旅路は天へ、銀河まで

天ノ川暁(1023.12~)と仲桂(1024.1~1025.9)は、全く同じ時間を生きた、男12番の当主だったりします。
ついでに同時代に同じ男1番(天ノ川白羊/仲帳)がいたり、1025年5月に暁様が朱点と戦ってる間桂は春日を3回目の戦闘不能に追いやってたり、というのになんだかすごく運命的なものを感じて書いた、クロスオーバー小説です。

起:1025年1月 末

 天ノ川暁は、とても奇妙な夢を見た。
 薄暗い座敷の中に閉じ込められる夢だ。装飾は豪華で絢爛としている。燭台の炎がわずかに揺れ、その淡い光が木目の床に影を落としている。決して広くはないその部屋には、贄を尽くした家具が所狭しと置かれているが、どこかはりぼてめいていた。絹張の小ぶりな椅子が二脚。厚手の絹でできた台座は寝台だろうか。柱や床の漆は光を受けて艶めいているが、その輝きはほのかで、闇に吸い込まれるがごとく。
 襖は金箔と見事な花鳥の水墨画で彩られているが、固く閉ざされ、開く気配はない。
 そしてなにより、その椅子には一人の男が座っていた。
 男は、天ノ川暁に、非常によく似ていた。燃え盛る炎のような朱い髪に、精悍な細面、色気ある目尻。薄い唇は引き結ばれ、高い鼻と細い眉は鼻持ちならない雰囲気だ。そして海のような瞳と透けそうなほど白い肌。品のある美しい男だ。野性的な暁とはどこをどうとっても似ていやしないのだけれど、似ている、まるで生き写しのようだ、暁はなぜか直感的にそう思った。
 そして、呪われた一族の額にしかないはずの、玉虫色に煌く宝玉のような石。
 だけど暁の家族に、そんな男はひとりとして存在しなかった。
「誰?」
 暁が率直に問うと、男は片眉を上げ、答えた。
「僕が聞きたいところですが」ため息ののち、「…仲桂。仲一族の桂と申します」そう、一言一言言い放つように。

 桂と名乗ったその男も、暁と同じく、生き写しのようだという感想を抱いたらしい。
 暁はもっと大柄な体格と太い首をしていて、健康的な肌色をしているし、目だって吊っている。ついでに言うと彼の瞳は爽やかな緑色で、どう見たって別人だというのに、だ。
 詳しく話をしてみると、さらに奇妙なことがわかった。なんと、桂も暁と同じように、短命と種絶の呪いを受け、それを解くために戦っているというのだ。
 だけど暁はそんな一族がもうひとつ存在しているなどという話は聞いたこともなかった。そんなものがあるとすればきっと耳に入っているに違いなかった。桂たちも京に住んでいるというのだから。
 ただし話の細部は微妙に食い違っていた。暁たちは去年の秋頃に七本の髪をすべて打倒し、地獄への道を開いて間もなかったが、桂は髪というものがなんなのかもよく知らないのだという。
 とにかく、短命の呪いを受けた血塗られた一族が自分たちのほかにもうひとつ存在しているという事実は、暁にも桂にも同様の、恐ろしく激しい衝撃をもたらした。
「…マジで言ってんの? 何かの冗談じゃなく?」
「冗談で、こんな滅茶苦茶なことは言いません」
 桂は手で額を覆いながら嘆息した。暁も、これには笑いも出なかった。これって夢だろ?と問うと、よくできた悪趣味な夢です、と彼は返した。
「けどさ、俺は仲一族なんて聞いたことも見たこともないぜ」
「これは、ばかばかしい推論ですが」
 桂は居住まいを正して述べた。
「世界がいくつもある、という話を聞いたことがあります」
「世界が?」
「宇宙は無限の周期で創造と破壊を繰り返していて、同時に異なる世界がいくつも存在しているという…。ある古い宗教の話です。聞いたことはありますか」
「無ェな」
 眠たい知識については門外漢だった。素直に首を振る。その振舞やしぐさ、話し口調や言葉だけでも、桂が暁などよりよっぽど優れた知性を持っていることは明白だった。
「僕もそれが真実だとは思っていませんが、これがもしくだらない夢だという言葉では片づけられない現実なのだとしたら」
 そうでなくちゃ説明がつかない。桂は軽く首を振りながらそう説いた。
「つまり、俺たちが住んでるのとそっくり同じような世界がもうひとつあって、俺たち天ノ川の代わりに鬼と戦ってるのが、お前らってこと?」
 桂は首肯した。
「そこまではいいとして、なんで俺とお前が会話できてるんだ? これはどういう状況なんだよ?」
「それも僕にはわかりませんが」
 その青い瞳が探るように周囲を見渡した。風光明媚な家具たちは、天界で過ごした日々を思わせる。この1月の暮れ、暁は交神をすませてきたばかりだ。天界の華麗な姿は、非常に記憶に新しい。
「たとえば天界が、またなにかやろうとしているのかも。実験、かな?」
 ふっと皮肉気な微笑を浮かべる桂。右手の甲、その美しい指に嵌った指輪を見せる。その指輪は暁が持っているものとはわずかに違う意匠だが、確かに当主に代々受け継がれるものだった。
「僕は今月、当主を襲名したばかりだ。きっかけがあるとすれば、これ以外に考えられない」
「俺も持ってる、それ」
 暁が、自分の指に嵌っている指輪を見せると、桂は目を瞬かせてからまたあざけるような笑みを濃くした。
「なるほど、貴方も僕も当主で、同じ存在だから、なんらかの波長が合ってしまった、ということなのかもしれないですね」
「そんなこと、ありえんのかよ」
「わかりませんよ。僕だって仮説を並べているだけなんですから。少しは自分で考えてください」
 不満げに話す神経質そうな姿は、とても同じ存在だとは思えなかった。暁は細かいことに頓着したことなど一度もない。話し相手にいちいち目くじらを立てたこともない。
「お前、なんか、疲れそうな性格してるな」
「はあ?」
 顔は良いが、鋭い返事や彼の纏う雰囲気は、高い心の壁を感じさせた。この状況に苛立っているのか、いつもそうなのかは測りかねた。暁は肘掛にもたれると頬杖をつき、ちょっと思いつく。それで、まあ、と呑気に言い放った。
「よくわかんねえけど、考えてみたらこの夢って、すげえ”めりっと”なんじゃねえか?」
「めりっと?」
「俺らはもうすぐ呪いを解く予定だからよ、そちらさんから得られる情報はたいしてないかもしれねえが…。あんたらは無償で、なんの条件もなく、髪や天界の思惑について天ノ川一族の知っている情報を得られる。それってヤバいことなんじゃねえか?」
 桂は驚いて、そのあと黙考した。顎に手を当て、「確かに」と頷く。
「単なる馬鹿ではないようですね」
「なんたって0ヶ月の時から当主やってっからな。俺は」
「では、貴方の倒してきた髪のこと、天界の目論見のこと、すべて教えていただけますか?」
「おっと」
 強請る桂に暁はにやりと笑い、手で一度制した。少し呆ける桂を前に、暁は楽しむように告げた。
「ただで教えるわけにはいかねえな」
「ただで、って。僕から提供できるものは何もありませんよ」
「せっかくなんだ。ちょっとしたげえむをしようぜ」
 暁は椅子から立ち上がると、脇にあった小型の箪笥に向かう。引き出しを漁ると黒い手箱がしまわれており、その中に賽がいくつか入っていた。
「お、あるじゃねえか」
 それと、敷布や壺、枡を引っ張り出して、暁は振り返る。右手に握ったふたつの賽をじゃりじゃりと鳴らしながら、桂の前にあぐらをかいて居座った。
「丁半の遊び方くらい知ってんだろ?」
「…賭けごとですか?」
「勝ったら教えてやるよ」
 暁は遊び事が好きだ。女も好きだし、賭博もこよなく愛していた。毎月欠かさず相場屋に足を運ぶし、そこで出会った京人と意気投合して、酒を賭けてともに遊戯に興じることも日常だった。
 この生真面目そうな男は賭け事など一切知らなそうだが、どうか。ちらりと見やると、意外にも桂は意地悪い笑みを口端にたたえていた。椅子から滑り降りるようにして、敷布をつまむと、床にしわなく敷いている。
「僕は強いですよ」
 その言葉は彼が丁半に手馴れていることを示していた。暁は少々の驚嘆とともに口笛を鳴らした。
「へえ、意外とやるんだな」
「好きなので」
 距離が近くなってわかったが、桂からはほのかに煙草葉の香りがした。暁もおおいに好む、嗅ぎ慣れた匂いだ。本当に同一の存在なのだ、と暁は実感した。

