旅路は天へ、銀河まで

結:1025年7月 頭

 昼子を討って数週間が経った。無事に天ノ川一族の呪いは解け、彼らは京に帰還した。

 暁の生活はまだ、激変には程遠かった。
 戦装束を纏わなくなって久しいが、交神や休養が重なった時だってこうだったし、呪いが解けたことは夢なのではないかとさえ思う日もあった。
 しかし、ぼろぼろだったはずの望が完璧に全快したことが、その問いに答えを掲げていた。体に鞭打っていたことへの最期の陽性的な反動なのではないかと来花はぎりぎりまで心配していたが、それが1週間、2週間と続くと、その不安も消えたようだった。
 未来について語ることが減った。もう急いて焦がれるものでもないからだ。未来はすでに暁たちの手の中に在った。
 最初は毎日のように酒を飲んで祝ったが、それも徐々になくなった。暁はまだまだ呑んでもよかったのだが、みな飽き始めて拒んだ。
 コスモはぎこちなくも暁とともに過ごす時間を望んだ。なにもしない日をとって、様々な店を回ったり、食事に興じた。暁にとっては少々退屈だったが、コスモはなによりもそれを喜んでいたようだ。
 幻のような日々。戦闘狂のきらいがあった暁にもそれはよいものに思えた。家族がみな笑っていて、生きている。それは暁が戦ってきた大きな理由のひとつだったからだ。

 ひとつだけ、大きく変わったとすれば。
 それは月に一度だけ見ていたあの夢の全容を、覚醒している時にも明瞭に思い出せるようになったことだった。
 すべてが終わったからだ、そう暁は確信した。起きている時に取り出されると都合が悪かったであろう情報の数々。終わったなら、もうそれらは無用の長物になるはずだ。
 己はおよそ半年の間、仲桂と名乗るもうひとりの自分と邂逅をし続けていた。その記憶の数々を暁は昭然と理解し、そしてその意味に気が付いた。
 この幻想めいた日々に、桂が辿り着くことは永劫ありえない、その意味に。

