなら。そうしたらいよいよすべてが手中に収まるのだ。
 にやりと笑った暁に、桂はついに破顔した。くすくすと小さく笑っていたが、やがて声を上げて笑い始めた。
「あんたみたいなのが、うちにもいたらな」
「生憎だな。俺は一人だからいいんだよ」
「そうか。そうだな、そうかもしれない」
 桂は目尻に浮いた涙をぬぐった。
 その姿を見て、いてやれたらな、暁はちらとそう思った。勿論天ノ川家のいる世界を捨てるつもりもない。だけど世界のすべてを識れるんなら、いっそ、こいつの戦いごと治められたらいいのに。
「太照天昼子と戦うんだな」
「そうだ。そのあとどうなるかは正直わからねえ。けど、なんとかなるだろう」
「あんたなら、確かに、なんとかするんだろうな」
 暁の雰囲気にすっかり巻き込まれた調子の桂は言った。背筋を正した彼のようすはいつものものに戻っていて、まだ少しはつかではあったけれども、大丈夫そうだった。
「僕は、春日をもう少し待つよ」
「ああ」
「…我慢してなきゃいいけど」
「多少の我慢は背負わせとけ。その方が健全だ」
 立ち上がりざま、ぽんと肩を軽く叩いてやる。所なさげに片腕に手をやっていた桂は、暁を見上げると、もうひとつ訊いた。
「…僕は、ただ、信じているだけでいいと思うか?」
「もたれかかってきたら応じてやりゃあいい。そいつは、その程度の正しい判断はできる女だ。やせ我慢するやつじゃない、そうだろ?」
 桂はややあってから頷いた。そして一言、
「ありがとう」
 それを耳にして、暁は、昼子と戦っている最中に槍が降ってきたら、さすがに対処できないだろうな、と思った。