 丁半に負けて、暁は様々なことを教えてやった。
 自分が見てきた様々な七本の髪のこと、その戦い方。黄川人の言葉や、地獄でのこと。太照天昼子はなにかを隠しているということ。そして最後に、もうじき自分たちは地獄の最奥部に辿り着くから、もしまたこの夢を見れたなら、もっと詳しいことを教えてやれると思う、と締めた。
 桂は膨大な情報を受け、何事か考えているらしかった。おそらく、桂の話す状況から鑑みると、彼自身が七本の髪を討ち果たすことはかなわない。なにせ月齢までほぼ一緒だというのだ。1023年12月に生まれた暁が今1歳1ヶ月であるからして、桂はちょうど1歳のはず。髪を1本討伐するのに、1ヶ月。どう計算しても間に合いそうにはなかった。だから、桂が今考えているのは、自分が死ぬまでにしておくべきこと、残しておくべきものについてだろう。
 そして、たっぷり熟考してから、桂は礼を述べた。
「ありがとうございます。参考にします」
「おう」
 それでこの日は別れた。ひょっとするとこれきりかもしれないと言って、桂は、これから悲願成就のための決戦を控えるであろう暁たちへの皮肉めいた激励を残し、座敷の景色ごと消えた。

承:1025年2月 中

 それから数週間が経ち、暁は再び奇妙なこの夢に再訪した。危惧していた再会は無事に叶ったが、桂は残念そうな表情だった。
「どうやら、この夢での記憶は、現実には持ち越せないようですね」
 それは暁も気が付いていた。眠っている間は取り出せるのに、起きている間は一切よぎることもないのだ。これが本当に天界の実験なら、道理かもしれない。情報交換が叶えばあまりに一族に有利だし、謀反の方法だって色々思いついただろう。
「貴方からせっかく教えられた知識は、無駄だったということになる」
「まったくの無駄ってことはねえだろ、きっと」
 暁の下手な励ましは、それでも桂にわずかばかりの苦笑をもたらした。
 桂は、地獄の最奥部には辿り着きましたか?と暁に問うた。
「おう、そこにはでっかい塔があってな」
 暁は修羅の塔の話をして聞かせた。はびこる鬼たちにはかなり苦戦させられた。あれは決戦までに十全な準備が必要だろう。黄川人はあれらより何倍も強いのだ。
 もうひとつ、必ず話さなければならないことがあった。それは黄川人が暁たちに述べた真実だ。
 黄川人を倒すためだけに計画的に生み出された朱点童子、それが自分たちの正体だということ。
 暁の心は、その程度の言葉で揺らぐことはなかった。彼にとって己の正体が朱点童子か、人間かというのは些末な問題だった。暁は悲願を叶えるため、そして純粋な己の衝動のためだけに戦っている。
 どこまでも続く腕試し。それが暁の戦う最大の理由にして衝動だった。
 すべてのことが壮大な遊びであると、暁は感じていた。むろん、ふざけてとりかかっているわけじゃない。ただ、訪れる試練は楽しまなければ損だと思っていた。そしてそれをひとつ乗り越えるたび、達成感という名の歓喜が身に降った。すべてのことは叶えられると思っていた。そしてそれこそが家族を守る力にも直結した。暁の骨に分厚くついた筋肉は、なにもかも自信でできていた。
 だけれど、家族まではそうじゃない。相棒の望や、妹・弟分の来花に樋掛、生まれて間もない望の娘である叢雲の沈痛な面持ちは、暁にはどうしようもないものとして脳裏に焼き付いている。
 それを話すと、桂は存外冷静に、その事実を受け止めた。
「しょっくを受けないんだな」
「僕たちが特別な存在であることはわかりきっていましたから。それに、僕たちが朱点童子だったからといって、やるべきことが変わるわけじゃない」
 桂は暁のように事象をとらえているわけではなかったけれど、己をしっかり持っている男だった。きっとその芯に連ねられているのは、責任という単語なのだろうけど。
 ふいに、桂が黄川人と相対する、叶わないだろう姿を思い為した。きっと桂は、その時を迎えることができたなら、頼もしい当主になっただろう。

