輪唱(サンプル)

 そんな儀式が存在する、という話が、一族の誰もに実行可能であるのにも関わらず風説めいて伝えられていたのは、それを行わなければならない状況が、きわめて稀な事態に限り、訪れうることはそうない——そしてあってはならない——と思われるものだったからだ。
 事実九年間の歴史の中で、一度たりともそれが行われたことはなかった。儀式の存在を知らぬ者さえ珍しくなかったほどだ。
 だからこそ八代目吉野・蝦夷は、姉のひとりである紫の口から儀式の名がこぼれ落ちた時、問わざるを得なかったのだ。
「なぜ、それを」
「——すでに私たちの力は、神を超えようとしている。そう彼は云ってたんでしょう?」
 紫は悠然と唇に笑みを描いた。
「それが本当だとすれば、これは、私たちに与えられた、最たる神力なのかもしれないわね」
 よかった。彼女は呟きながら、命の潰えかけている息子を、愛しそうな眼差しで見つめた。決行するならば、これから彼女を迎える運命はただのひとつだというのに。
「私がここまで生きながらえた理由が、ようやくわかった。喜んでいるのよ、私。それに、まもなく死ぬはずだった命が、こんな大事なことで、最後に役立てる。こんなにすばらしいことはないわ。だから蝦夷——そんな顔をしないで」
 蝦夷は目覚めない加茂に目を落とし、狼狽した。拳法家の衣装は身軽な格闘を実現するため、極力布を排除した様相をしている。元服前の、その若やかな手足のあちこちには酷い火傷が走り、爛れた肌には本来あるはずの超人的な回復力が兆すことはない。急いで帰還したはずだったが、それでも一ツ髪に焼かれた時分より段階的に薄くなっていく呼吸は、ぐったりした彼をもう、誰もどうすることもできないことを意味していた。
 血を分けた母である、染井紫以外は。
 紫は袖口を、そして居住まいを正すと、膝の前に三つ指をつき、美しい所作で当主たる蝦夷にこうべを垂れた。
「当主様。加茂にはまだ、将来があります。どうかこの紫の命で、彼をお救いください。——反魂の儀の許可を、どうか」
 真っ青な顔で支那実が、紫の背と蝦夷の顔色とを交互に窺い、殆ど叫んだ。
「ねえ、なんなの? どういうこと? 反魂の儀って何!?」

 はじめ、京に降りる前、反魂の儀の存在は太照天夕子から初代吉野に、そして子どもらに伝わっていたのだという。
 しかしいつしかその口伝もなくなり、一族史に目を通す義務のある当主家、歴史を熱心に学ぶ者、そして江戸家の者(彼らは例外だ。先祖が個人的に残した日誌を付け続ける習慣を持っていたためだ)以外への反魂の儀の共有義務も自然と立ち消え、諸判断はその代の当主に委ねられた。
 蝦夷の父は、家族には伝えなかったらしい。いわく彼の父、つまり蝦夷の祖父が「これを使わなければならない状況が訪れたら終わりであり、そうならないよう務めるのが当主の責務だ」との方針を持っていたということであり、彼も倣ったのだという。
 蝦夷もそうした。まさにというところだ。反魂の儀を行うということはすなわち、若い一族が死に瀕し、回復しなかった状況下に置かれたということである。
 決してそんなことがあってはならない。ならないのなら、行うことはない。行うことがないのなら、教える必要もなかった。
 いくら神通力の一端を帯びた染井一族とはいえ、命がひとたび喪われてしまったら、そこで終わりなのだから。

