花民ぐ

 天ノ川の店先にはひっきりなしに荷物が届く。
 コスモの単なる針子趣味にみなが景気よく乗ったため、七年の一族史を刻んだ屋敷は、一〇二七年の頭より、悲願成就を機に呉服屋としてまったく新しい歴史を歩むことになった。街路に面した表門や土間はそのために改築され、いまや絢爛な反物で彩られている。
 上品にたちこめる白檀の香は、来花が京中を練り歩いて選定した自慢の品だ。二年前は野放図な小僧に過ぎなかった樋掛の接客態度も、だいぶさまになった。望は予想外にも商才を見出した。やたらとおだてがうまいのだ——姉ちゃん、とんでもなく似合ってるって、それ! え? 姉ちゃんってトシじゃない? 謙遜なさんなって、俺にはすっかり年頃の姉ちゃんにしか見えなかったぜ——。叢雲は軒先に立つことよりも、ものやひとの統括管理にいそしんだ。実質的な番頭、大出世である。そしてコスモは仕立てのたびに誰よりも生き生きとした。己はこのために生まれたのだといわんばかりに。
 この日の屋敷の長屋門前にも、桐箱が積みあがっていた。家族の手を借り、叢雲がひとつひとつ中身を確かめながら、帳面に筆を走らせる。
「これは京織堂から…紫根染め、小紋。それと藤屋から、麻布十反。絹反物五反…。あら? これは?」
 覚えのない荷物に叢雲は首をかしげる。望が舌を出して答えた。
「それ、俺が趣味で買いつけたやつ」
 けばけばしい色彩、荒々しい螺旋の金箔の龍、さらに袖に豪奢な桜吹雪のあしらわれた紋付。いったいどこの拍子でこんな代物を纏おうとしているのだろうか。「お父さん…」叢雲の呆れた視線を退けて桐箱をふたつほど担ぎ上げると、望は鼻歌を歌いながら邸中へ消えていった。
 叢雲は実父の趣味の悪さに辟易としながらも、残った荷物へと視線を落とした。その中にもうひとつ、頼んだ覚えのない、小さな風呂敷包みがあることに彼女は気が付いた。名の記された木札もなにもないが、送り主を特定することは天ノ川一族の誰にとっても——叢雲以外でもむろん——容易なことである。
 布の一角に押された、鮮やかな朱の紋。梵語の一文字を手直ししたそれは、かつてこの屋敷の主であった天ノ川暁が常用する、彼の印にほかならない。
「父さんからだ」
 コスモがかすかに顔をほころばせた。
 暁からはこうして定期的に旅先からの土産が届く。中身はさまざまだが、おおよそは酒だ。時には保存のきく特産品であったり、それこそ織物であったり、あるいはばかげた春画であったりもした。
「今回は春画じゃないといいわね」
 来花がげんなりと言った。
 叢雲たちは荷物を主屋へしまいこんだ。畳に置いて一息。五人の視線はすべて、極上な反物の収められた桐箱ではなく、小ぶりの粗末な風呂敷包みに注がれていた。全員がにわかに浮き立っていた。なんだかんだで、この便りをいつも楽しみにしていたのである(手紙が入っていることはめったになかったが)。
 来花が控えめに目線をコスモに送って、望が肘で小突いた。コスモは小さく頷くと、その包みをていねいに解いた。そして、「え?」思わずつぶやいた。
 本だった。和綴じの本が数冊。すべて、異国のことばが和語で題されている。
「暁サマ、本とか読むんだ」
 樋掛がコスモの疑問を引き取った。来花が首を振る。「うそよ。読むわけないでしょ、しょっちゅうやくざ者くずれと間違えられてたあいつが」
「やくざ者が本を読まないってのもド偏見だと思うけど」
 望が首をすくめながら、一冊手に取った。ぱらぱらとめくり、すげー、と気散じに声を上げた。
「日本のことばがぜんぶ外来語で綴られてる」
 みな望の手元にどやどやと集った。おそらく腕高い通詞が訳したのだろう、古今東西あらゆることばが見慣れぬカタカナ文字で記してある。もっとも身近な単語を拾って叢雲が笑った。
「見てこれ。コスモですって。わたし、これだけは知ってる」
「オレもこれだけはよく知ってる」
 樋掛が同意した。コスモはふたりの肩の間で照れたようにうつむいた。「もう少し普通の名前がよかったですよ、僕は」声は台詞に反して含み笑いを纏っている。
「なあ、やっぱやくざ者が本を読まないなんて偏見なんだって」望が手を止めて来花を見た。「だって暁はあの時もうコスモってことばを識ってたんだぜ」
「ないない、ないわよ」来花が反論した。「だってあいつ、昔、文字を読むと目が痛くなるって言ってたもの。それで先祖の記録だってろくに読まなかったのよ」それから少し考えて、肩をすぼめ、「まあ、博識な知り合いでもいたんでしょ」
「来花はちょっと暁を見くびりすぎだって。わかるだろ、あいつってばさ——」
 望の声に熱が乗る。刀ダコのうすれかけた手が和書を離れた。コスモの傷一つない手が代わりにそれを摑まえる。
 ふたりのやりとりの最中、若者三名(この場の五人とも、せいぜい数ヶ月から数年の歳差しかないわけだが)は熱心に本を手繰り続けていた——「ふしぎな音ね、どうして花がふらわあなんて響きに変容するのかしら」「全然わかんないっスね」「向こうでは花が咲くときの音を、そんなふうにたとえるんじゃないでしょうか」「花が咲くときに音なんてしないのに?」。
 中央で一心に文字を追い続けていたコスモの目が、ふと止まった。花の項のすぐ左に、鼻歌という語が綴られている。
「はみんぐ」
 その訳を、叢雲が唱えた。
「はみんぐ?」
「はみんぐ」
 復唱しながら顔を見合わせる三人の、いっそ牧歌的とさえ呼べるようすに、来花はつい薄笑った。輪に加わる。「“鼻歌”を、外洋ではそう呼ぶの?」
 コスモは顎に指を添えながら、しばし思案した。そして、
「これも、動作のことばに、よく似ている気がします。“花やぐ”とか、“繋ぐ”とか、“稼ぐ”とか…」
「すげえ、コスモ。めっちゃ頭いい」樋掛が瞠目するので、コスモはまた照れた。
 では、漢字にするとどうなのだろうか。叢雲は懐の帳面を取り出して、いくつか書き並べた。
 花。葉。波もいいかもしれない。みんは、明。もしくは民、眠も良い。望が「やっぱ、花がいいな。花って漢字は、いいよな」と述べたため、叢雲は逡巡してから、連ねた案のひとつを、大きな円で囲った。
 花民ぐ。
 来花が朗らかに笑みをこぼした。
「いいわね、すてき。花民ぐ」
「花民ぐか」
 望が若衆たちのように、受け取って反覆した。吊り上げた口の端をふいにつぼめて、先ほどの鼻歌を、再度口ずさみだした。
 望はよくこの歌を歌う。かつて彼の父が吟じていたのだという。暁もそうだった。
 来花はその調子はずれな歌声に仕方なしな微笑を浮かべ、ほかの三人は目を閉じて聴き入った。叢雲は耳馴染んだ父の声に、樋掛は思い出深い音の運びに、そしてコスモは、いつ帰るともわからない父親の、道行での達者をひそやかに祈って。