 もうじき遂げられる本懐について興奮気味に話す暁を、桂は受け止めた。
 話していて気づいたことだが、天ノ川一族は強い。同じ時期にはじまったはずの戦いなのに、もう悲願のへりに手をかけようとしている。仲は、まだまだだ。
「やっぱり、貴方が行くんですか?」
 そう問われて暁は考える。それから、まだわからねぇと返した。
「それができたら一番いいけど。塔の鬼は、マジでとんでもなく強かったんだ」
 もう少し考える、と頭を掻く。暁は考えることが不得手だったが、当主としてのつとめは最低限果たしている。それを聞いた桂は納得のいったようにため息を漏らした。少なくとも無計画に行くと頷かれるよりも、好感を持ったらしかった。
「オメーみてえに難しいこと考えるのが得意なやつがひとりはいたらいいんだけどさ、今はいねえんだ」
 暁はからっとして笑った。今は、ということは、過去にはいたのか、と桂は訊ねる。
「いや、過去にも、そんなにいなかったかも」
「ええ」
 あからさまに呆れた顔を見せられる。暁はそのまま、家族の話に軽く触れた。
「うちは、なんていうか、できそうなやつが仕方なくやってる、って感じだったよ」
 もう亡くなってしまった家族のことを挙げた。短気な弓使いの白羊。暁が特別敬愛する兄貴分、爆戦。母とその双子の兄。1ヶ月もともにいなかった、だけど印象的だった前当主の剣士の、宙。
 それら名前をつらつらと挙げ、だけど頭脳戦が得意なやつはひとりもいなかった。みんな頑張ってやっているというふうだった。そう述べて暁は組んだ腕を頭の後ろに掲げた。
「よく回ってきましたね…」
「まあ、だから、なんとかなるって思ってるんだ。みんな」
 同じ悲運を背負っているわりに、ずいぶん家の雰囲気は違うようだ。
「苦労しそうだ」
 そんな暁に桂は失笑した。言葉とは裏腹に、どこかその笑みにはあたたかさがある。羨ましがったのか、なにかと重ねでもしたのか。ふいにといったようすでこぼされたその言葉や表情に、暁はふと思った。
「いつもそんな調子だったらいいのに」
「え?」
「そのつまんねえ敬語もやめてさ」
 すると、桂は目を丸くして暁を見つめた。暁は言葉選びが気に障ったかと思ったが、そうではないらしく、何か驚いたような顔持ちで暁を見つめ続けている。
「…どうしたの?」
「いえ、その、僕の家族と、似たようなことを言うものだから、少し驚きまして」
 桂の家族。そっくり同じことでも言ったのだろうか。暁はにわかに、興味がわいた。
「そいつ、どんなやつ?」
 何気なく聞いてみる。桂は、一旦口を開いて閉じて、しばしどこまで話すべきかと目線を巡らせたあとに、思い直した様子で答えた。
「大雑把だ。とても」
 夢の中でしか出会わない幻想のような存在に、なにを話しても構わないと思ったのかもしれない。そこからは流暢だった。壁のように穿たれていた敬語がほどかれた。
「適当で、向こう見ずで。深いことは何も考えてない。元気で、すごく馬鹿で、いちいち振り返ったりしないし、これからやりたいと思ってることについてばかり考えてる」
「ふうん」
「髪は、金色。目や肌の色は、あんたのものに似ているな。…あんたは…壊し屋?」
 一度桂は話を止めて、暁を見やった。暁は自分の鍛え上げられた二の腕に一度視線を落としてから、おう、と頷いた。桂もひとつ頷いて、続ける。
「春日も壊し屋なんだ。いつも前線に出てるから生傷が絶えなくて、それで……」
 顔を上げながら話し続ける桂の目は軽く伏せられ、長い睫の影が頬に落ちている。ふっと目を開けると、今しがたまで伏せられていた、その自身の右目を指さして言った。
「以前敦賀ノ真名姫と戦った時、流された拍子に、ここにがれきが刺さった。円子でも治らなかった。それで、今でも眼帯をしてるんだ、ここに」
「眼帯」
 それは大けがだなと暁は思った。頑丈にできている一族は、たいていの傷なら再生してしまう。天ノ川家でも何度か死にかけたやつがいた——祖母はそのまま戦死してしまったとも聞く——が、それもすっかりとは言わないものの治った。その”はるひ”という女の右目が治らなかったということは、相当そこの具合が悪かったのか、ほかの大事な部位への再生に力が注がれて、足るに至らなかったということなのだろう。それほどの死闘だったということだ。
「でも、全然気にしてないんだ。その時に言われたよ、つまんない敬語より、ため口聞いている方がよっぽどいいって。そんなこと言ってる場合じゃないのにな」
 そんな大けがを「全然気にしてない」と言いきれるなんて、相当だ。彼女はきっと、驚異的に豪胆だ。鈍感だとか馬鹿なんて言葉じゃ片づけられないくらい、前向きで、強靭だ。逸材だなと暁は呟く。呟いて顔を上げて、少し驚いた。
 桂は微笑っていた。いつも浮かべている嫌味めいたものとは明らかに違う、いたわるような優しいものだった。暁は思わず目を奪われた。桂が浮かべているであろうその女の姿にではない、はじめて見るその愛おしむような彼自身の笑顔にだった。
 彼女のことが好きなのだろう。そう思った。おそらくとても、かなり。桂が自覚的かどうかは知らないが、暁の目にはそう映った。敬語の抜けた口調も相俟って、最初の冷たそうな姿ではなくて、こちらが桂の本質のように感じられた。
「はるひって言うんだ。女?」
「そう、女。でも全然女らしくない。着替えだって目の前でするようなやつなんだ。どっちかっていうと、少年みたいで。髪だって長いから、黙っていりゃ、それなりに見栄えするかもしれないのに…」
 そこで言葉を切って、一度桂は黙り込む。彼女の着飾った姿を想像したらしい。そのまま肩をすくめ、
「けど僕なんかよりよほどがっちりしているから、無理かも」
 おどけた感じで言うものだから、暁はちょっと噴き出した。大男みたいな女を思い描いた。決して不細工じゃあないんだと桂は補完するが、暁の春日予想図は簡単には変わらなかった。
 けれど、と暁は桂を見た。桂の思い描く”春日”の姿は、大男みたいだったとしても、不細工でも、絶世の美人だったとしても、ひとしく好ましいのだろうとも思った。そういう目を彼はしていた。
 きっと、その春日という女は、桂と長い間をともに過ごしてきたのだろう。自分にもそういう存在がいる、暁は大切な家族の姿を思い浮かべた。相棒。戦友。家族。好敵手。彼女は女だから、少々違うかもしれないが。
「あんたの家族の話も聞かせろよ」
 桂は相好を崩して言った。天ノ川家に興味を持ったというよりも、単に自分ばかりが語っているのが恥ずかしくなったように見えた。暁は話し出す。自分もなんだか家族の話がしたくなったのだ。
「俺んちにも一杯家族がいるぜ。来月には俺の子も来るんだ。今一番年長なのは、望っち——ああ、望って言って、俺の親戚にあたるんだけど」
「親戚?」
「そう。さっきも言ったけど、俺の母親は双子でさ、その、双子のアニキの息子が望っちなんだよ」
 暁は相棒である望の話をおもしろおかしく聞かせてやった。桂がどこまで興味を示したかはわからない、途中からは生返事だったかもしれない。だけど話したい気分だった。
「望っちは、すげえ剣の達人なんだ。器用で超強いんだけど、ひょうきんで、吹き出物ばっか気にしてる変なやつなんだよ。髪だってハゲてんだ。性格もそのつるぴかの頭みてえに明るくてさ。そんで……」

