玄関扉の隙間に意地の悪い三村の笑顔を認めた瞬間、俺は反射的に扉を閉めようとした。
それがぴったり閉じられる間際、三村のスニーカーがあわてて挟まれる。
「おい、俺は客人だぞ、もてなせよ」
「頼むから帰ってくれ」
口をついて出たのは底をつくほど低いしゃがれ声だった。三村は扉に無理やり指をかけながらも、なお笑みを深くした。
「具合悪そうじゃん。それでこそ看病しがいがあるよ」
「結構だ」
「千草が言ってたのを聞いたんだ。ご両親、ちょっと遅いんだろ」
貴子め。つい恨んでからすぐに取り消す。貴子が三村にそんな情報を垂れ流すわけがない。きっと林田先生あたりとの会話を、こいつの地獄耳が取り拾ったんだ。
「プリントだって持ってきた。千草からの伝言もあるぜ」
なぜ止めなかったんだ、貴子。いやそれも違う。止めきれなかったのだ、おそらく。
俺は乗せうるかぎりの呪いを顔面にたっぷり盛り付けてから、扉を抑える手を緩めた。三村が喜々と開け放つ。
「お邪魔しまーす」
今すぐにでも寝たい。こうして立っているのさえ億劫なのに。
行儀悪く靴を脱ぎ散らかし、勝手に上がり込んでいく三村の背中を見下ろしながら、俺は次に自分の押しの弱さを呪った。
三村は我知り顔でひょいひょいと階段を上がっていった。登ってすぐ右に曲がったところに俺の部屋があることを、彼はめんどうなことに知っている。躊躇いもなくドアを開け、あろうことかベッドにダイブすると、顔を掛布団に埋め、
「ちょっと汗臭いかな?」
「やめろよ…」
情けない制止だけでは止まらない三村を布団から引き剥がした。やっとのことで取り戻した領域にふらふらと横たわる。
三村は手加減なしに捲し立てた。
「プリントどこに置けばいい?」
「その辺に適当に…」
「あと小テストも持ってきたから」
「ああ…」
「千草がお大事にって」
「…」
「それと七原も待ってるって」
「……」
「あと、」
わざとやってるんじゃないか。こいつ。
「…用件は以上か」
「ううん、まだ」
「…なんだ、さっさと終わらせてくれ」
「看病してやるって言ったじゃん」
三村はスクールバッグからさらにレジ袋を引っ張り出した。煩わしい音を立てながら、ローテーブルに中身を雑然と並べていく。スポーツドリンク。保冷剤。プリン。カップアイス。
「…ありがとう」
「礼なんていらないって」
「礼は言ったから、それ置いて帰ってほしいんだが」
「ひどい」
傷つくわ、としなを作られた。なぜ病人の俺の方が気遣わなければならないんだ。
三村はぐちゃぐちゃに布団を掴んで俺をその中にしまい込むと、「まあまあ。あとのことは任せてゆっくり寝てなって」言いながらカップアイスを開けて、付属の木製スプーンで中身をくりぬき始めた。
「あーん」
「…いらない」
「食べないと体力つかないぜ」
木のスプーンが唇の間にねじこまれる。半分苛立ちながら、一口だけ相手してやった。バニラアイスの甘ったるい味が一瞬口内を冷やすも、すぐに掻き消える。それ以上は無理だった。俺がゆっくり咀嚼して、それから口を開かなくなってしまったのを見て、三村はひとしきり再チャレンジを試みたが、やがてつまらなさそうに下唇を突き出し、そのスプーンで残ったアイスをそのまま食べ始めた。
「…うつるぞ」
「俺はバカじゃないから平気」
どういう意味だそれ。
言いたい文句はいくつも思い浮かんだが、どれも体力と天秤にかけて彼方に捨てやった。怠い。頭が重い。指のひとつも動かしたくない。瞼を閉じた途端に、意識も文句の行先を追いかけていく予感が全身に満ち満ちていた。ほとんど意志だけで三村を睨んでいると、空になったアイスカップをゴミ箱に突っ込みながら、探るように部屋を見回す色素の薄い頭がにじんで見えた。
「エロ本とかないの?」
もう、知らん。
俺はどうでもよくなって眠気に身をゆだねた。遠くでさらになにか質問を重ねる三村の声がした。最後の力を振り絞って、言った。好きにしろ。抵抗のつっかえがなくなったと同時に意識は落ちた。
何時間経ったか。闇の中にすっかり沈んでいた意識が自然と浮上した。