 決断はすぐにしなければならなかった。
 対象者の命が完全に失われてしまう前に行わなければならないというのが、反魂の約束だった。
 奇跡的な復活を全員が願ったが、それが叶わないことは、同等の火傷を負いつつも回復の兆候を見せる蝦夷のすぐ上の姉・珠恵の、別室で眠るその身体を見れば自明の理だった。加茂はまだ四ヶ月だ。珠恵より一歳以上若い。ならばなおさら、回復するはずなのだった。
 いま、土下座する紫の後頭部にかけるべき言葉は、決まっていた。
 だが、蝦夷の喉にべったりと張り付いたように、それは一向に出てこなかった。
 身につけたままの大筒士の戦装束にも冷や汗がにじみ、全身にへばりついていた。
 機構がおかしくなったように汗が止まらないのに、身体は急速に冷えていき、心臓は掴まれたように縮こまっていた。このままもぎとられてしまいそうだ。誰に? ――自分にだ。蝦夷ははっきりと思った。
 挑む機を誤ったのか。いや、ほかの六本の髪は無事に斬り倒したはずだ。なにも問題はなかった。戦力は十分だったはずだ。
 経験不足の年少者を連れていったことが間違いだったのか? それが主旨ではない。熟練の剣使いである珠恵もまた危機に陥ったのだから。
 では、珠恵に養老水を与えたことがよくなかったのか? 加茂に与えるべきだったのだろうか? それこそ珠恵が確実に死んでいたはずだ。彼女の老年期に差し掛かった肉体ではとても、とても、この大怪我には耐えられない。
 ――これを使わなければならない状況が訪れたら終わり。そうならないよう務めるのが当主の責務だ。
 父から教わった、祖父の方針が耳の奥で反響した。
 傍らの手弱女が、江戸家の日誌に綴られていた情報を支那実に早口で語る。耳を澄ました支那実が息を呑む。その会話すら、どこか遠い世界のことのように、蝦夷には感じられていた。そのあいだ、紫は一度も、頭を上げることはなかった。イツ花はすでに礼装を纏い、張りつめた面持ちで紫のそばに控えている。
 手弱女は蝦夷の肩を強く掴み、前後に大きくゆさぶった。
「しっかりしなさいよ! 紫はとっくに覚悟してんのよ。アンタがしゃんとしなきゃダメでしょ!!」
 それでも蝦夷は固まったままだった。冷静沈着で当主然としたはずの蝦夷は、硬直していた。まったく動けなかった。
「蝦夷」天邪鬼で皮肉屋な支那実は、泣きそうになっていた。「はやくしないと、加茂が、紫の子が、しんじゃう」
 それでも蝦夷は動けなかった。
 手弱女は一度加茂に視線を落とし、下唇を噛んだ。歯の下に血の玉ができてにじむ。それを己の舌先で拭うこともせず、眉を吊り上げると、鋭く右手を振り上げ、「蝦夷ッ!!」勢いよく蝦夷の片頬を張った。
 パン!
 白い頬に痛々しい赤みが差す。蝦夷は張られた頬に手を添え、そしてゆっくり、のろのろと顔を上げた。自棄と悲観に沈んでいた瑠璃の目が、ようやく手弱女の、燃えるような緋の目とかちあった。
 そこに怒りはない。あったのは、悲しみと焦りだった。
 支那実は涙を溜めながら、加茂に円子の術を唱え始めている。紫は依然として姿勢を正すことはない。畳に額をすりつけたまま、祈るように静止していた。
 蝦夷は悟った。——悲嘆に暮れている場合では、ない。失う絶望は、ここにいる全員のものだ。
 この状況に至ってしまった、その責任を、とらなければならない。ここで。
 へばりついた喉の奥から、じりと号令が漏れ、呻き声となって落ちた。
「……紫さん。すまない、——たのむ。貴女にしか、頼めない」
 紫は静かに顔を上げた。そこではじめてわかったことだが、彼女の表情は、この一瞬でぐっと老け込んだようにさえ感じるほどの固い緊張に結ばれていた。それが、心底安堵したように解かれて、
「感謝いたします」
 聞くやいなやイツ花はすぐに立ち上がった。水仕事で荒れた指先に金の扇子を掲げ、一言「――よろしいですネ?」と、こわばった口調で紫に告げた。
 紫は微笑さえ浮かべ、頷いた。
「では、皆様」
 手弱女も支那実も、察したように隅へ退いた。
 蝦夷もまた、油を差していない大筒の引金のような動きで後退した。そしてイツ花の舞がはじまる、はじまってしまうのを、拳を握りしめながら、見守った。強く、指ごと潰れてしまいそうなほどに。
 そうして思った。
 ――責任? なにが責任だ! すべての責任を取ったのは、紫さんじゃないか!!

(以下、書籍「花民ぐ」にて収録)

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