 天ノ川一族には今、5人の家族がいる。来月には6人だ。
 初代が作ったこどもは3人だったそうだが、暁と望の祖母が双子をつくって、もう少し賑やかになった。
 対照的に仲一族は、初代の娘が生んだ双子の血脈を律義に守り続けているということで、それほど一族の人数は多くない。交神の頻度にきまりがあって、桂と春日は、ごく近い月齢で生まれたのだそうだ。
 そのきまりごとによって苦労させられたことも多く、不仲の間柄も数多くあったらしいということだが、暁はいいな、と思った。それを語る桂の表情は、苦々しくも、なんだか楽しげだったのだ。

転:1025年 春

 それから何度か暁と桂は夢の中で語らった。この夢に関する真剣な推察を話し合うこともあったが、おおよそは互いの一族の話だった。
 夢は毎日ではなく、約1ヶ月おきにやってきた。起きている間は思い出すこともなかったが、眠っている間に、時折、あいつは今どうしているのだろうと夢想することがあった。普段夢を見ることもなく快眠を貪る自分が、ときたまこうして半覚醒のさなか思考できる瞬間があるということ自体、暁にとっては吃驚だった。
 そういう時はたいてい、次に会うのが楽しみになった。夢の中でしか会えない、志を同じくする戦友。目覚めている間も思うことができたなら、もっとよかったのにと惜しんだ。
 そして、その夢の日がやってくると、暁は再会を喜び、限られた眠りの時間を会話に費やした。
 桂が喜びをあらわにすることは一度たりともなかったが、おそらく、悪く思ってはいなかっただろう。

 季節は春になった。
 暁の目下の不安は望へと移っていた。日々目に見えて体調が悪化していっているのだ。呪いの症状であることは誰が見ても明らかだった。
 4月頃、暁は望を救うため、決戦の舞台に向かうことを決断した。
 自分か次の代で、と暁は考えていた。自分が朱点とやりあえるのかを暁は己なりに慎重に検討し続けていた。家族が茨城大将に殺されかけたこともあったので、今代では難しいのではないかとも思ったのだ。
 しかしいざ、悪くなった望を見た時、諦めるという選択肢は暁の中から掻き消えていた。いや、最初からなかったかもしれない。あれから暁は、息子のコスモを授かった。穏やかで優しく、手芸を好きだという彼。そのまだ柔らかい指を見た時、行くしかない。そう思った。
 急な決定は、天ノ川一族に、無茶な行軍をもたらした。拙い作戦を組んで、地獄で多くの薬を回収した。求められた踊り屋の来花は期待に応じて奥義を創作したが、彼女もまた無理をしているようだった。弟分の樋掛もまた、行軍中には何度か弱音を漏らしていたし、彼のための休憩も幾度かとった。望は、言わずもがな、だ。
 けれど誰も文句を言わなかった。助かるため、助けるために。その希望がみなを突き動かしていた。
 ある4月の晩、座敷に訪れた暁が桂にその話をすると、桂はそうかと小さく微笑んだ。
「行くんだな、ついに。頑張れよ」
 とても簡潔な言葉。しかしそれは暁にさらなる勇気をまねいた。たとえここから去ったあとにそれそのものを覚えていなかったとしても、暁にとって、それは意味のある言葉だった。
 それから桂は術の重要性を語った。なんでも野分が素晴らしい術だと悟ったらしい。己の娘が危険な目に遭ったというので、野分を駆使して潜り抜けたという話。最終決戦に向かうなら、攻撃だけじゃなく、補助にも目をくばれと桂は力説した。非常に桂らしい戦法だった。
「確かに俺たちって、補助術のことなんにも考えたことなかったな」
 脳筋ばかりの人員を思い並べると、桂はまた露骨に呆れ顔をした。天ノ川にも桂がいたらちょうどいいかもしれないと思った。

 5月。暁は朱点を討ち取った。ついにやったのだった。
 戦いは険しかったが、みな、よく働いた。危険因子だと黄川人に認識された暁は、何度も寝太郎の術を受け、まともに動くことができなかった。そこで樋掛が白鏡の詠唱をみなに提案したのだとあとから聞いた。桂の話を暁は思い出した。そういえば決戦前に、術もなんでも使えと話した気がする。その時の暁は桂のことなど覚えていなかったはずだが、なぜか、話したのだ。
 寿命間近の望は頻繁に狙われたが、その猛攻をすべて奥義で切り返していった。まさに剣豪と呼ぶほかない動きだった。望の燕返しは、彼自身を守るだけでなくむしろ、黄川人の多くの手を無に帰していた。あれは、望だけでなく、家族をも守っていた。
 来花が土壇場で会得した獣踊りは、梵ピンよりも速くみなの身体を強化した。家族が暁に白鏡を唱えた。大砲のような猛撃が望から、来花から、樋掛から。そして暁自身から放たれた。そしてついに天ノ川家は、朱点童子を撃破した。