「桂」
 座敷で出会うなり食い気味に話し始める暁に、桂は驚いたようだった。
「太照天昼子を倒したんだ」
「ああ、そうか。そうか、やっぱりやったんだな、やるだろうと思ってたよ」
 祝いの色をにじませ答えるも、暁の顔色は芳しくない。あれほど悲願達成を、昼子打倒を掲げていた暁が、手に入れたはずの喜びにふけっていない。
 桂が眉をひそめると、暁は語り出した。
「全部思い出したんだ。思い出せるようになったんだ。起きていても、ここでのことを」
「それは…、つまり…」
「これがお前の言ってた通りの天界の実験なんだとしたら、それもすべて終わったってことなんだ」
 暁は苦しそうにかぶりを振った。桂は少々唖然とした。彼の語る事実にではない。いつでも壮烈に笑っていた暁がこのような顔をするなんて、信じがたかったのだ。
「もしかすると、この夢はここまでなのかもしれねえ。そんで、俺、呪いを解いて、思ったんだ」
 彼の丸太のような腕が揺れていた。鋭く尖った犬歯がどうにもできない口惜しさに歯噛みされている。暁は桂を見た。
「わかってた。天ノ川と仲じゃ進度も違う。わかってた、お前がどうしようもなく死ぬことは、わかってたつもりだぜ。でも、思ったんだ、お前が」
 眉根が深く刻まれる。親王鎮魂墓よりも深く、ずっと濃い。
「お前が、死ぬんだってこと」
 その言葉は、暁自身の想定よりずっと低く投げ放たれた。形になって、より鮮明になった気がした。細かいことは振り返らないたちの暁が、立ち止まる時間を得て、そして肌でとらえた。
 暁は叶ったが、桂は死ぬのだ。まったく同じ時を生きている。仲一族には、まだ髪を倒すための地力さえ備わっていなかった。桂の戦いは終わっておらず、記憶を持ち越すことはない。この夢が覚めたあと、髪の正体も、お輪にも黄川人にも、その先にある未来にも到来することなく、道半ばに彼は、死ぬ。
 暁の胸を激しい焦燥がかきむしりつづけていた。暁には、朱点童子を粉砕する力があった。今すぐ桂の1025年に訪れることができたなら、かわりにすべてを破壊し尽くせる確証があった。
「俺、神よりつええんだ。強くなったんだぜ。わかるだろ。俺なら、お前らのそのでこっぽちごとぶっ壊してやれる!」
 暁にはすでにない呪いの印が、桂にはまだあった。すべてが溶け込んだこの不可解な空間で、その玉虫めいた光沢だけが、世界の隔たりを残酷にも強調している。思い切り剥がしてやりたかったが、それも叶わぬことがわかっていたから、ただ暁は桂の両の二の腕をとった。
 ぎりぎりとさせるその力に、わずかに顔を歪めるも、桂は咎めなかった。むしろ微笑を、口の端にきざす。
「暁、痛い」
 はっとして放す。そこを軽く手で払ったあと、桂は覚悟してる、と呟いた。
「そうか、この夢も最後か。そんな予感がしてたんだ」
「予感…」
「まだ体調に支障があるわけじゃないけど、体が思うように動かなくなっていってるのは感じてる」
 そして左手で拳を作り、開く動作を繰り返す。その指は白く長く、美しいが、小指の付け根や天文筋が厚くなっていた。熟練の弓使いはみんなしている手だった。
「多分もうすぐだ」
 淡々とした声で桂は告げた。それはどんな槌よりも重く、暁の喉の下にのしかかった。
「今月、鳥居千万宮に向かう。そこからは眉たちの交神に入る。あんたの教えてくれた、三ツ髪に辿り着けるかはわからない。多分、僕が戦場に出るのは、最期だ」
 暁は察する。桂はきっと、ずっとこの終わりを見定めていたのだ。自分が悲願を眼前に見据えて浮かれている間も、ひょっとすると春日の目が潰れた時か、欠けた月を見た時か。あるいはもっと前から、この終わりに向かって歩き続けていた。
「桂」暁はこぼした。「俺は」
「いいんだ。僕はもう、十分やった」
 暁の言葉を桂は断つ。そして、死にゆくことを案じてもらえるなんて贅沢は、なかなかない、と薄笑った。
「死ぬのが当たり前の人生だ。みんなそこに向かって走ってる。それを、当たり前じゃない、なんて言ってくれるやつがいる。実験に巻き込まれた甲斐があったよ」
「桂…」
 肩をすくめる彼の言葉は、強がりにも、本心にも聞こえた。
「いつか言ったかわからないけど、僕らは京にも嫌われてるんだ」
 仲とは、孤独で長い二本の線のような一族だった。無数に瞬き、闊達に伸びていき、個々に潰えては煌く天ノ川家とはまったく違っていた。血の羽を広げることもできず、ただまっすぐに続いていく、ふたりぶんの足跡のような一族。
 桂は憫笑をそのままにした。
「僕は、春日が好きだ。眉や曙のことも好きだ。彼らを最期の瞬間まで見守ることが、僕の残された責務だと、そう思ってる」
「……」 
「だから、僕は行くよ。あんたに案じてもらえて、嬉しかった」
 いやに素直な彼の言葉が、本当に最期であることを、暁に実感させた。今すぐ彼が死ぬわけではないかもしれない。けれどこの夢でもう相まみえることはない。その予感が実感を伴って暁の胸に去来した。
 暁は最強の男だったが、死地に向かおうとする友の背にかけるべき言葉を持ち合わせていなかった。なぜなら暁は、ずっと、守れる者を守ってきたからだ。その自負があった。
