なきがらとデュエット

 命よりも大事にしていると呼んで差し支えなかった当主の指輪を団吾があっさり手放したのは、呪いを解いて間もない春の折だった。
「これは、俺の命を救ってくれた指輪なんだ。これがなければ、俺は死ぬはずだった。皆の加護が宿ってる、すごい指輪だ」
 そんな台詞と一緒に代々大の手にわたった指輪。天界から承った効力のほぼすべてを失ったそれは、本来であればどんな指にも魔法のように形を変えて吸い付くはずだったが、幼子の代々大の指にはあまりに大きすぎた。
「やっぱダメか」
 いまだに少年のような姿をした団吾は苦々しく笑った。団吾と代々大との間には——勝身と団吾の身体ほどには——体格の差はなかったが、それでもせいぜい多めに見積もって十歳程度にしか見えない代々大の目に、団吾の肉体はとても大きく感じられた。
 それに、背丈こそ頼りなくとも、その骨組みには隙間なく、戦うための筋肉が詰まっていることを代々大は知っている。戦姿を目にしたことはないが、風呂上がりの姿を見ればわかる。七本の髪をすべて斬り倒したばかりか、阿朱羅まで討ってしまった男なのだ。そして宇宙で二番目に強い(一番は勝身だ)。壮烈だ。
 その、都を救った指に合わせられた円周の指輪に、団吾はひもを通した。それも円のかたちに結び直すと、代々大の首に掛け、首飾りのようにしてみせた。
 鏡の前に佇む代々大の首に、にぶい銀が光っている。
 団吾は代々大の両肩に両手を置き、満足そうに口端を吊り上げた。
「いつか、その指輪がぴったりになるくらいお前が大きくなったら、それを指に嵌めるといい」
 それはきっと必ず、お前のことを守ってくれる。
 十全な少年期の時間を享受できるはずの代々大の身体的成長にも、団吾はおおいに期待しているようだった。
 ——それから実に、五年の時が経った。

 代々大は五歳と半年になった。詛呪が刻まれていた時分に成長したのと合わせれば、外見としてはおおよそ十五ほどであろうか。年頃の代々大は精悍な少年になった。肩ほどまでだった緑髪は背を覆う程度に伸び色艶を放つ。読書を好んだ瞳はすっかり視力が落ちてしまったが、眼鏡の奥におさまった切れ長の相貌は代々大の中の英悟をかえって如実に表している。多少面倒な父親に揉まれたゆえか、落ち着いており勤勉だ。そして血脈ゆずりの強さ。鍛錬を怠らない剣さばきは警護隊のあいだでも大変重宝され、いささか冷淡で不愛想な部分をのぞけば、おおむね評判だった。
「代々大くん、お疲れ!」
 武装した隊の兵が話しかけた。代々大は軽い会釈を返す。
 帯世一族が阿朱羅を討ってから五年、京はふつに平和になった。しかしながらすべての鬼が消滅したわけではなかった。それに荒れた世には野盗がつきものでもある。それらは都をおおいに悩ませていた。
 そこで新たに創成されたのが警護隊だった。かつて選考試合の常連だった腕利きがよく集った。代々大もこの隊の一員だ。五年前に団吾と勝身から贈られた刀「孫々丸」の切れ味も確かめたかったし、なにより代々大は剣が好きだ。
「あいかわらず強いね。きみひとりで充分なんじゃないかって、みんなよく口にしてるよ」
「恐れ入ります」
 兵の軽口に代々大は生真面目に目礼した。世辞でないことは代々大も実感しているが、この広範な京を守り切るにはひとりではとうてい足りない、それもまた同時に痛感していた。帯世の解呪のための戦いがただの二人で足りていたのは、守るべきものが少なかったからだ。
「それにしても大きくなったね。昔はこんなだったのに」
 掌を己の腰あたりで揺らしながら兵が言った。代々大は内心嘆息した。またか。都中から子供扱いされるのには飽き飽きしていた。いつか兵に訊ねた際、帯世一族とはなにか異様で霊妙的な雰囲気を纏った存在であったから、ふつうの人間のように時を刻む子供の姿はすこぶる近しく感じられたのだと返された。だとしても。
「そろそろその指輪、ぴったりになったんじゃない?」
 言われて代々大は首元に目を落とした。首飾り代わりにかけている当主の指輪。団吾からもらったものだ。これが一族代々伝わる家宝であることを、警護隊の者はほとんど知っている。
「確かに、そうかもしれないですね」
 代々大は首を振った。肌身離さず身に着けているが、それゆえ、特段意識の渦中に浮上することもなかった。それに代々大は指輪のちからをこっそり疑っていたのだ。団吾が案ずるのでしかたなく着けているけれど、もう延命の効果も失われたはずのこのがらくたに、加護などあるはずもないのに。
 気持ちの問題なのは承知しているが、気持ちの問題なんて、言い換えれば、意味がないも同然だ。
 迷惑なわけではない。実際、想いは籠っているはずだ。彼は気紛れに、帰ったら着けてみるか、と思った。
 都の入口で兵と別れ、代々大は毅然と歩いていった。とにかく、さっさと風呂に入りたい。代々大は綺麗好きでも評判だ。