 だが、一族が解呪することはなかった。暁が裏京都への侵入を承諾したのだ。
 戦いを終えたあとのある晩、暁たちの屋敷に、昇天したはずの黄川人が現れ、言った。
「こんな幕引きで納得できるの?」
 あれからほどなくして、太照天昼子が行方をくらましたのだという。天界は大騒ぎだった。彼女が逃げ込んだとされたのが、水盆に映った幻夢の世界、裏京都。
 暁は望の体調を確認してから、承った。
 これまでの気苦労を忌んだからではない。昼子と戦える、それはこの世界の天辺を知るということに相違なく、そして暁が抱き続けていた強い衝動の、終着点でもあったのだ。

 信じられない。そう言われるだろうと暁は浮き立っていた。桂なら、軽い罵倒をさしこんだのち、また激励の言葉をくれるだろうと根拠なく惟っていた。
 しかし、その日の座敷に訪れた桂は、意気消沈していた。暁のその驚くべき決断を耳にしても、そうか、と力なく言い放つのみだった。
「…何かあった?」
 暁は聞いた。まさか、人でも死んだのでは。桂は軽く首を振って、そういうわけじゃない、みんな無事だ、そう頼りなく呟いてから続けた。
「…僕は、だめな当主なのかもしれない」
 彼らしからぬ言葉に暁は瞠目した。桂は自分と同じ、自信にあふれた男だとずっと感じていたのだ。自身の策にも、在り方にも、桂は矜持を持っているようすだった。彼は細身だが、その振る舞いは威風堂々たるもので、おぼつかないやつだと感じたことは、これまで一度もなかった。
「…紅蓮の祠で、…宝箱、……養老水が……なかったんだ」
 唐突に桂が、とつとつと話し出した。暁は一瞬、追いつかなかったが、言葉をかけぬまま続きを促した。椅子に腰かけた桂は、膝に肘を立てると、その両手のひらに顔を埋めた。
「僕は眉だけでなくて、また春日を」
 それだけで暁は何があったか理解した。春日がまた、なにかで死にかけたのだ。幸い、彼女の命は保たれた。だけどそれは先月の眉の時のように充分な準備が行われていたからではなく、きっと、完全なる偶然か、春日の驚倒すべき生命力の所以に違いなかった。
 桂は自分の采配を悔いているのだ。そして、春日のその生きるちからにしか頼ることができなかった己の無力さを。
「誓ったんだ、僕は。あのひとから指輪を譲り受けた時、こうはならないって」
 桂の、前当主への並々ならぬ失望は、暁も感じ取っていた。凡庸で、何度も春日を危険に晒した女だと。そして独善で桂の父を守り抜き続け、結果、彼は望まざるにもかかわらず神となった。
 流れを鵜呑みにするなら、桂の父が神になったのは、彼自身の意志だ。だけど桂は「望まざるにもかかわらず」と断じていた。その決意を作り上げたのは前当主だと桂は感じているようだった。暁には、流れに対する憎しみの形をどこに置いていいかわからず、彼女に押し付けているようにしか見えなかったが、詮索することはなかった。そこに触れてはいけないような直感があったのだ。
 だけど目の前の桂は、強く悔やんでいた。打ちひしがれているようだった。
 暁は不安になった。強く在り続けていた、在り続けようとしていた彼が、壊れてしまうのではないかと、一瞬感じた。壊れるほど脆い存在ではないという信頼もあった、それでも。
「…春日サン、今は?」
「目覚めない、息はしてるけど」
「きっと、すぐに起き上がって、けろっとメシでも食い出すって」
 暁は慰めの言葉をかけようとしたが、それを桂が大声で遮った。
「だから嫌なんだよ!」
 激昂し、勢いよく立ち上がった桂は、肩で息をしたあと、そのままずるずると座り込んだ。組んだ手の甲に上に額を乗せ、その表情はまた見えなくなる。
「僕には責任があるんだ。血を繋げ続ける責任が。家族を守る責任が」
 今の桂は、なんだかすごくあえかに思えた。彼の身に背負われていた重圧は、なぜそれほど重さを増したのだろう。その重みに潰されそうになっている彼は、やっと吐き出すようにこぼしていく。
「絶対に失敗しないって誓ったんだ、この指輪に。家族が安心して戦えるようにするのが僕の…、当主の役目のはずなんだ」
 それに、と桂はゆるく顔を上げる。泣いてこそいないが、その瞳は雨が降る前の夜のように沈溺していた。
「…春日が……痛みを我慢していないはずは、ないんだ」
 搾り出すような声が、座敷の暗闇に消えていく。
 桂自身には、死にかけた経験はないらしい。けれど桂は春日が死の危機に瀕するさまを何度も目にし、それから娘の眉のも、見たのだという。
 いつかの語らいで彼が言っていたことを暁は思い出す。彼の父——帳という男は、春日が目を失った時のように大水に流されて、生死のふちを彷徨ったらしいということ。その時には桂はまだいなかったが、帳の魂はずっとその瞬間を回顧していた、そう嘲笑を浮かべる彼の姿。たかが父の愛情をもらえなかったごときで、そう過去に囚われ続けなければいけないものなのかね。くだらない。
 暁には帳という男の姿はわからない。話を聞くだに、暁の大切な仲間、白羊に似ていたともいう、その男。きっとその時の帳は、こんな姿をしていたのだろう。桂の瞳は、泥の中を彷徨うように、濡れていた。
 暁は、他人だ。桂の痛みなどわからない。知る由もない。共感もできない。だが、この宇宙で、桂に手が届くのは今、同じ魂を持った暁だけだった。
「なあ」
 暁は立ち上がると、桂の前にしゃがみこみ、その右肩に厚い手を乗せてやる。おそるおそる覗き込む。
「そいつは、いつだって活発で、何も気にしてないんだろ」
 桂の瞳を見つめると、きっぱりと言った。
「だったら、その態度を信じてやれよ」
 何をぬかしているんだと言いたげな桂を見上げ、暁は続けた。
「俺たちみてえなタチのやつはさ、態度で語ることしかできねえんだ。知っての通り、”ぼきゃ貧”なんでな」
 いつでもそうだった。暁は強い言葉で発破をかけることくらいしかできなかった。それでもうまく回っていた。暁の言葉は表現に富んではいなかったが雄弁で、真実味があった。嘘をついたことなど一度もなかったからだ。常にすべてが叶えられる自信があったし、覚悟を負っていた。
 みんなそれを信じた。暁が言うとすべてが現実になるような気がした。
「そいつの言葉や態度に、嘘なんかねえ。ほかの誰が嘘ついたって、お前の手に届かないトコにあったって、そいつは絶対いつも、お前に本当を示してる。俺には、わかるんだ」
 これは多少盛った。春日は暁ではない。だが暁は言い切った。真実を真実たらしめるなら、言い切る必要もあった。
「お前はそいつの、そういうトコが好きなんだろ?」
 だったら、それを信じてやれよ。
 静寂が訪れる。暁はがらにもなく、少々緊張した。自分が間違っていることを言ったとは思わない、だが桂のような部類の人間を励ましたことはついぞなかった。思えば自分の周りには陽気で無鉄砲なやつらばかりが揃っていて——それこそ白羊はちょっと違ったかもしれないが——、それは、とても、幸運なことだったのかもしれない。
 間をおいて、桂は、一度うつむき、目を手で覆うと、ふっと笑った。
「なんでそんなに言い切れるんだよ、あんたは」
「そんなの、たりめぇだろ。俺がそう思ったからだ」
「すごいな」
 その声の調子は皮肉めいていたが、なにかの揶揄などでは特にないように感じられた。
 暁は肩から手を離して言った。
「ごちゃごちゃ考えすぎなんだよ、オメーは。もっと単純なんだ、世の中は」
「あんたに世の中の何がわかるっていうんだよ」
「わかるさ。これからもっとわかる。なにせ俺は、テッペンに辿り着くんだからな」
 そう。太照天昼子と戦って勝って、ついでに連れ戻したなら。そうしたらいよいよすべてが手中に収まるのだ。
 にやりと笑った暁に、桂はついに破顔した。くすくすと小さく笑っていたが、やがて声を上げて笑い始めた。
「あんたみたいなのが、うちにもいたらな」
「生憎だな。俺は一人だからいいんだよ」
「そうか。そうだな、そうかもしれない」
 桂は目尻に浮いた涙をぬぐった。
 その姿を見て、いてやれたらな、暁はちらとそう思った。勿論天ノ川家のいる世界を捨てるつもりもない。だけど世界のすべてを識れるんなら、いっそ、こいつの戦いごと治められたらいいのに。
「太照天昼子と戦うんだな」
「そうだ。そのあとどうなるかは正直わからねえ。けど、なんとかなるだろう」
「あんたなら、確かに、なんとかするんだろうな」
 暁の雰囲気にすっかり巻き込まれた調子の桂は言った。背筋を正した彼のようすはいつものものに戻っていて、まだ少しはつかではあったけれども、大丈夫そうだった。
「僕は、春日をもう少し待つよ」
「ああ」
「…我慢してなきゃいいけど」
「多少の我慢は背負わせとけ。その方が健全だ」
 立ち上がりざま、ぽんと肩を軽く叩いてやる。所なさげに片腕に手をやっていた桂は、暁を見上げると、もうひとつ訊いた。
「…僕は、ただ、信じているだけでいいと思うか?」
「もたれかかってきたら応じてやりゃあいい。そいつは、その程度の正しい判断はできる女だ。やせ我慢するやつじゃない、そうだろ?」
 桂はややあってから頷いた。そして一言、
「ありがとう」
 それを耳にして、暁は、昼子と戦っている最中に槍が降ってきたら、さすがに対処できないだろうな、と思った。