少しの間、ここが夢か現実かの正確な判断を下すのに時間を要した。現実らしい。認識してから、徐々にゆったりとまわりが鮮明になっていく。そして俺は三村が訪れていたことよりも先に、額に伝わるゆるやかな冷たさを知覚した。
眠る前よりも幾分軽くなった右腕を彷徨わせながら、額に触れた。冷却シートが張ってある。さっきはなかった。
首を左に回すと、切れ長の愉快そうな両目と視線がかちあった。
「おはよ」
「……見てたのか、ずっと」
ベッド脇に突っ伏す三村は弓なりにその目を細めた。「十五分くらいかな。献身的に看病してやってたんだぜ、それまでは」
うそつけと悪態垂れようとして、俺はカーテンが締まっていることに気がついた。先ほどまで午後の日が差し込んでいた部屋は、いつのまにか、真上に張り付いたシーリングライトに照らされている。
「…今、何時だ?」
「七時頃」
壁時計に目をやりながら三村が答えた。三村が来たのは確か四時過ぎだったはずだ。すぐに俺は眠ってしまったから、それでは三時間も、ひとりでこいつはここにいたのか。
身を起こすと、三村が「飲む?」とガラスコップを差し出した。スポドリに氷がいくつか突っ込んである。
訊きたいことはあったがひとまず一口、口に含んだ。今度はしっかりと、その爽やかな冷温を舌で拾うことができた。美味かった。
「悪いな、冷蔵庫開けちまって。でも好きにしろって言ってたし、いいよな?」
味わう俺を横目に三村がいたずらっぽく言った。なんの話かわからず見つめ返すと、「覚えてねえの?」と返され、それで俺は眠りに落ちる直前なにか言い答えたことを思い出した。あれは家の物に触れていいか、確認するための質問だったらしい。
「なんだ、ちゃんとやって損した」
肩をすくめる三村の向こうのローテーブルに、風邪薬の紙箱が置いてある。
「まさか本当に、今の今まで看病してたのか」
俺はふたたび三村を見つめた。
三村は俺の物言いたげな、あるいは若干感動の宿った視線を、まずしおらしげに迎えた。評価を見直しかけたその時、転じてへらへらと、それを一蹴した。
「せっかくからかおうと思って来たのに、お前すぐに寝ちまうし、しばらく探してみたけどエロ本もなかったし。看病くらいしかすることなかったからな」
「……………帰ってくれ」
俺は掛布団を蹴りつけて起き上がった。三村の肩を反転させようと掴むと、ジョークだって、とじたばた笑ったが、俺の眼界はすでに悟っている。確かに部屋中あさった痕跡がある。こいつ。顔面にまた呪詛が乗った。
三村は少々手向かったが、すぐに力を抜いた。事実、だいぶ長居した自覚はあったらしい。わざとらしく拗ねてみせつつ、自身のスクールバッグを拾い上げた。
「へいへい、帰りますよ」
自らドアノブに手をかけ、回す。その動きがふと止まった。どうしたことかと思えば三村が振り向く。「あ、そうだ。忘れてた」
忘れ物か?
問う前に、わずかに清涼飲料水に濡れていた唇の上に、別の感触を受けた。視界いっぱいに広がる、三村の閉じられた睫。首に回された腕が強まり、歯列を、木のスプーンのかわりに舌が割って入った。舌先同士が触れ、一度だけ絡められて、体ごと離れていった。
満足げに弧を描いた彼の唇が、
「用件って、これ」
そんなラブコールをうそぶいたあと、その上を三村自身の舌がなぞっていった。
「うつしたらなおるって言うだろ」一太刀、にんまり。「じゃ、また学校で」
バタン。三村がいなくなった部屋の中で、階段を降りていく小気味のよい足音をどこか他人事のように聞きながら、俺は感情の置き場を考えていた。立ち消えかかった苛立ちを取り戻すために、床に散り乱れた本に目線を落とし、もうあいつの前じゃプライベートもないのか、俺は。床にどかっと腰かけた。常温になったプリンの蓋を剥きながら念じた。口に含む。これも、舌の上でとろけた。
快復してから学校に向かうと、B組の教室のどこにも三村はいなかった。七原に訊くと、
「風邪引いたんだってさ」
やっぱりあいつもバカなんじゃないのか。
「あいつ杉村んちに行くって言ってたけど、あの時にうつったんじゃないか?」
「……知らん」
「でも」
「知らんったら知らん」
「なんでちょっと笑ってんだよ」
返しの一太刀。