とこしえに

 手に取ると、内部の機構が乾いた音を立てる。箱型のプラスチック製のケースの表面はすっかり曇っていた。変色した黒い樹脂。覗く磁器フィルムには皺が寄り、可用性に対する疑念を抱かずにはいられない。しかし、業者がなめらかで真新しいDVDの円盤を、太鼓判とともに引き渡してくれた事実を鑑みれば、このテープから当時の映像を精確にデジタル化できたことその点においては、疑いは晴れてしかるべきだった。
 大東亜共和国から七原の手にわたった、二十年以上前のVHS。七原はいまだ信じられない思いのまま、ビニール袋越しにそれの形状を確かめた。頭頂葉は、指先が感じる角ばった触覚を間違いなく拾い上げている。これはなによりも丁重に扱わなければならなかった。七原自身のしなやかさと典子の優姿を継いだ息子は柔靭と健やかに育っているが、いつやんちゃを発揮しないともわからない。七原は、ビニール袋から取り出したVHSを入念にもう一枚のビニールで巻きつけ、ふたたびしまい、さらに防湿ボックスに収めて大棚の奥に保管した。
 DVDが仕上がるまでにかかった期間は五日ほどだったが、実際に七原がこうして映像を観るための時間を落ち着けるのにはもう少々要した。いったいどこから漏れたのか、七原の周辺で、この件はちょっとした騒ぎになったからだ。
 極東の悪国で行われていたファシズムの一端を世界が存じるところとなり久しいものの、それ以外はまだまだ、ヴェールに包まれている。
 密輸者の間を奇妙にも渡り歩き、七原のもとに運命的に腰を据えた、一本のVHS。天運を感じたのは、七原だけではなかったようだ。
 まったく、共和国のことになるといつもこうだ。
 七原は心中ごちりたてた。十四の頃だったら、これも非難がてら、ためしに歌にしていたかもしれない。
 外野の期待する資料的価値など、このテープにあるはずもない。DVDケースに貼られたステッカーに書きつけられているのは、まさに暴虐の痕跡を予感させる、無機質な管理番号のみだが——今しがた周到にしまいこんだVHSのラベルにはこう記してあることを、七原たちは知っている。
 一九九六年、城岩中学校二年生、文化祭準備。
 七原が二年生だった時分に撮影されたもの。
 聞くところによると、それは十何年も彷徨い続けていたのだという。うわさを聞きつけてから入手するまでに相応の時や金額や、協力があった。思えばその過程で情報が漏れたって、しかたがない。人の口に戸は立てられない。七原は苦々しげに笑った。いまだに悪夢に見るほどのあの凄惨な三日間にくらべれば、些事だ。
 典子と観ようと思っていたのだが、間の悪いことに彼女は出張中だった。文筆を生業にして長い彼女の日々もまた忙しい。くわえて七原同様に亡命者だ。
 ニセモノを掴まされた可能性だって、まだある。「確認のため、先に観てもかまわないか」と七原はメッセージを送り、つい数十分前に、了承をもらった。
 息子が帰ってくるまえに済ませてしまおう。
 七原はソファに腰かけた。DVDをプレーヤーに差し込み再生する、その人差し指がわずかに汗ににじんだ。
 じりじりとかくつく、あやふやなノイズ。七原をにわかに不安にさせるには十分な時間、液晶が真っ暗な空間を描いたのち、それは唐突に懐かしい外観を映し出した。
 白い校舎。窓のそこかしこから、空き缶や大紙で作られた装飾がはためいている。校門に手作りの大きな看板を立てかける、学生服の子供たち。城岩中学校。その五文字の上下左右を、稚拙だが賑やかな図柄が彩っていた。
 それはハンドカメラで撮られた映像のようだった。不安定な画面が、さらに祭り前の陽気にぐらついた。撮影者であろう男子生徒の声がかすれ、時折途切れながらも、なにか、名を名乗った。七原は眉をひそめた。——今拾い上げた響きは。巻き戻してもう一度聴いた。そして確信する。
「——三村?」
 カメラは校舎の中を映していった。玄関から廊下へ。快活な笑い声を刻みながら、階段を上り、二階に連なる二年の教室のプレートのうちのひとつにピントを定める。二年A組。
 少年の手が引き戸を開け放った。床に広げた紙に巨大な絵を描く女子生徒の集団が、撮影者の名をかしましく呼んだ。
 映像がもぞもぞとひときわ揺れを放った。だれかに撮影を託し、画角の外から飛び込んだ少年。間違いなくそれは、あの三日間に、ついぞ永遠に出会えなかった…
「…三村…」
 こんな容姿、だった。悪夢の中でももはや漠然となってしまった三村の、この世界に留まっていた時の姿がそこにあった。立てつけてセットされた短髪、利口そうな額と切れ長の目元。意地悪そうな相貌、バスケで締まったスマートな背格好。白い粒子越しの画質は、さりとて七原の錆びついた記憶を強引に呼び覚ますのには何不足なかった。女子生徒の輪に入る遠慮のなさも、手を振るこなれたさまも、七原がかつて確かに代えのきかない友人だと認識していたあの、三村信史の持つものだ。
 三村と撮影者は順繰りに教室を回った。廊下の壁面に垂らされた色とりどりな幕やポスターに、黒板全面を使ったクラスの似顔絵、そして縫製途中のなんらかの衣装が液晶を賑やかした。続けて、偲ばれるいくつかのシルエット——三年B組になってしまった者たち。道中でカメラは時たま撮影者自身の姿を映し、七原はこれが、二年の頃の三村信史と瀬戸豊によって収録されたビデオであったことを理解した。
 因果の導きだとしか思えなかった。たむけられた本物の天運と、少年期とともに置きやったノスタルジーに、目頭がゆるんだ。もうこの宇宙にはないもの。小柄だった瀬戸は勿論のこと、三村の体格も、四十になった七原の目にはどこかおぼつかなく見えた。当時の自身にはなかった観点。大人から見ればどこまでも、そこにいたのは第二次性徴期の少年だった。
『二年D組でーす』
『シューヤ、いるかな?』
 スピーカーがそんな言葉を取り拾った。急に名前を呼ばれ、七原は涙のにじんだ目頭を揉んで再度画面に視線をやり戻した。
 扉の向こうには、十四の七原がいた。学生服の七原。傷ひとつない七原。あろうことか、積み上げた机の天板に腰かけてギターを弾いている。画角外の三村を認めると、手を止めて笑った。
 七原は、液晶の放つ青白い光に照りつけられながら眺入った。撮影者とじゃれあう、まだアンバランスな姿。ほころんだ目元と弾んだ口の端。いつまで経ってもレンズの中央を見そめない視線は、撮影者それに注がれているのだろう。自身の笑顔を呆然と解しながら、思う。
 俺、三村に、こんなふうに笑いかけてたんだな。
 映像ががたがたと揺れた。
『七原も俺のこと撮ってよ』
 若やかな声がする。揺動から被写体が消える。そして引き戻された焦点は、やがて三村へと結ばれる。
 七原自身が三村を映し出す。三村が笑う。瀬戸が冗談を放つ。マイクのすぐそばでくぐもった、少年の七原の笑い声がする。青緑がかったフィルターの中で、膜で隔てられた質感の中で、か細い雑音の中で、三村が笑う。ユーモラスな目を細く歪め、野放図な悪餓鬼のように、奇麗なアーチを描く眉をセンセーショナルに吊り上げたり、薄い唇についと嬌然を宿しつつ、十四歳の、
 三村が、笑う。