結:1025年7月 頭

 昼子を討って数週間が経った。無事に天ノ川一族の呪いは解け、彼らは京に帰還した。

 暁の生活はまだ、激変には程遠かった。
 戦装束を纏わなくなって久しいが、交神や休養が重なった時だってこうだったし、呪いが解けたことは夢なのではないかとさえ思う日もあった。
 しかし、ぼろぼろだったはずの望が完璧に全快したことが、その問いに答えを掲げていた。体に鞭打っていたことへの最期の陽性的な反動なのではないかと来花はぎりぎりまで心配していたが、それが1週間、2週間と続くと、その不安も消えたようだった。
 未来について語ることが減った。もう急いて焦がれるものでもないからだ。未来はすでに暁たちの手の中に在った。
 最初は毎日のように酒を飲んで祝ったが、それも徐々になくなった。暁はまだまだ呑んでもよかったのだが、みな飽き始めて拒んだ。
 コスモはぎこちなくも暁とともに過ごす時間を望んだ。なにもしない日をとって、様々な店を回ったり、食事に興じた。暁にとっては少々退屈だったが、コスモはなによりもそれを喜んでいたようだ。
 幻のような日々。戦闘狂のきらいがあった暁にもそれはよいものに思えた。家族がみな笑っていて、生きている。それは暁が戦ってきた大きな理由のひとつだったからだ。

 ひとつだけ、大きく変わったとすれば。
 それは月に一度だけ見ていたあの夢の全容を、覚醒している時にも明瞭に思い出せるようになったことだった。
 すべてが終わったからだ、そう暁は確信した。起きている時に取り出されると都合が悪かったであろう情報の数々。終わったなら、もうそれらは無用の長物になるはずだ。
 己はおよそ半年の間、仲桂と名乗るもうひとりの自分と邂逅をし続けていた。その記憶の数々を暁は昭然と理解し、そしてその意味に気が付いた。
 この幻想めいた日々に、桂が辿り着くことは永劫ありえない、その意味に。