 一日の成果を問う団吾の穏やかな追求を適度にあしらいつつ、代々大はやるべきことを終えた。刀や防具の手入れ、食事、風呂。
 勝身は戌五つ時に帰ってきた。ここ最近の彼は毎日こうで、どこかを伝言もなくほっつき歩いている。旧態依然として者とかかわろうとしない勝身が、町に繰り出すようになっただけでもよいことだと団吾は語る。代々大にとって勝身は”よくわからないひと”でしかなかったが、それでも帰ってくるたび息子へのあいさつと、怪我の有無の確認を欠かさないあたり、この理解不能の父にとって代々大とは少なくとも、排斥すべき他人ではないのだろう。
 見慣れた夜になった。代々大は指輪を首から外し、文机にあった小刀で、通されていたひもを切って捨てた。残された指輪を、少し考えてから、無難に右手の人差し指に通した。
 ぴったりおさまった。そして、それ以外のことは、当然なにも起こらなかった。
 ああ、それほど自分は成長したのだな。ちっぽけな感慨が代々大の胸に去来し、吹きすさぶ風のようにあっという間に過ぎ去った。こんなものかと思った。
 むしろ団吾の方が喜ぶだろう。大人のものとそう大差ない筋張った手を月明かりにかざしながら、代々大は祖父の丸い笑顔を想像した。明日、見せてみよう。
 ごそごそと掛布団の中にくるまり、落ちるように寝入った。彼は寝入りがよいことでも評判だった、家族の間で。