 掬いとれなかった命とてあった。特に白羊や母たちの死は、今でも暁の心に深い傷として刻まれている。だけれど暁は、せめて最大の友人である望の命を守ろうとし、そして守り切った。最大限、やった。これ以上ないくらいに。そしてこれからもそうだと思っていた。自分の願いに至難はなく、暁にとって、すべては実現可能だった。
 しかし今、桂が向かおうとしている、その現実が目の前にある。暁には掬えないもの。
 生まれてすぐに当主の指輪を譲り受けた。それは暁の自信そのものだった。今でも暁の指に嵌っている金の装飾。天ノ川を背負い、頭領として命と悲願を託された証。
 だけど桂の指にもそれはあった。似たような、けれどわずかに異なる意匠の指輪。それは、暁とは違う重責を桂が任され、そして誰にも代わることはできないということの、証左でもあった。
 桂は続ける。
「あんたの呪いはもう、解けたんだろ。だから、これからは存分に、人生を謳歌しろ」
 桂らしくない月並みな言葉。彼もそれに皮肉気な笑みを浮かべる。それが照れ笑いであることも暁は分かっていた。それほどここで桂との時間を過ごした。月に一度見るだけの茫洋とした夢だが、2年も生きられなかったはずの身にはありあまるほどの刹那だった。
 あんたは言われずとも、人生を思い切り楽しみそうだけれど。桂はそう言って目を閉じた。
「ずっと言ってなかったことがあるんだけど、」
 そして目を開ける。双眸は暁とは違う、深い青だ。海にも空の色にも見えて、どこか夜空のようでもあった。暁たちが纏っていた揃いの衣装。呪いが解けた今は久しく袖を通されていないそれは、かつて先祖が、永劫ともいえる刻を生きる星を想い、選んだ色だったのだという。
「あんたは、春日に似てるんだ」
 そうなんじゃないかと暁はどこかで思っていた。天真爛漫な女の姿。想像するほかないけれど、暁の脳裏にはそんな姿がよぎっていた。どこか豪放磊落で、無遠慮で、慎重さに欠け、傷だらけで、大槌を振り回す、よく食べる女。桂が彼女について語るたび、まるで自分みたいだなと、暁は何度も思っていたのだ。
 桂のその天の川のような瞳が、柔らかい眼差しをともなって暁をとらえた時、暁は自分の喉から低い呻き声がかすかに漏れることに気付いた。
「行くなよ」
「え?」
「行ったら、死ぬんだぞ」
 手が、知らぬうちに、桂の肩を強く掴んでいた。広くしっかりとしているが、暁のものにくらべればずっと華奢な肩。しかし傷跡は、いくら後衛の弓使いとはいえ相応に負っているだろう。自身と大差ない月齢だということを鑑みればそうに違いなかった。桂は、驚いて暁を見据えたが、やがてもう一方の手でそれを優しく振り払った。
「いいんだ」
 そしてもう一度言った。今度は桂が暁の肩に手を置いた。いつか暁がそうしたように、励ますような、慰めるような、そんな調子で。
「大事なもののために死ぬことができる、それが、悲願に間に合わない僕らに与えられた、唯一の自由だと思うんだ」
 一度、自らの手、暁の肩口に目をやってから、桂は再び顔を上げた。すでに決意しきっている表情だった。暁の拙い言葉ひとつふたつでは、変えられそうもなかった。
「僕は、僕には自由はないと、今までずっと、そう思って生きてきた。けど違った」一度言葉を切って、吸い込んでから、続けた。「生きざまの問題なんだ。自分を強く持てば、いつだってそこは自由なんだって、多分、春日が教えてくれた……そう、そんな気がする」
 それからきっと、あんたにも。
 桂はそう言って目を細めた。
 暁はもう、引き止められなかった。どのみち自分に桂を救う手立てなどなかった。そして、その桂が良いと言っているのなら、もう何も言えなかった。もしこれが望なら、もっと駄々をこねて困らせてやったのかもしれない。けど相手は桂だ。望よりずっと弁が立つ。それだけでなく、桂は、暁自身だった。
「そうか」
 たっぷり間をおいて、ようやく暁は発した。低い声。まだ納得できなかったが、仕方がなかった。
「それに、きっとすぐに死ぬわけじゃない。来月戦死する予定もない。もしかしたら、また夢を見られるかも」
 桂は苦笑して肩をすくめた。根拠のない「もし」を語るのも彼らしくなかった。桂なりの、暁への配慮が伝わった。そんな機構が、この冷めた男にも、ちゃんと備わっていたらしい。
「……そうだな」
 暁はやっと、言い切った。固く瞼を閉じ、空気をいくつか飲み込んで、桂を見送る覚悟を、ようやく固めた。開き、口にした。
「一か八かってやつだな」
 丁半と掛けた冗句を聞き、桂は笑った。
「一か八か」
 そして踵を返し、彼は部屋の襖に手を掛けた。それまでびくともしなかったその襖が何事もなかったかのように自然と開き、桂は臆するでもなく一歩踏み入れる。その闇に消え入る背に、暁は一言だけ呼び止めた。
「なあ!」
 振り返った桂に告げる。
「春日サンに、たまには言えよ、そういうの」
 桂は暁を見て、目を弓形に細め、惜しむように笑んだ。そして何も言わず右手だけ上げると、また背を向けて、今度こそ去った。
 暁は、言わないだろうな、と思った。そして、最後まで黙したまま逝く、桂の姿を想った。