奏葬(サンプル)

 ここは暗くて寒かった。
 羽織を手繰り寄せようとして、衣装箪笥の類ごとそばにないことに気づいた。
 障子もない。そこから覗く中庭の枝葉も。襖も。茶を入れるイツ花の姿も。壁も。そこにもたれかかる、不貞腐れた帳も。風呂を炊くひなたも。彼女の横顔を照らす行燈も。きっちり折り畳まれた蒲団もない。床も。居室の長卓に銅貨を広げてにやつく日光さんもいない。次の祭りの話について花を咲かせる父さんの姿も。——ちがう。ふたりはいないに決まっている。ずいぶん前に死んだのだから。
 朝餉と、獣性のある皮脂のまざった、人間の生の匂いも。垂り雪も。山粧いも。三伏の日差しも。
 ない。
 ちがう。それもちがう。
 死んだのは誰だ?
 僕だ。
 認識が明瞭になった時、眼前の暗闇はより鮮やかになって、僕に溶け込んだ。
 ——天界が極楽浄土というもうひとつの顔を持つのであれば、そこから爪外れた僕が今立つこの場所は、なんと呼ばれているのだろう。瞼を閉じた時に立ち現れる闇と寸分違わないこの、無間の暗がりは。
 地獄道?
 ばかな。
 僕は悪行などしていない。采配の過失を、悪行と定義しないのであれば。
 蝋燭の一本もない晦冥で、ふしぎと僕は、自分が纏っているのが死に装束であることをはっきりと認識することができた。
 晦冥。冥とはよく言ったものだ。
 目には見えない神仏のはたらきを、冥と銘うつことがあるのだという。
 ここが神仏の創りたもうた七道なのだとすれば、どれほど流離おうとも広大無辺に過ぎない、冥やみ。
 尽きぬ永遠の恐ろしさに、ためしに想像を巡らせた。そしてすぐ取りやめた。なにも恐怖のためではない。僕の瞼の下にはもともとずっと、あった気がしたからだ。
 僕はその場に座り込んだ。膝を抱えて、なにもない闇に呆然と眺入った。なんの憂慮もなく。指示されればあてどもなく歩いたかもしれないが、それも僕にはない。もう僕には道標もない。なにもない。からっぽだ。この黒々たる黒のように。
 心配もなかった。残された者への。こういう時に、僕の中にはなにひとつよぎらない。だから日華は、僕のことを冷淡だと詰ったのだ。そうなのだろう、きっと。
 そんなふうに、僕は幾久しい時間を、ここで過ごした。
 だけれども。僕の中の虚無にふいに、よぎらないはずのものが唯一、吹き澄ました。それは記憶だ。手の甲だった、僕自身の。
 なにかに向けられた手。それの甲。これは、死ぬ直前の記憶、だろうか。
 僕は何気なく、同じように腕を伸ばした。そうすれば思い出せると思うてか。
 そのとき、切りのない黒の隅、ちょうど戯れに伸ばした手の甲の左横に、ふと赤い光が走った。
 僕は顔を上げ、まわりを見探った。どこかで炎がちらついている。
 どこだ?
 火の粉を追って、僕は漸く歩き出した。
 小さな火の集まりはやがて激しく極大な炎の塊となって、僕の周辺を真っ赤に彩った。可燃性のものなど有りようもない暗闇を、焼いている。
 その炎の一部が、ぐにゃりと意志を以て小さな人影を描き出した。
 渦巻く燎火の端が金色に揺らめき、癖のある髪のようにうねった。その中央に灯る二つの瞳孔もまた。
 その細い線にはあまりに重いであろう鎧、それが炎の光を弾いて、やはり赤い縁をなぞっていた。
 火は、僕を無視するように奇妙なとぐろを巻いて、現れた彼女の身体のみを炙っている。
 小さな手の上の脂肪がばちばちと鳴っていた。茶か黒に沈んだそこの皮膚が音を立てて、彼女の代わりに泣いている。
 僕は彼女の、くべられた頬を見上げた。
「ずっとここに?」
 日華は目を細めた。「どれくらい経つかしら」
「熱いね、ここは」
「そうね、太陽みたいでしょ」
 炎を巻き続けた彼女は、ほとんどそれを操っているようにも見えた。

(以下、書籍「花民ぐ」にて収録)

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