 夢だった。京が、代々大が気絶している間に滅んでしまったのでなければ。
 荒野と違わない都の様相。冷静な代々大も、思わず口元を手で覆った。——ひどいありさまだ。見える家屋のどこもかしこも瓦礫と化して時折鳴いている。それも劣化によるものではない、鬼に潰されたんじゃないだろうか。警護隊としての日々が培った見識がそう告げていた。神社のひとつもない、神に祈ることさえ後回しにされたのか。飢えた骸が小山になって街路の端に積まれている。そう、臭いもきつい。鼻穴の下を腐乱臭がかすめ、どこかで子供が泣いている——その、絶望的なしじまの中、不自然なほど凛とした声を、代々大の耳は、拾った。
「こんにちは」
 振り向いた。少女が立っていた。いや、少女なのだろうか。容姿は少女というほかないが、なにか大人の女のような佇まいを宿している。目を擦ると、一瞬疲れた老婆にも見えた。後ろでひとつに括った青白磁色の髪と、ぞっとするほど深い真紅の瞳。ありえないはずのその色味は、彼女が朱点童子——神の子、帯世の血の者であることを証明している。
 代々大の無表情に狼狽が走るのに気付いてか、女は柔和な笑みを面白げに歪めた。
「そんなに驚かなくてもいいじゃないですか。わたし、あなたのお婆ちゃんのようなものなんですから」
「僕の、祖母?」
「ええ。正確には、曽祖母、曽々々々々…ええと、いくつつくのかしら」
 指折り女は数えたが、途中で諦めた。手を払うと、泰然としたしぐさで「わたし、帯世木見と言います」と名乗った。
「木見…さん」代々大には聞き覚えがあった。一族の、初代と呼ばれる女の名だ。言われれば、丸い頬はどこか団吾に似ているような気もした。
「少し歩きませんか?」彼女は小首を傾げながら、散歩でもするように代々大を誘った。
 代々大は疑心に満ちた目で木見と名乗る女をねめつけた。そのまま周囲をそっと見渡した。この、死の街を練り歩きながら、歓談を? つい思いかけて取り消した代々大の、その心の中を見定めたように、木見が言った。
「わたし、おかしいひとじゃないですよ?」
「——、……」
 息を呑んだ。神と人の子に超的な読心能力が宿るなどという話は聞いたこともない。
 代々大は不信をさらに強めつつも、様々な検討を天秤にかけ、静かに顎を引いた。しょせん夢だ。そして、あまりへたを打たない方が良いとも。この見透かしたような瞳の前では。
 木見は喜びに顔の前で両手を合わせた。「行きましょう」代々大の右隣にやってくると、妻が夫にするように腕の下に手を差し込んで組んだ。代々大の固い表情筋がかすかに不気味を示したが、振り払いはしなかった。
 ふたりは腕を組んだまま、ゆっくりと朱雀大路を歩き出した。

 木見は代々大の疑問にあらかた答えてくれた。
 ここは一〇一八年四月の平安京で、彼女は指輪の中に残っていた思念のかすなのだと。
 およそ信じられなかったが、京の有様を懐かしむように目を細める木見の横顔を、取り急ぎ信じてやる以外なかった。
「今までの子孫にもこんな趣味の悪いものを見せて回っていたんですか」と問うと、
「いいえ、あなただけです。今まではただ見守るだけだったのですが、ちょっと寂しくなっちゃったんです」と微笑み、続けて「あなた、五年も指輪をしてくれなかったでしょう? それはわたしにとって、この光景以上によっぽど絶望的なことだったんですよ」
 取り残されちゃったのかと思いました。
 いたずらっぽく唇を尖らせる彼女は、どこまで本気なのかわからない。
 代々大は天を仰いだ。勝身よりやっかいだ、彼女は。

 木見は代々大が無言になってもひとりで語り続けた。
 目を見張るような重大な史実も、世間話や個人的な哲学も、すべて同列に彼女は話した。時たま舌を止め、代々大の近況を聞くので、彼もまた端的に応えていった。その頃にはもう、死臭も遺骸もさして気にならなくなっていた。
「わたし、指南書をすべて集めたんですよ。紅蓮の祠と親王鎮魂墓にあったもの以外」
「全部じゃないじゃないですか」
「よくやったものだと褒めてもらえませんか? この状況から復興まで進めて、どこにあるかわからない指南書まで探し当てて託したんです。それってとってもすごいことだとは思いませんか?」
 頬を膨らせる木見は本物の少女のようだった。彼女の話がすべてほんとうなのだとすれば、この地獄のような町から彼女は繰り出して、情報もない鬼を屠って、使命をまっとうしたことになる。それは真に——疑いようもなく——驚異的なことだった。
「すごいと思います」
 辿々しく、これは本心から、褒めた。木見は照れ笑いを浮かべた。そのさまを可愛らしく思える程度には、代々大は絆されていた。
「うふふ」
 木見は笑った。そして俯いた。「あのときは、誰にもねだれなかったんです。イツ花にも、息子にだって。…だってそれって、母の役割じゃないでしょう。わたし、物心ついたときからずっと、母だったから」
 代々大は少し不憫に思った。記録を紐解けばそのはずで、歴史のはじめ、ここに降り立ったのは齢八ヶ月の帯世木見と、四ヶ月の息子だった。
「だから、いつかこうして誰かに甘えられたらいいなって、ずっと考えてたんです」
「僕は孫みたいなものだって、最初に言ってませんでしたっけ?」
 そう返した代々大の顔面を、木見は刮目して見つめた。その視線で代々大は、自らの顔の筋肉が苦笑をたたえていたことに、はっと気付いた。
 木見は頬をゆるめた。
「…あなたはもういいんです。曽々々…祖母って言われたって、実感なんか湧かないでしょ?」
 あなたがこの指輪をがらくただと思っていたみたいに。
 意趣返しが成功した少女の顔でそうこぼした。そのにんまりとした笑顔に、代々大も今度こそ薄笑った。