「桂」
 座敷で出会うなり食い気味に話し始める暁に、桂は驚いたようだった。
「太照天昼子を倒したんだ」
「ああ、そうか。そうか、やっぱりやったんだな、やるだろうと思ってたよ」
 祝いの色をにじませ答えるも、暁の顔色は芳しくない。あれほど悲願達成を、昼子打倒を掲げていた暁が、手に入れたはずの喜びにふけっていない。
 桂が眉をひそめると、暁は語り出した。
「全部思い出したんだ。思い出せるようになったんだ。起きていても、ここでのことを」
「それは…、つまり…」
「これがお前の言ってた通りの天界の実験なんだとしたら、それもすべて終わったってことなんだ」
 暁は苦しそうにかぶりを振った。桂は少々唖然とした。彼の語る事実にではない。いつでも壮烈に笑っていた暁がこのような顔をするなんて、信じがたかったのだ。
「もしかすると、この夢はここまでなのかもしれねえ。そんで、俺、呪いを解いて、思ったんだ」
 彼の丸太のような腕が揺れていた。鋭く尖った犬歯がどうにもできない口惜しさに歯噛みされている。暁は桂を見た。
「わかってた。天ノ川と仲じゃ進度も違う。わかってた、お前がどうしようもなく死ぬことは、わかってたつもりだぜ。でも、思ったんだ、お前が」
 眉根が深く刻まれる。親王鎮魂墓よりも深く、ずっと濃い。
「お前が、死ぬんだってこと」
 その言葉は、暁自身の想定よりずっと低く投げ放たれた。形になって、より鮮明になった気がした。細かいことは振り返らないたちの暁が、立ち止まる時間を得て、そして肌でとらえた。
 暁は叶ったが、桂は死ぬのだ。まったく同じ時を生きている。仲一族には、まだ髪を倒すための地力さえ備わっていなかった。桂の戦いは終わっておらず、記憶を持ち越すことはない。この夢が覚めたあと、髪の正体も、お輪にも黄川人にも、その先にある未来にも到来することなく、道半ばに彼は、死ぬ。
 暁の胸を激しい焦燥がかきむしりつづけていた。暁には、朱点童子を粉砕する力があった。今すぐ桂の1025年に訪れることができたなら、かわりにすべてを破壊し尽くせる確証があった。
「俺、神よりつええんだ。強くなったんだぜ。わかるだろ。俺なら、お前らのそのでこっぽちごとぶっ壊してやれる!」
 暁にはすでにない呪いの印が、桂にはまだあった。すべてが溶け込んだこの不可解な空間で、その玉虫めいた光沢だけが、世界の隔たりを残酷にも強調している。思い切り剥がしてやりたかったが、それも叶わぬことがわかっていたから、ただ暁は桂の両の二の腕をとった。
 ぎりぎりとさせるその力に、わずかに顔を歪めるも、桂は咎めなかった。むしろ微笑を、口の端にきざす。
「暁、痛い」
 はっとして放す。そこを軽く手で払ったあと、桂は覚悟してる、と呟いた。
「そうか、この夢も最後か。そんな予感がしてたんだ」
「予感…」
「まだ体調に支障があるわけじゃないけど、体が思うように動かなくなっていってるのは感じてる」
 そして左手で拳を作り、開く動作を繰り返す。その指は白く長く、美しいが、小指の付け根や天文筋が厚くなっていた。熟練の弓使いはみんなしている手だった。
「多分もうすぐだ」
 淡々とした声で桂は告げた。それはどんな槌よりも重く、暁の喉の下にのしかかった。
「今月、鳥居千万宮に向かう。そこからは眉たちの交神に入る。あんたの教えてくれた、三ツ髪に辿り着けるかはわからない。多分、僕が戦場に出るのは、最期だ」
 暁は察する。桂はきっと、ずっとこの終わりを見定めていたのだ。自分が悲願を眼前に見据えて浮かれている間も、ひょっとすると春日の目が潰れた時か、欠けた月を見た時か。あるいはもっと前から、この終わりに向かって歩き続けていた。
「桂」暁はこぼした。「俺は」
「いいんだ。僕はもう、十分やった」
 暁の言葉を桂は断つ。そして、死にゆくことを案じてもらえるなんて贅沢は、なかなかない、と薄笑った。
「死ぬのが当たり前の人生だ。みんなそこに向かって走ってる。それを、当たり前じゃない、なんて言ってくれるやつがいる。実験に巻き込まれた甲斐があったよ」
「桂…」
 肩をすくめる彼の言葉は、強がりにも、本心にも聞こえた。
「いつか言ったかわからないけど、僕らは京にも嫌われてるんだ」
 仲とは、孤独で長い二本の線のような一族だった。無数に瞬き、闊達に伸びていき、個々に潰えては煌く天ノ川家とはまったく違っていた。血の羽を広げることもできず、ただまっすぐに続いていく、ふたりぶんの足跡のような一族。
 桂は憫笑をそのままにした。
「僕は、春日が好きだ。眉や曙のことも好きだ。彼らを最期の瞬間まで見守ることが、僕の残された責務だと、そう思ってる」
「……」 
「だから、僕は行くよ。あんたに案じてもらえて、嬉しかった」
 いやに素直な彼の言葉が、本当に最期であることを、暁に実感させた。今すぐ彼が死ぬわけではないかもしれない。けれどこの夢でもう相まみえることはない。その予感が実感を伴って暁の胸に去来した。
 暁は最強の男だったが、死地に向かおうとする友の背にかけるべき言葉を持ち合わせていなかった。なぜなら暁は、ずっと、守れる者を守ってきたからだ。その自負があった。
 掬いとれなかった命とてあった。特に白羊や母たちの死は、今でも暁の心に深い傷として刻まれている。だけれど暁は、せめて最大の友人である望の命を守ろうとし、そして守り切った。最大限、やった。これ以上ないくらいに。そしてこれからもそうだと思っていた。自分の願いに至難はなく、暁にとって、すべては実現可能だった。
 しかし今、桂が向かおうとしている、その現実が目の前にある。暁には掬えないもの。
 生まれてすぐに当主の指輪を譲り受けた。それは暁の自信そのものだった。今でも暁の指に嵌っている金の装飾。天ノ川を背負い、頭領として命と悲願を託された証。
 だけど桂の指にもそれはあった。似たような、けれどわずかに異なる意匠の指輪。それは、暁とは違う重責を桂が任され、そして誰にも代わることはできないということの、証左でもあった。
 桂は続ける。
「あんたの呪いはもう、解けたんだろ。だから、これからは存分に、人生を謳歌しろ」
 桂らしくない月並みな言葉。彼もそれに皮肉気な笑みを浮かべる。それが照れ笑いであることも暁は分かっていた。それほどここで桂との時間を過ごした。月に一度見るだけの茫洋とした夢だが、2年も生きられなかったはずの身にはありあまるほどの刹那だった。
 あんたは言われずとも、人生を思い切り楽しみそうだけれど。桂はそう言って目を閉じた。
「ずっと言ってなかったことがあるんだけど、」
 そして目を開ける。双眸は暁とは違う、深い青だ。海にも空の色にも見えて、どこか夜空のようでもあった。暁たちが纏っていた揃いの衣装。呪いが解けた今は久しく袖を通されていないそれは、かつて先祖が、永劫ともいえる刻を生きる星を想い、選んだ色だったのだという。
「あんたは、春日に似てるんだ」
 そうなんじゃないかと暁はどこかで思っていた。天真爛漫な女の姿。想像するほかないけれど、暁の脳裏にはそんな姿がよぎっていた。どこか豪放磊落で、無遠慮で、慎重さに欠け、傷だらけで、大槌を振り回す、よく食べる女。桂が彼女について語るたび、まるで自分みたいだなと、暁は何度も思っていたのだ。
 桂のその天の川のような瞳が、柔らかい眼差しをともなって暁をとらえた時、暁は自分の喉から低い呻き声がかすかに漏れることに気付いた。
「行くなよ」
「え?」
「行ったら、死ぬんだぞ」
 手が、知らぬうちに、桂の肩を強く掴んでいた。広くしっかりとしているが、暁のものにくらべればずっと華奢な肩。しかし傷跡は、いくら後衛の弓使いとはいえ相応に負っているだろう。自身と大差ない月齢だということを鑑みればそうに違いなかった。桂は、驚いて暁を見据えたが、やがてもう一方の手でそれを優しく振り払った。
「いいんだ」
 そしてもう一度言った。今度は桂が暁の肩に手を置いた。いつか暁がそうしたように、励ますような、慰めるような、そんな調子で。
「大事なもののために死ぬことができる、それが、悲願に間に合わない僕らに与えられた、唯一の自由だと思うんだ」
 一度、自らの手、暁の肩口に目をやってから、桂は再び顔を上げた。すでに決意しきっている表情だった。暁の拙い言葉ひとつふたつでは、変えられそうもなかった。
「僕は、僕には自由はないと、今までずっと、そう思って生きてきた。けど違った」一度言葉を切って、吸い込んでから、続けた。「生きざまの問題なんだ。自分を強く持てば、いつだってそこは自由なんだって、多分、春日が教えてくれた……そう、そんな気がする」
 それからきっと、あんたにも。
 桂はそう言って目を細めた。
 暁はもう、引き止められなかった。どのみち自分に桂を救う手立てなどなかった。そして、その桂が良いと言っているのなら、もう何も言えなかった。もしこれが望なら、もっと駄々をこねて困らせてやったのかもしれない。けど相手は桂だ。望よりずっと弁が立つ。それだけでなく、桂は、暁自身だった。
「そうか」
 たっぷり間をおいて、ようやく暁は発した。低い声。まだ納得できなかったが、仕方がなかった。
「それに、きっとすぐに死ぬわけじゃない。来月戦死する予定もない。もしかしたら、また夢を見られるかも」
 桂は苦笑して肩をすくめた。根拠のない「もし」を語るのも彼らしくなかった。桂なりの、暁への配慮が伝わった。そんな機構が、この冷めた男にも、ちゃんと備わっていたらしい。
「……そうだな」
 暁はやっと、言い切った。固く瞼を閉じ、空気をいくつか飲み込んで、桂を見送る覚悟を、ようやく固めた。開き、口にした。
「一か八かってやつだな」
 丁半と掛けた冗句を聞き、桂は笑った。
「一か八か」
 そして踵を返し、彼は部屋の襖に手を掛けた。それまでびくともしなかったその襖が何事もなかったかのように自然と開き、桂は臆するでもなく一歩踏み入れる。その闇に消え入る背に、暁は一言だけ呼び止めた。
「なあ!」
 振り返った桂に告げる。
「春日サンに、たまには言えよ、そういうの」
 桂は暁を見て、目を弓形に細め、惜しむように笑んだ。そして何も言わず右手だけ上げると、また背を向けて、今度こそ去った。
 暁は、言わないだろうな、と思った。そして、最後まで黙したまま逝く、桂の姿を想った。