「ねえ、わたしの魂ってね、ここから出られないんです」
 朱雀門を木見は見上げた。丹塗りは所々剥げ、柱の一部を引っぺがそうとした痕があった。この都の中で、もっとも巨大な骸だ。
 そこに右手を添えながら、木見が淡々と言った。
「これでも数年をかけて思念は薄らぎつつある。だけど、いつ完全になくなるんだと思います? 代を経る毎にそれは増した。でもあなたになってからは、とんと…。——あなたが次の代に託すとき、それってあと何年、何十年を待てばよいのでしょう?」
 木見の腕が代々大のもとを離れた。門に一歩近づき、労わるような目を向けていた木見が、徐に、立ち尽くす代々大を振り返った。
「子孫の解呪を惜しむわたしって、いけない母ですよね」
 その口元にもう笑みはない。硝子玉のような、瞳だ。
 乾いた死の香りの乗った風が、ふたりの間を吹き抜けた。塵芥が舞い上がる。
 心中の不憫は、色のない無表情などではもう、掻き消せそうもなかった。
「——生憎」
 代々大はまず、言い放った。
「僕は毎日を大切に営んでいます。貴女のためにどうにかなる心算もない、——が」
 見上げる木見の頭ひとつぶん下の視線は、突き上げるように代々大を射抜いている。やはり不気味だった。自分の意思で発しているようで、その実言わされているのかもなと、代々大はぼんやりそら思った。
「——いいじゃないですか。貴女は僕の母じゃない。散歩にくらい、付き合いますよ」
 代々大は、肩をすくめて笑顔を繕った。勝身も団吾もしない所作。どこで習ったのか、近所付き合いか、または警護隊か。いつのまにか、ずいぶんと違う生き物に変容していたらしい。この血に流れる由緒だけが、彼を彼たらしめるものではない。
 はじめて代々大は、己というものを形づくる要素のひとつを、知覚した。
「それに僕は、貴女の何倍も解呪を後悔しているひとを知ってるんです」
 勝身の生き様を皮肉った代々大のことば。木見は呆気にとられたが、やがて淑やかな哄笑を刻み始めた。その死体のような白い頬に赤みがきざし、可憐だった。
 やがて夢の中身が木見と代々大の長髪を揺らした。朝日の訪れを直観的に悟ったとき、塵芥の舞い踊る濁った風、その中央に取り囲まれながら、木見の唇が、にたりと形を描いた。
「代々大さん。またでえとしましょうね。わたし、ここで待っていますから」
 鼻を切りつける腐った臭いもまた、白幕の中に薄れる。残ったのは甘やかさを滲ませる香りと、彼女が口ずさむ、愉快そうな、変わった響きを孕んだ——

 結局あれから一度もあの夢を見ることはなかった。代々大の脳が作り出した、ただの虚像だったのかもしれない。
 代々大はけれど、予期している。この身が完璧に忘れ去った、血塗られた一族史の、この世の最後の砦たる帯世木見が。あの巨大な骸の前で、自分を待っている。いつまでも、あの鼻歌を演じながら、終わりのそのときを。
 口角をかすかに吊り上げた。
 最後に残った地獄の中で、待っている。