終:エピローグ

 あれからあの夢を見ることは一度たりともなかった。あれが本当に天界の実験だったのか、それともすべてが暁の脳が作り出した虚像なのかはわからなかった。昼子に問いただすすべももうなかったし、作り込まれすぎているとはいえ、なにもかもが存在さえしなかった可能性だってあった。そうであればよいと暁は思い——そして——思い直した。そうでなければよいと。
 あの夢を現実として肯定することは、天ノ川以外の、血塗られた歴史を持つ一族の存在を肯定するも同義だった。だが、暁が肯定しなければ、誰がこの宇宙で桂の死を案じるのだろうと思ったのだ。
 きっと桂の家族は、彼の死を受容したに違いない。己にとって母たちの死が全て、やむを得なかったように。
 責任という言葉を桂はよく口にした。ならば、彼の死を惜しみつづけることこそが、自分の責任だ。
 京の墓地を練り歩いても、仲一族の墓などなかった。だが暁は鏡を見るたびそこに桂の面影を見出した。精悍な細面、色気ある目尻、薄い唇と高い鼻、細い眉。海のような瞳と透けそうなほど白い肌。どこをどうとっても似ていやしないのだけれど。

 何日、何ヶ月か後、暁が家を出ていくことを表明すると、意外にもそれはすんなりと受け入れられた。アンタはひとどころにはい続けられない性分よねと来花が苦笑した。樋掛も同意した。コスモは憮然としていたが、ついに引き止めることはなかった。心の中で侘びながら、暁は荷物をまとめ、その日を迎えて家を出た。
 存外荷物は軽かった。外はよい秋晴れ、出立日和だ。きっと旅立つことで残す悔恨も数多くあろう、けれど止められないと暁は思った。望は手を挙げて、生きてたらまた会おうな、と大笑した。望はいつだって暁をわかってくれていた。魂の半身だった。あの世界で春日がまだ生きているとしたら、あんな笑顔で桂を見送ったのだろうか。
 下駄の特徴的な音を鳴らしながら暁は歩き出した。あてどもなく。
 この広い世界のどこかに桂がいるような気がした。いないのはわかっている。けれどおそらくあちこちにいた。彼が好んだものにある、残滓の数々。いつか仲一族も、うまくやれば辿り着くはずの、地にある理想郷。
 暁はこの世界には存在しない仲桂のことを悼んだ。そして足音の中に彼を見た。
 この世界の頂点に一度到達した。けれど宇宙にはさらなる果てがあることを、暁だけが知っている。いまだ本当の天辺には程遠い。世界は無限に膨張している。その中を、暁は桂を連れて歩いていく。
 暁は天を見上げた。やがて日が暮れて、きっと美しいゆうべが訪れる。すこやかな秋晴れのさらに向こう、昼にも闇にも数えきれないほどの星が瞬いていることを、世界じゅうでたったひとり、今は彼だけが、識っている。